ラグビー部リレー日記

出会い

投稿日時:2024/12/15(日) 03:25

昴からバトンを受け取りました、佐々木です。昴はラグビーをするために東大を志望したという変わったやつで、彼のおかげでうちの同期は多くの仲間が集まり、1年生の頃から彼のラグビー愛がこの学年を引っ張ってきたように思います。私と昴は同じ新歓委員で、メディカルのメンターでもあり、この4年間で同期選手の中では一番長い時間を一緒に過ごしてきた気がします。今年もよくご飯に行って真面目な話もくだらない話もしましたが、昴は何も考えていないように見えて自分の信念と強い軸を持っている人なので、私が弱気になった時に背中を押してくれたこともありました。今までぶりっ子やら赤ちゃんやらといじってしまいましたが、今年は4年としての責任がにじみ頼もしく、赤ちゃんキャラもすっかり卒業のようです。後輩の前で私の顔真似をしてばかにしていたことは全然気にしていないので、安心して今後も仲良くしてください。



ついに自分もラストリレー日記を書く時期が来てしまいました。これまで自分の趣味や思想を語らせてもらってきましたが、ラグビーや部活についてはあまり書いてこなかったので、最後ということで自分のラグビーとの出会いから東大で過ごした4年間について書き残しておきたいと思います。最近同期にも後輩にも私は何を考えているのか分からない、とよく言われるので、自分の考えてきたことを率直に書いたつもりです。身勝手だと思われるかもしれないし、見苦しい部分もあるかと思いますが、どうぞお許しください。



私が初めてラグビーに出会ったのは小学校3年生くらいだったと思う。父がコーチをしていたタグラグビークラブに弟が行っていたので、私も一緒に参加するようになった。ここでのタグとの出会いが私の人生に大きな影響を与えることになる。私が小学校5年生までは週に1回の練習でタグラグビーを楽しむためにやっている感じだったが、小学校6年生になってから県内の強いスクールのチームと一緒に練習して触発されたことで、少人数での平日毎日の朝練がスタートした。それから次第に朝練に参加する人数が増えていって、チームは次第に勝利という目的達成のために一切の妥協を許さない超スパルタ集団へと変容していった。コーチは信じられないほど厳しく(今のコンプライアンス的には絶対にアウト)耐えられずにやめていく人もいたが、ラグビーのスキルや指導は的確で、チームはあっという間に強くなった。私がキャプテンだった年は東北大会に行くことができなかったが、卒業した後も毎日朝練に参加し、弟たちの練習相手になった。私が卒業した2年後に弟たちは全国で3位になり、数年後には後輩たちが全国優勝を成し遂げた。ここでの経験を通して私はただ楽しいだけではなく、本気で努力して上達することの楽しさを知り、スポーツや部活は和気藹々と楽しむ場所ではなく、勝つためにどんな時も真剣に集中した状態でやるものだという価値観が根付いた。同時に自分が表舞台に立てなくともそれをサポートすることに喜びを感じ、これがのちに私がマネージャー業に打ち込むことになる布石の一つだったのかもしれないと思う。



入学した高校のラグビー部の顧問が父の大学の部活の後輩だった、ということもあり、私はもはや必然的に高校のラグビー部のマネージャーとして入部した。しかし、私の高校は人数が少なく、毎年15人揃うかぎりぎりで、当然練習もまともにできないのでタッチフットやハンドリング練習などコンタクトのない練習は私も選手と一緒にやっていた。福島はラグビーの強豪校がないので、人数さえ集まればどのチームにも花園に行くチャンスがあると言えるが、なんせ人を集めるという行為が一番難しい。必死に勧誘して人を集めても、元々モチベーションが高い部員が集まっているわけではないので続けさせるのも至難の業だ。練習で徹底的に追い込まれ、ついていけないやつは切り捨てられていたタグの文化とのギャップは凄まじく、周りの部員との温度差があることは感じていた。それでも私は部員に愛着を感じていたし、なんとかしてこのチームを勝たせたいと思っていたが、3年の春にはコロナが直撃して1ヶ月は学校にも行けなくなり、同期の中には受験を理由に途中で退部を考えている人もいて、15人を集めるのがやっとという状況だった。みんなと一緒に練習するのは楽しかったし、結局同期全員で最後の花園予選までやり切れたことは本当に意味があったと思うが、私ばかりがやる気を出しても周りはついてこず、1人で空回りしている感は否めなかった3年間だったと思う。



大学に入学した当初、両親の影響で運動会の部活に入ることは決めていたが、ラグビー部のスタッフを続けるか、他の運動部に入って自分がプレーヤーとして活動するかは決めかねていた。でも、何回か新歓に行くうちに私はラグビー部の雰囲気が気に入り、気がついたら結局他の新歓もろくに行かずに早々にラグビー部への入部を決めてしまった。高校時代の不完全燃焼感を払拭したい、という気持ちもどこかにあったのかもしれない。



