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ラグビー部リレー日記
人生の終わり
投稿日時:2021/12/18(土) 19:00
最近本当にツンデレが激しい吉田からバトンを受け取りました、4年の垣内です。自分から遊びに誘うと嫌がるくせに、彼からは色々と誘ってきます。本当に対応が困ります。彼が一旦部から離れていたときも会うとラグビーの話を必ずしていたので独りでにラグビー部に戻ってくるなと思って(信じて)いました。
自分のラグビー人生を振り返って見たいと思う。内容は長く、つまらないものであるが、最後まで付き合ってもらえるとありがたい。
年中でラグビーを始めた。両親の勧めだが、両親がラグビーをやっていたわけではなく、ただラグビーが好きだったそうだ。小さい頃のことはほとんど覚えていないが、なぜか最初に体験に行った日を少しだけ覚えている。同じ年代の子が楽しそうに走り回っていた。それを見て楽しいと思った。そのラグビーというスポーツが痛くてつらくてしんどいスポーツだとは知る由もなかった。
小学校になると練習が嫌いになっていった。練習で怒られるたびに辞めたい気持ちが募っていった。特に合宿は行きたくなかった。何か事件でも起きて合宿自体がなくなってしまえばいいと思っていた。 以前のリレー日記でも書いたが、とにかく食事の時間が嫌いだった。嫌いな野菜を食べなくてはいけなかったからだ。何回吐いてしまったか、もう今となっては覚えていない。嫌々ではあったが、6年生までラグビーを続けた。理由は三つある。一つは、練習後の達成感だ。嫌で嫌でしょうがなかった練習だったが、それが終わると本当にすっきりとする。逆にサボってしまった日々はずっとモヤモヤが残っていた。二つ目は、みんな頑張っているから一応自分も頑張ろうと思えたことだ。そして三つ目が、単純に親が強引に自分を練習に連れていったからだ。6年生の最後にコーチがいった言葉を今でも鮮明に覚えている。「何かをやめてしまうのは簡単だ。手を上げてやめますと言えばやめることができる。ただ最後まで続けることは難しい。」6年生まで続けてよかったと少し思えた瞬間だった。それでも親には中学でラグビーはやらないと伝えていた。
中学に入ってもラグビー人生は続いた。勝手に親が中学スクールの名簿に登録をしていたのだ。中学に入ると小学校とは違い中学の3学年が合同で練習をするようになる。練習は一層厳しくなり、嫌いな気持ちはさらに募っていった。それでも始めたからには一応続けていた。2年生になると全国大会に連れていってもらった。自分は全く出ていないが、とても貴重な体験をさせてもらった。3年生になると、状況が一変した。これまではA戦に出ることは全くなく、ただ練習をこなすだけだったが、少しずつ試合に出る中でいろいろなことを考え、悩むようになった。単純に練習をすることが嫌なころとはまた違った悩みであった。大変なことも多かったが、スクールでするラグビーは最後であり、ずっとやってきた仲間ともこれでお別れになることを考えるとなんとか続けられたのかも知れない。しかし、正確なところなぜ続ける意欲があったのかもう覚えていない。中学ラグビーの終わりは11年通ったスクールの卒業であり、第1のラグビー人生が終わった気持ちであった。
高校に入るときには、ラグビーを続けることを決めていた。ここまでやったんだから最後まで続けてみよう、それくらいの気持ちだったのかもしれないが、もうラグビーを辞めようとは考えなくなっていた。正直1,2年の頃はあまり覚えていない。問題は3年になった時に起きた(1,2年の頃何もなかったわけではないが、3年の1年間のインパクトが強すぎて薄れてしまった)。同期のほとんどが部活を辞めてしまった。進学校であったため3年になって勉強のために部を辞める人は毎年いたが、自分達の代は例年にない人数が辞めてしまった。夏合宿では、縦割りの部屋であるが、3年生のいない部屋があったほどだ(記憶が正しければ、半分以上が下級生のみの部屋であった)。