ラグビー部リレー日記

秋が来ると思うこと

投稿日時:2020/10/23(金) 13:57

リーダーシップを発揮して2年生の皆をまとめてくれたり、嫌な顔ひとつせず頼み事を引き受けてくれたりと、様々な面でとても頼りになる同期プレイヤーのまつげんからバトンを受け取りました、2年スタッフの榎園琴音です。先日スタッフの間で、「スタッフからの評判いいプレイヤー、大体プレイヤーからいじられてる説(例外はあり)」という説が提唱されていました。彼もその1人です。

 

8日後の10月31日、20歳になります。成人という節目の年であると共に、わたしは(当たり前なのですが)今までお酒を飲んだことがないので、今年の誕生日をとても楽しみにしています。わたしの大好きな森尾登美彦の小説「夜は短し歩けよ乙女」には

「カクテルを飲んでゆくのは、綺麗な宝石を一つずつ選んでゆくようで、たいへん豪奢な気持ちになるのです」

「口に含むたびに花が咲き、それは何ら余計な味を残さずにお腹の中に滑ってゆき、小さな温かみに変わります」

などといった、お酒に関する素敵な記述がたくさんあり、それを思い返しては日々期待に胸を膨らませています。

 

そんな最近のわたしですが、毎年この季節になると、胸が締め付けられるような想いになります。きっかけは、2年前の11月4日。わたしの誕生日の4日後である、母方の祖母の誕生日でした。

 

2年前、高3で受験生だったわたしは、元々のストレスを溜め込みやすい性格もあって、鬱々とした日々を送っていました。私大のAO入試に友達が次々と合格していく中で受験への不安感は日に日に膨らみ、口に入れた食べ物を上手く飲み込めなくなったり、涙が止まらなくて1日勉強できなかったりと、今思うとかなり精神的に追い詰められていました。

 

山口に1人暮らす祖母は当時、肺炎をこじらせて慢性的に入院していたのですが、母はフルタイムの仕事で、わたしは受験で忙しく、なかなか会いに行けていませんでした。

また、祖母は頻繁にわたしにメールをくれていたのですが、わたしは余裕の無さからたまにしか返信できていませんでした。会いに行くのもメールの返信も、受験が終わればちゃんとできるのだから、今は仕方ない、といつも自分に言い訳をしていました。

 

2年前の11月4日には、河合塾主催の第2回東大オープンがありました。秋の冠模試といえば、受験前最後の大規模な模試であり、合格判定がかなり大きな意味を持つ、受験生にとってとても大切な模試です。さらにその日は高校の文化祭の最終日でもあったので、朝から模試を必死の形相で受けたのち高校へダッシュで向かい、終わりかけた文化祭を少しだけ回り…としている内に、わたしの頭から祖母の誕生日のことがすっかり抜け落ちていました。

 

祖母は毎週日曜日に電話をかけてくることになっていて、丁度日曜日だったその日の夜にもかかってきた電話をいつものようにとると、受話器から祖母の悲しそうな声がしました。

 

「今日はばあばの誕生日やけど…」

 

ドキッとし、すぐに謝っておめでとうを言ったのですが、続けて祖母は強い口調で、ずっと連絡を待っていたのに、寂しかったのにとまくしたてました。

 

祖母は本当に優しい人で、その人柄が滲み出ているのか、行く先々で知らない人に話しかけられたり、友達や親戚、職場の人など全ての人から愛されるような性格でした。いつもニコニコと「ええよ」と言うのが口癖でした。たった1人の孫であるわたしは祖母にとても可愛がられており、今までただの1度も、怒られたり責められたりしたことがありませんでした。そんな祖母から初めて向けられた、なじるような言葉と強い口調にあまりにも驚いたのと、大きな罪悪感から来る気まずさで、わたしはそそくさと母に電話を代わってしまいました。

 

なんだかモヤモヤしながらその後の1週間を過ごし、また日曜日にかかってきた電話を取ると、祖母はいつも通りの優しい口調でした。わたしは安心して、来年の誕生日は絶対にちゃんとお祝いしようと心に誓いました。そして、先週の出来事には触れることなくそのままお喋りを続けました。

 

その3ヶ月後の2月25日、祖母は亡くなってしまいました。

 

祖母の入院は、病気の治療のためというよりも経過観察のためという側面が強く、その時が来るのはもっと先だと誰もが思っていたので、突き落とされたような気持ちになりました。

