VOICE:1999年

「新日鉄釜石戦の感想」 原 英之

 印象に残る試合といえば、みんなが多分青学戦を書くと思う。一点差で負けたし、自分のミスでトライも取られた、キックオフも落した。本当に悔しかったし、このモヤモヤした気持ちは一生忘れないだろう。平田の文章も読んだが、ほぼ同じ気持ちだ。付け加えることも別にないので、僕は春シーズンの対新日鉄釜石戦について書く。

 この試合は、1999年度春シーズンの総決算と位置づけられるべき試合であり、東大ラグビー部にとって あまり経験したことがないであろう招待試合だった。ところで、、釜石戦の前週の試合は流通経済大Bとの試合であったが、思わぬ大敗を喫した僕たちは、水上コーチと試合後のミーティングにおいて、「もうこんな試合はしない。」と誓い、死にもの狂いで練習に励むはずだった。

 しかし、釜石戦の週の練習において、僕たちの練習は水上コーチとの誓いにかなうものにならず、水上コーチは憤激して帰ってしまい、コーチとの信頼関係に選手たる僕たちのせいでひびを入れてしまった。そんなことがあっての試合前日の宮古への移動は本当に心苦しいものがあった。まして、釜石との合同練習でFWの核の松岡が首を痛めて出場が危ぶまれた(結局、試合には出た。さすが、松岡)ことも、重苦しさに輪をかけた。

 前日の歓迎会において出た夕食もまともに喉を通らず(宮古の鰹やウニは本当においしい。もっとゆっくり落ち着いて食べればもっと幸せだった)、夕食後に忘れもしないあのミーティングが開かれた。

 そのミーティングを象徴する言葉を短く書けば、「遺書を書け。死ぬ気のないやつは試合に出るな。 死んでも骨は俺(水上コーチ)が拾ってやる。」となる。びっくりした、本当に。今までも必死にやってきたつもりだったが、そんなレベルははるかに超える覚悟を求められたのである。宿舎の部屋に帰り、本当に悩んだ。「俺はジャージを着る覚悟があるのか?」だの、「本当に死ねるのか?」とか考えた。遺書も書いた(内容は恥ずかしくて書けない)。でも、結局ジャージを受け取りに行った。もう開き直っていたし、自分に負けたくなかった。意地だった。

 翌日、試合前に海岸見物(浄土ヶ浜という名前がいやだった)があったり、岩手県知事の挨拶があったり、サインボールの投げ入れがあったりしたが、死ぬ覚悟になっている僕らにしたら、もうそんなことはどうでもよかった。相手を見たら、外国人はいるし(しかもオーストラリアの7人制代表らしい)、全員体がでかかった(とくにFW)。これは本当に死ぬんじゃないかと思った。アップをやっていても体は硬く、不安な気持ちは拭い去れないまま、試合開始の笛は鳴った。

 ところが、である。笛の音を聞くとともに、不安な気持ちが不思議と消え去った。 なぜかは分からない。殺らねば殺られると思ったのかもしれないし、中途半端なプレーをしていたら 他の14人に申し訳ないを思ったのかもしれない。僕は前半のみの出場であったが、自分のプレーはまったく通用せず、チームも防戦一方で、結局大差で敗れた。

 この試合の結果だけを見ると、惨惨たるものがあったが、僕たち出場していた選手にとって得たものは大きい。一つは、釜石以上の相手は対抗戦にはいないがために、初めての対抗戦でも構えることなく臨めたことである。もう一つは、これが一番重要なことであると思うが、自分の精神を限界まで追い込むことが経験できたことである。釜石線の時点では、自分を追い込み、かつ、その上で力を出し切るということができなかったが、この経験によって、対抗戦や筑波戦の前の「地獄の一週間」(もうやりたくない)をやっていく土台ができたのではないかと思う。やっぱりラグビーについて話すと最後は精神論になっちゃうね。

 以上、個人的な感想でした。