一時は毎日のように顧問の先生を訪ねて相談に乗ってもらっていた。今思えばただでさえ忙しい先生をあそこまで拘束してしまったのは本当に失礼なことをしてしまった。しかし、それほどまでに悩んでいたのもまた事実であった。キャプテンとは(自分はバイスキャプテン)一緒に悩み、戦った。正直にいうと、キャプテンとは元々あまり仲が良くなかった。しかし、この当時は、心の支えであったし、今では何でも話せる親友になった。秋の公式戦は1回戦敗退で終わった。最初の失点はキックチャージであった。その後、受験勉強に専念し、キャプテン、コーチ、仲間の応援もあり、何とか東大に合格することができた。
大学でもラグビーを続けることは決めていた。東大という伝統あるチームでラグビーができることにワクワクしながら入部をした。1年生のうちはJrにおり、上級生とは別練習を進めていた。上に上がるためにはフィジカルの強化が急務であった。だが、出番は急に訪れた。対抗戦初戦に同じポジションの先輩が怪我をし、2戦目でのリザーブ入りが、決まった。上級生との練習に合流してから2週間後での試合であった。さらに、2戦目の相手は武蔵大学であり、その年ターゲットにしていたチームのひとつであった。最初は緊張から震えが止まらなかった。その緊張が伝わったのか多くの4年生に声をかけてもらった。そこから先のことは全く覚えていない。唯一覚えているのは、足を引っ張り続けたことだ。試合後に監督に呼び出され、「お前のせいで負けそうになったな。」と言われた。この言葉は4年間の糧となった。結局1年生のうちは、途中出場でほぼ毎試合出させてもらった。しかし、ついていくのが精一杯で活躍とは程遠いプレーであった。
2年生になると、スタメンでの出場となった。自分の実力のなさは露呈した。大差での敗戦が続き、全く思うようにいかなかった。うまくいかないと保守的なプレーに走り、成長もせず、辛い日々が続いた。今思うと殻にこもり、負けから目を背けていた。2年生の1年間は体裁ばかりを気にして独りでに思い悩み、迷い、そして現実逃避を続けた1年間であった。
3年生になると、プロコーチによる練習が始まった。少しずつ自信がつき、今年こそ入替戦に出ると意気込んだ。大一番は初戦であった。結果は惨敗。勝てると思い込んでいた。その分結果が重くのしかかった。まだまだ、弱かった。
4年生、最終学年。なんとしても目標を達成しなくてはいけなかった。春は全勝。課題は多くあったものの、まずまずの出だしであった。そして対抗戦。初戦を辛勝し、迎えた2戦目。結果、また惨敗であった。結果4年間入替戦には出られなかった。
4年間目標は変わり続けなかった。目標を持ち続けることが大切だと考え、忘れることはなかった。しかし、目標だけでは何も起きなかった。試合を決めるのは1回の練習の1回のプレーにかける集中力であると考えるようになった。4年間は短い。1回の練習にどれだけ高い緊張感を持って臨めるのか、自分は到底足りていなかった。気づいた頃にはもう終わろうとしている。
今ラグビー人生が終わろうとしている。あんなに嫌だったものも長く続けると愛おしくなる。18年間を思い出すと色々な人の顔が思い出される。本当は1人ずつ名前を上げて感謝するべきであるが、あまりにも多くの人にお世話になったので割愛させていただく。
ずっとラグビーを辞めるなと言っていたのに高校以降怪我をしはじめると逆にラグビーは危ないからやめた方がいいと言ってきた母親。全く逆に、小学校の頃は嫌だったらやめてもいいんだよと言っていたのに今では、社会人になってもどこかで続けるように勧めてくる父親。両親には本当にお世話になりました。未熟な自分を指導し続けて下さったコーチの皆さん、一緒に戦い、支えてくれたラグビー仲間、そしてずっと応援して下さった皆さん、本当にありがとうございます。ラグビーには少しずつ恩返しをしていきます。