 

そして、受験が終わったらすればいい、と思っていた祖母へのメールやお見舞いが、もう二度とできなくなってしまったことに気づき、この世界にはどんなに悔やんでも取り返しのつかないことがあるのだと知りました。

 

わたしは2年前、あまりにも受験に押しつぶされそうになっていました。そのせいで、祖母の誕生日の少し前に迎えた自分の18歳の誕生日も、当時のわたしにとっては「また受験まで1日近づいてしまった」だけに過ぎず、正直何がおめでたいのかちっとも分かりませんでした。どんなプレゼントよりも、ただ東大合格がほしいと思ったことを覚えています。

 

そんなこともあって、わたしはあの時「誕生日」というものへの感覚が少し麻痺していたのかもしれません。でも、その後無事東大に合格し、大学生になってから迎え、たくさんの人にお祝いしてもらってとても嬉しかった19歳の誕生日を振り返ると、あの時祖母はどれだけ寂しかったのだろうかと胸が痛みます。今自分が誕生日を忘れられたりないがしろにされたりしたらきっと物凄く怒るのに、本当に酷いことをしたとつくづく思うのです。

 

あの日わたしを驚かせた、祖母のきついなじるような口調も、単調な入院生活の中で感じた孤独やストレスが生んだものだったのでしょう。事実、祖母の遺品を整理していた時、祖母が看護師さんにかけられた無遠慮な言葉に傷付き、そのことへの怒りをぶつけたメモがみつかりました。祖母の誕生日以来、わたしが見た2度目の、そして最後の祖母の怒りの感情でした。生前の祖母はそんなことがあったとは口にしなかったけれど、幸せとは言いがたい感情を抱えて寂しく生きていた祖母に頻繁に連絡しなかったこと。常に味方でいてあげることができなかったこと。人生で最期の誕生日をあんな風に過ごさせてしまい、悲しませてしまったこと。そのあときちんと謝り直せなかったこと。全部全部、わたしに一生つきまとう後悔です。

 

祖母が亡くなった時、二度とこんな思いはしてはいけないと思いました。もうたくさんだ、二度と、身の回りの人を傷つけて、後から悔やむことのないようにしようと思いました。

 

でも、まだ道半ばです。

 

恥ずかしながらわたしには、自分で自分の機嫌を取るのが下手くそという、とても幼稚な一面があります。やっぱり今でも時々、自分の味方でいてくれる大切な人たちに対してイライラをぶつけたり、不機嫌になってしまったりします。

 

そうやって感情を爆発させてもそこから得るものは何も無くて、ただ後悔と自己嫌悪だけが残って、冷静になってから1人で落ち込むばかりです。自分があまりにも不甲斐なくて、泣きたくなります。

 

けれど、祖母と同じ血が自分にも流れているという事実が、わたしを少し強くします。

 

2月25日はわたしが東大を受験した日でした。祖母が息を引き取ったのは、最初の科目である国語が始まるのとほぼ同時刻だった、と後から聞きました。まるでそれは、わたしが苦しみながらも東大受験という舞台にたどりついた瞬間を待ってから祖母が逝ったようで、祖母は最後までわたしを想っていてくれたのだなと感じました。祖母は最期まで祖母でした。あまりにも優しい人でした。

 

せっかちなわたしと、のんびりした祖母。つい攻撃的になってしまうわたしと、どこまでも優しい祖母。身長だって、167cmのわたしと150cmもない祖母とでは全く違っていました。正反対ではあるのだけれど、彼女の孫なのだから、わたしも少しずつ成長していって、いつか祖母のような愛に溢れた人になれるのではないかという希望、そして、そうなりたいという気持ちとを抱いています。そうやって生きています。

 

そして、そうなるのだという決意と共に、20歳への一歩を踏み出します。

 

ばあばが大好きです。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

次は、関西弁がとても可愛い同期スタッフのあしゃにバトンを渡します。入学時、地方出身の人たちと出会う中で、飛び交う様々な方言にカルチャーショックを受けたのですが、その中でもあしゃが「○○してはる」と言うのを聞いた時に感じた、「ほんとに言うんだ!」という感動にも似た気持ちをたまに思い出します。地方勢が多い同期スタッフと喋っていると、ついエセ方言を使いたくなってしまいます。

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