ラグビー部リレー日記

超高齢化社会の今を読む

投稿日時:2023/10/24(火) 14:03

 3年生の寿太郎さんからバトンをいただきました、1年の佐藤です。入部して半年が立ち、同期とも仲良くなってきました。(顔と名前は覚えました。)今年の1年生は人数が多いので、みんなで遊びに行くのも一苦労ですが、いつか遊びに行きたいなと思っています。寿太郎さんは、サラダにドレッシングをかけない硬派な先輩です。僕もドレッシングのかかっていないサラダのように、飾り気のないプレーでチームに貢献したいと思います。

 さて、みなさんは1年の谷脇が「超高齢化社会の今を読まない」というふざけたタイトルでリレー日記を書いたのを覚えているでしょうか。別に引退する訳でもない4年の岩下さんに「有終の美を飾らせます」と引導を渡す宣言をして出場した先日の防衛戦では、右腕一本で相手のタックルを弾き返して棒立ちし、自陣ゴール前のピンチでは相手チームのデコイに入るなど、いろいろな才能が爆発している彼ですが、それはさておき、今回はしっかりと超高齢化社会の今を読んでいきたいと思うわけです。

 4月からずっとラグビーをするか迷い続けて結局は入部してしまったわけですが、夏休みの某日に、高校の同期から「『俺、本当はもう一回ラグビーしたいんかなーっ』ていう一瞬浮かんできた感情に流されてしまったね」と言われました。核心を突かれすぎて胸が痛いです。これだけきついスポーツなのに、なぜかまたやりたくなってしまうという中毒性がラグビーの恐ろしいところです。というか、高校でも別にラグビーをするつもりはなかったんですね。後のキャプテンとなった同期に誘われなければ、僕は吹奏楽部にいたはずです。まあ、ラグビー部に入らなければここまで社会に適合できなかったと思うので、結果オーライということです。

 話を戻して、なぜまたラグビーをやりたくなってしまうのか。僕は、その答えは生きているという実感にあると思います。ラグビーの試合や練習はきつくてスリリングです。走り回り、相手にぶつかり、ちょっとでも気を抜くとやられてしまう。自分の心臓の鼓動がバクバク聞こえます。自分の先祖がいつか草原で狩りをしていた頃のような、野生的な動物としての自分が、そこには感じられるわけです。

 でも、私は今ここで間違いなく生きているのに、なぜ今更「生の実感」が必要なのでしょうか。それは、私たちは生きているのに、生きているという実感がないからだと思います。一見矛盾しているように見えますが、少しだけ説明をさせていただきたいと思います。

 昔は、人生には物語がありました。それは例えば、土地に縛られてひたすら農作業をすることかもしれないし、良い行いを積んで浄土に行くことかもしれません。この例で行くと、封建的社会と宗教が人生を意味づけていたということです。しかし、近代化により民主化が進み、また宗教も以前ほどの影響力を持たなくなってしまいました。そうすると、私たちには物語がなくなるわけです。何のために生きたらよいかわからない。言い換えれば、何かのために生きていなければ、生きているという実感が得られない。こうして、どうにかして生きている実感が欲しいというのが、現代人につきまとう欲望になるわけです。

 さらに言うと、これは超高齢化社会の今に特有の課題だと言えます。「昔は良かった」という言葉を聞いたことはあるでしょう。特に、「高度経済成長が続いていて、とにかく頑張って働き続ければより豊かな社会を手に入れることができると、みんなが前を向いていた時期」は良かったなあという文脈で用いられるそれです。つまり、昔はとりあえず国をあげて熱中するものがあり、それが人生に物語を与えてくれた。しかしそのような成長も終わり、本当に自分で物語を編み出さなくてはいけない社会が来ました。自由を与えられた代わりに、選ばなければならないという重荷を背負わされたわけです。よく言われる、自由の厳しさというやつです。

 では、何かに熱中し続ける人生を送れば良いのでしょうか。高校生の時は僕はそれで良いと思っていたのですが、少しおかしなことがあるのに気がつきました。高度経済成長の例でいえば、その前後を比べれば、後の社会の方が確実に豊かになっています。しかし、熱中するものがあるかどうか、という尺度で見るならば、豊かでないはずの経済成長期の方が幸せで、それが終わった今は不幸だということになってしまいます。「熱中」論は、不幸であるという幸せを導いてしまう。そして、今ここにあるはずの豊かさを享受できない。これが問題だと思うのです。

 これは、消費と浪費の違いにも現れます。消費は観念を追い求めることそれ自体に喜びを見出す無限に続く営みで、浪費は必要とされる以上の量を手に入れることで満足を得る、終わりのある営みです。この2つの言葉を使うならば、熱中に生の実感を見出そうとする人々は、人生を消費している。それでは終わりは来ません。我々はもっと、人生を浪費する必要があると思うのです。

 例えば、平安時代の貴族たちは、することがなくなった挙句にずっと月を見ていたわけです。それくらいしかすることがなかった。別にする必要もないことをわざわざするという意味において、これは浪費です。しかし、することがなくなった今の我々は、「すること」を作り出してしまった。それはゲームかもしれないし、漫画かもしれません。でも、一番大きいのは資本主義だと思います。公正な競争で豊かな社会を作ろうという目標を掲げているように見せて、本当の目的は競争そのものにあります。競争するという終わりのない観念を人々に消費させることで、とりあえず生の実感を満たしてあげている。そんな装置が資本主義だと思います。果たしてそのような生は健全なのか。これは本当にそれでいいという人もいれば、違和感を抱く人もいるでしょう。どちらにせよ、どのように100年規模の長い人生を生きるべきかを自分で考えなければならないというのが、超高齢化社会の今を生きる私たちに突きつけられた課題だということです。

 ここでようやく最初に話を戻せば、浪費だの消費だの言わずに、ラグビーによってフィジカルに生の実感を取り戻すというのが、最も原始的で本質的な方法ではあります。6限まで授業を受けた後に部活に行っていた高校でも、ひたすら勉強だけをしていたら気が狂っていたと思います。今思えば、部活で走り回って「俺、生きてるんだなあ」と感じることで、豊かな気持ちになっていたのです。ラグビーにかける思いは皆さまざまでしょう。しかし、根本まで辿っていけば、物語がなくなった超高齢化社会の今において、生の実感を得るための処方箋としてラグビーを選んでいる、そんな人の集まりがこの東大ラグビー部だと思います。こんなことをチームの価値観だと言ったら西久保さんに怒られるだろうなあと思いつつも、一面の真理はついているのではないだろうかと、防大戦を終え疲れた頭と体で考えていたのでした。

 次は、2年生の鷲頭さんにバトンを渡します。鷲頭さんは、すごく真面目な顔をしてものすごく不思議なことを言う先輩です。寿太郎さんの自転車を勝手に使ったのが見つかったときも、すごく真面目な顔をしていました。しかし、フィールドでの献身的なプレーは本当にかっこいいです。あと、鷲津とか鷲巣とかいつも漢字を間違えられていてかわいそうです。僕はそんな鷲津さんの後継者候補であるらしく、光栄に思います。

P.S. ところどころ國分功一郎先生「暇と退屈の倫理学」を参考にしました。興味がある人は読んでみてください。

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