次は、「かわいい」を武器に世を渡り歩いている津田にバトンを渡します。1年の頃、彼とはずっと一緒にいました。五月祭もサボって一緒に駒場でウエイトしたのはいい思い出です。同じポジションであることによってずっと意識している部分がありました。また、1年生の頃のように、純粋に、一緒に遊んでくれると嬉しいです。
自分のラグビー人生を振り返って見たいと思う。内容は長く、つまらないものであるが、最後まで付き合ってもらえるとありがたい。
年中でラグビーを始めた。両親の勧めだが、両親がラグビーをやっていたわけではなく、ただラグビーが好きだったそうだ。小さい頃のことはほとんど覚えていないが、なぜか最初に体験に行った日を少しだけ覚えている。同じ年代の子が楽しそうに走り回っていた。それを見て楽しいと思った。そのラグビーというスポーツが痛くてつらくてしんどいスポーツだとは知る由もなかった。
小学校になると練習が嫌いになっていった。練習で怒られるたびに辞めたい気持ちが募っていった。特に合宿は行きたくなかった。何か事件でも起きて合宿自体がなくなってしまえばいいと思っていた。 以前のリレー日記でも書いたが、とにかく食事の時間が嫌いだった。嫌いな野菜を食べなくてはいけなかったからだ。何回吐いてしまったか、もう今となっては覚えていない。嫌々ではあったが、6年生までラグビーを続けた。理由は三つある。一つは、練習後の達成感だ。嫌で嫌でしょうがなかった練習だったが、それが終わると本当にすっきりとする。逆にサボってしまった日々はずっとモヤモヤが残っていた。二つ目は、みんな頑張っているから一応自分も頑張ろうと思えたことだ。そして三つ目が、単純に親が強引に自分を練習に連れていったからだ。6年生の最後にコーチがいった言葉を今でも鮮明に覚えている。「何かをやめてしまうのは簡単だ。手を上げてやめますと言えばやめることができる。ただ最後まで続けることは難しい。」6年生まで続けてよかったと少し思えた瞬間だった。それでも親には中学でラグビーはやらないと伝えていた。
中学に入ってもラグビー人生は続いた。勝手に親が中学スクールの名簿に登録をしていたのだ。中学に入ると小学校とは違い中学の3学年が合同で練習をするようになる。練習は一層厳しくなり、嫌いな気持ちはさらに募っていった。それでも始めたからには一応続けていた。2年生になると全国大会に連れていってもらった。自分は全く出ていないが、とても貴重な体験をさせてもらった。3年生になると、状況が一変した。これまではA戦に出ることは全くなく、ただ練習をこなすだけだったが、少しずつ試合に出る中でいろいろなことを考え、悩むようになった。単純に練習をすることが嫌なころとはまた違った悩みであった。大変なことも多かったが、スクールでするラグビーは最後であり、ずっとやってきた仲間ともこれでお別れになることを考えるとなんとか続けられたのかも知れない。しかし、正確なところなぜ続ける意欲があったのかもう覚えていない。中学ラグビーの終わりは11年通ったスクールの卒業であり、第1のラグビー人生が終わった気持ちであった。
高校に入るときには、ラグビーを続けることを決めていた。ここまでやったんだから最後まで続けてみよう、それくらいの気持ちだったのかもしれないが、もうラグビーを辞めようとは考えなくなっていた。正直1,2年の頃はあまり覚えていない。問題は3年になった時に起きた(1,2年の頃何もなかったわけではないが、3年の1年間のインパクトが強すぎて薄れてしまった)。同期のほとんどが部活を辞めてしまった。進学校であったため3年になって勉強のために部を辞める人は毎年いたが、自分達の代は例年にない人数が辞めてしまった。夏合宿では、縦割りの部屋であるが、3年生のいない部屋があったほどだ(記憶が正しければ、半分以上が下級生のみの部屋であった)。一時は毎日のように顧問の先生を訪ねて相談に乗ってもらっていた。今思えばただでさえ忙しい先生をあそこまで拘束してしまったのは本当に失礼なことをしてしまった。しかし、それほどまでに悩んでいたのもまた事実であった。キャプテンとは(自分はバイスキャプテン)一緒に悩み、戦った。正直にいうと、キャプテンとは元々あまり仲が良くなかった。しかし、この当時は、心の支えであったし、今では何でも話せる親友になった。秋の公式戦は1回戦敗退で終わった。最初の失点はキックチャージであった。その後、受験勉強に専念し、キャプテン、コーチ、仲間の応援もあり、何とか東大に合格することができた。