ラグビー部に入部して、高校までとは規模の違う大学の部活の環境や、専門的なスタッフ業務に感銘を受けたのはもちろんだが、今振り返ると私が一番幸運だったことはこの同期たちに出会ったことだと思う。半数近くが大学からラグビーというしんどい競技を始めることを選んだにも関わらず、藤井さんたちジュニアコーチの熱心な指導のおかげもあり、同期のみんなは瞬く間に大きくなり、成長し、彼らのモチベーションの高さやまっすぐさに驚いた。自分が働きかけたことに対して、それ以上の反応が返ってくることが多く、これは高校では一度もなかった経験で感激した。そして彼らとなら本気で頑張る意味がある、絶対にみんなと結果を出したいと強く思うようになった。初めての大学ラグビーの春シーズン、夏シーズン、対抗戦を迎え、自分自身も1年生の途中からレフリーを始めるなど、すべてが新鮮に感じられる中であっという間に一年が過ぎていった。



2年生になって、私はレフリー以外にもメディカルや広報の仕事も本格的に担当するようになり、スタッフとして自分ができることが増えていった。この年の4年生はスタッフも選手も人数が多く、期待がかなり高まっていた中で、成蹊戦は本当に勝てるんじゃないかと思える試合だった。しかし、対抗戦は結局4勝3敗で入替戦に進むことはできず、改めてこのチームが掲げている目標と現実との距離を実感した。元々1年生の頃から学年で立てた対抗戦Aで勝つという目標があまりに高すぎて現実味がないことに違和感を感じ続けていたので、この年スイカを着てすでに試合に出場していた同期と直接話もした。実際に試合に出て戦っている同期が自分たちの目標をどう感じているのか知りたかった。結局学年で話し合って自分たちの目標は毎年更新されていくわけだが、私の心の中には自分たちの代で歴史を変えるためにはどうすればいいのか、ということが常にあり、それが部活を頑張る最大のモチベーションだった。



3年生になって、スタッフは最高学年となり、選手も4年生が少ない中で、本格的に自分たちの代が中心とならなければいけない年になった。2年の京大戦の後にデイビスとあと2年間チャレンジできる環境に感謝して来年はこの代が中心になれるように頑張ろうと話したことを覚えている。しかし実際にシーズンが始まると想像以上に課題が多かった。春はスタッフの人数が半分以下になった中で今までの仕事量をどうまかなうか、新歓がうまくいかなかったらインカレ化も免れない、というくらいには追い込まれていたから、スタッフ新歓は2月から始動し死ぬ気でやれることをやった。幸運にも今の2年生がたくさん入部してくれたおかげでスタッフの人手不足は解消されたが、たくさんの新入生に仕事を教えながら少数の上級生で試合を回していたのでかなりカツカツだった。しかも、私自身はレフリーで外部の試合に行ってチームに帯同できないことも多く、なかなか試合運営に協力できず申し訳なさともどかしさを感じていた。1年間を通して、首脳陣とのコミュニケーションや、スタッフ内部の問題、チームとしても思うような結果が出せず、辞めそうな同期は引き止めなくてはいけない、など問題が次々と起こっていく中で、チームの雰囲気を変えるため、自分たちの代で結果を出すためにはどうしたらいいのかをずっと考え、たくさんの人と話し合った。私はこの一年のおそらく9割くらい、四六時中部活のことを考えては悩み、ほとんど全てのキャパを部活に割いていた気がするし、正直人生でもあまり経験したことがないくらいしんどい期間もあった。だからこそ、たくさん迷惑も心配もかけたけれど自分たちの決断を受け入れてくれた先輩後輩、周りのサポートしてくれている人たち、当時ぎりぎりまですり減っていた私を支えてくれた家族のためにも、何がなんでも来年結果を出さないといけない、という責任を感じるとともに強い覚悟を固めた一年だった。



