ラグビー部リレー日記

救いたい

投稿日時:2025/06/12(木) 02:59

鷲頭先輩からバトンを貰いました、3年の鵜木です。高校の時からの癖で先輩呼びが続いています。喜んでいただけて僕も嬉しいです。自分の考えを持っているのは良いと褒められますが、僕は鷲頭先輩のように柔軟な考え方を持っている人は大人だなと憧れています。鷲頭先輩のように型にハマらない自由な生き方も憧れます。

そしてつい先日の試合からやっと復帰できました。手術してから長いようで短い4ヶ月半のDL生活は総じて楽しかったのですが、これからはラグビーを楽しみたいと思います。手術をしていただいた田崎先生、リハビリをしてくださった笠原さん、一緒に長いDL生活を送ったりんたろー君、金ちゃん、猿さん、玉置ありがとうございました。


人が生きているとはどういうことなのか。人生に意味があるのかないのか。意味があるとしたらいつその人の人生はどのように決まったのか。意味がないのだとしたらなぜ生きているのか。

3年生になり就活が始まりかけている中で、先日、中高の友人と将来の話をした時に言われた。なぜ働くのか、そもそも職につくとはどういうことなのか考えたことはなかった。生活するのにお金が欲しいから働くし、自分の理想とする生活環境を得るための年収を得られそう、理想な生活ができそうな会社の中から自分の興味のある会社を選択するものではあるのだろう。

死んだら何も残らないと言われた。確かに肉体は焼かれ、死後の世界のことはわかるはずがないので物理的には正しいのだろう。何も残らないのであれば人生に意味がないと考えることに妥当性がある。そもそも死んだら終わりの世界であるのに死後の世界を考えている時点で妄想でしかなく現在を生きているとは言い難いのかもしれない。

では本当に人生に意味はないのだろうか。アインシュタインが相対性理論を確立するために生きていたと言われたら人生にも意味があると捉えることができる。天寿を全うできた人の多くはこのように生きていた軌跡を辿ると人生に意味があると捉えられる。一方で不慮の事故等で若くして亡くなってしまう人はどうなのだろう。その人たちの人生は、何も成し遂げなかったから意味がないとするのはあまりにも生きている人側の傲慢で、失礼である。そもそもこれは人によって価値に差があると考えることになり、危険思想極まりない。こう考えると普遍的な人生観を考えると人生には意味がないと考えるほうが良いのかもしれない。たまたま何かの功績を残せた人は「なるようになった」結果であって、最初から意味があったのではないと考えたほうが良いのかもしれない。

そうであるならなぜ生きているのだろう。何も残らないし意味もないのにただ命を与えられたからといって精一杯日々を生き続けているのは何なのだろう。そもそも我々の生命はどこから生まれてきたのだろうか。そして我々が感じている自我、意識とは何なのだろう。宇宙の始まりはまだ未解明で偶然性の要素が強いと言われているが、偶然生み出された我々はいったい何なのだろう。

生きるとはどのようなことなのかと考えること自体は人生の意味を考えているような気もする。人生とは何かを考え続けて生きている人の人生は人生の意味を考えるものであると捉えることもできる。これでは堂々巡りだ。どこかの前提を変えて考え直さないといけない。では死後の世界は知覚できないだけであるのだろうか。あったとして認知症のまま亡くなられた人はどの時点の認知機能に戻っているのだろうか。それとも人は生まれながらに社会に対する何かしらの役割を持っているのだろうか。現代の日本で息をし続ける、肉体を持ち続けるという行為はある程度簡単であろうが本当の意味で生きるとは何なのだろうか。

収拾がつきそうにないのでここでこのお話しはやめようと思います。もっと深く考えて早く自分なりの結論を出したいと思います。


次は2年の目黒にバトンを渡します。会話するのは困難ですが、ダル絡みしても結構返してくれるのは嬉しいです。

 

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