大学でもラグビーを続けることは決めていた。東大という伝統あるチームでラグビーができることにワクワクしながら入部をした。1年生のうちはJrにおり、上級生とは別練習を進めていた。上に上がるためにはフィジカルの強化が急務であった。だが、出番は急に訪れた。対抗戦初戦に同じポジションの先輩が怪我をし、2戦目でのリザーブ入りが、決まった。上級生との練習に合流してから2週間後での試合であった。さらに、2戦目の相手は武蔵大学であり、その年ターゲットにしていたチームのひとつであった。最初は緊張から震えが止まらなかった。その緊張が伝わったのか多くの4年生に声をかけてもらった。そこから先のことは全く覚えていない。唯一覚えているのは、足を引っ張り続けたことだ。試合後に監督に呼び出され、「お前のせいで負けそうになったな。」と言われた。この言葉は4年間の糧となった。結局1年生のうちは、途中出場でほぼ毎試合出させてもらった。しかし、ついていくのが精一杯で活躍とは程遠いプレーであった。
2年生になると、スタメンでの出場となった。自分の実力のなさは露呈した。大差での敗戦が続き、全く思うようにいかなかった。うまくいかないと保守的なプレーに走り、成長もせず、辛い日々が続いた。今思うと殻にこもり、負けから目を背けていた。2年生の1年間は体裁ばかりを気にして独りでに思い悩み、迷い、そして現実逃避を続けた1年間であった。
3年生になると、プロコーチによる練習が始まった。少しずつ自信がつき、今年こそ入替戦に出ると意気込んだ。大一番は初戦であった。結果は惨敗。勝てると思い込んでいた。その分結果が重くのしかかった。まだまだ、弱かった。
4年生、最終学年。なんとしても目標を達成しなくてはいけなかった。春は全勝。課題は多くあったものの、まずまずの出だしであった。そして対抗戦。初戦を辛勝し、迎えた2戦目。結果、また惨敗であった。結果4年間入替戦には出られなかった。
4年間目標は変わり続けなかった。目標を持ち続けることが大切だと考え、忘れることはなかった。しかし、目標だけでは何も起きなかった。試合を決めるのは1回の練習の1回のプレーにかける集中力であると考えるようになった。4年間は短い。1回の練習にどれだけ高い緊張感を持って臨めるのか、自分は到底足りていなかった。気づいた頃にはもう終わろうとしている。
今ラグビー人生が終わろうとしている。あんなに嫌だったものも長く続けると愛おしくなる。18年間を思い出すと色々な人の顔が思い出される。本当は1人ずつ名前を上げて感謝するべきであるが、あまりにも多くの人にお世話になったので割愛させていただく。
ずっとラグビーを辞めるなと言っていたのに高校以降怪我をしはじめると逆にラグビーは危ないからやめた方がいいと言ってきた母親。全く逆に、小学校の頃は嫌だったらやめてもいいんだよと言っていたのに今では、社会人になってもどこかで続けるように勧めてくる父親。両親には本当にお世話になりました。未熟な自分を指導し続けて下さったコーチの皆さん、一緒に戦い、支えてくれたラグビー仲間、そしてずっと応援して下さった皆さん、本当にありがとうございます。ラグビーには少しずつ恩返しをしていきます。
次は、「かわいい」を武器に世を渡り歩いている津田にバトンを渡します。1年の頃、彼とはずっと一緒にいました。五月祭もサボって一緒に駒場でウエイトしたのはいい思い出です。同じポジションであることによってずっと意識している部分がありました。また、1年生の頃のように、純粋に、一緒に遊んでくれると嬉しいです。
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