そしてついにラストシーズンを迎えた。今までレフリーのために外部にも出してもらい、チームを離れることもあった自分がまさかスタッフの責任者になるなんて想像もしていなかったが、この一年でこの立場になったことで自分の中での「スタッフ」としての部活への向き合い方が大きく変化したように思う。今までは、自分が関与していない仕事でミスが起きてもそれは本人たちの責任だと心のどこかで思っていた節があったが、スタッフ長になって首脳陣や他の選手ともコミュニケーションをとっていくうちに、自分の役割は単に自分の仕事に対して責任を負うのではなく、スタッフ組織全員の仕事に対しての責任をとる、ということだと気づいた。それから、スタッフ内で起きるミスや問題は全て自分事として捉えて、ミスを防ぐために自分の働きかけに何が足りていなかったのかを考えるようになった。スタッフ組織全体を成長させるため、毎月の目標設定と上級生との面談、ミスを減らすための呼びかけや話し合い、本質ではないが手段としての罰則やルールづくり、できるだけ全員の意見を聞き、取り入れながらみんなで最適な体制を模索しようと試みた。選手とスタッフの垣根を越えて互いが要求し合えるような関係を作ることも目標の一つで、選手からの要望にはできるだけ向き合い、こちらからも選手に変えてほしいことは伝えてきたつもりだった。春シーズン、夏合宿としんどい練習を選手とスタッフみんなで乗り越え、確かな手応えと周りからの期待を背負った対抗戦が始まった。しかし、結果は4勝3敗で東大は対抗戦B4位となり、この代はまたも東大の歴史を変えることができなかった。できることはやり尽くしてきたつもりだったが、それでも入替戦という目標には届かなかった。この4年間、この同期たちと歴史を変えるということだけを目標にしてやってきたからこそ、明学戦後、武蔵戦後の悔しさと喪失感は言葉にできず、気持ちを切り替えることは非常に難しかった。正直今でも心の底から悔しいという気持ちを拭い去ることはできないし、これはもうこの結果が変わらない以上どうしようもないものだと思う。このままでは悔しくて終われない、もう一回、もう一年チャンスがあれば、と思わないこともないが、学生スポーツというのは4年間限りのもので、この限られたチャンスで挑戦することに意味があるとも思う。以前自分のリレー日記でも触れたが、毎年4年生のラストリレー日記を読むたびに自分は「目標は叶わなかったけれどなんだかんだ頑張ったので良かった」的なことは絶対に書きたくないと思っていたのに、結局同じような立場になってしまったことが本当に悔しい。



東大に入学してからの4年間を振り返ると、私も昴と同じく(というかこの部にはたくさんいると思うが)、東大まで来て勉強もせず、大学生らしい遊びをするわけでもなく、ほぼ部活しかしていなかった、変なやつだ。今思うと、東大ラグビー部も私の高校時代のラグビー部と規模が違うだけで本質は結局同じだった。普通入学する時に東大に入って部活に全てを捧げよう、なんて思っている奴はほとんどいない。そもそも最初からラグビーをやろうと思っている奴なんてほぼゼロに等しいし、それでもどうにか騙し騙しで入部させるが、そこから死ぬほどしんどい練習を乗り越えさせる、モチベーションを維持させるのは非常に難しい。どうしても途中で辞めてしまう人も出てくる。これはスポーツ推薦などなく、たとえ入りたくても受験でラグビー経験者がどんどんふるい落とされる東大では致し方ないことだろう。だから結局まずはとにかくこの部に入る母数を増やすこと、そしてしんどくて辞めそうなやつも必死に繋ぎ止めて残らせる、ということをやらないといけない。毎年必死に新歓して、辞めそうな同期や後輩を引き止めて、結局東大にきても高校の時と同じことをしていたなあ、と思う。私はあの頃の自分と比べて、何か変わったのだろうか。



この4年間の意味は今すぐには分からないだろうし、とにかく頑張ったからそれでよかった、というような薄っぺらい言葉では片付けたくない。でも今後の人生でこの経験や選択を正解にするのは自分自身だし、私はここを選んで正解だった、ということは自信をもって言える。引退間近の老害の戯言ながらに、今の、そして未来の後輩に伝えたいことは、とにかく人を、一緒に戦う仲間を集めろ、ということと、このラグビーという素晴らしいスポーツに出会い、東大ラグビー部に入る、という選択をしたあなたは絶対に間違っていないということだ。 



最後に私を4年間この部活に夢中にさせてくれた最高の同期たちに。みんなに出会って一緒に同じ目標を追うことができたことがこの4年間の一番の財産です。おっとりしていてゆるふわで、でもラグビーに対しては真面目で大学生とは思えないくらい純粋で素直なみんなとだったからこそ、私もここまで頑張ることができました。本当にこの代でよかったと心から思います。引退してもずっと大事な仲間でいましょう。



次は見事面白さランキングNo.1の座に輝いた清和にバトンを渡します。清和は普段は人の話を100倍は盛ってみんなに広めるし、いつも本気なのかネタなのか分からないトーンで絶妙に失礼なことを言ってくるふざけたやつですが、彼の部活に対する熱意や意識の高さは紛れもない本物で、練習中と練習外のオンオフがきっちりしているところはとても尊敬しています。今シーズンも清和のパワフルなプレーに何度も会場が沸いていたし、肩が万全ではない中、チームを引っ張ってくれてありがとう。私は清和独特の笑いのセンスが好きで、私生活でいくらだらしなくても清和節で誤魔化されるとなぜか許してしまう部分があるのが悔しいです。そういえば今思い出しましたが、何年も前に貸したエアビ代もまだ返ってきていないような気がします。来年は私と同じく彼も留年暇組なのでみんなで旅行でも行きましょう、北朝鮮とルワンダはさすがになしです。



 

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