ラグビー部リレー日記

桜咲く

投稿日時:2024/12/18(水) 12:46

清和からバトンを受け取りました4年の塩谷航平です。彼は本当にふざけたやつで、確かに深い話をした記憶が全くありません。くだらない話でいつも笑っている清和を見ていると自然と笑顔になってしまう、不思議な力を持っています。そんな彼ですが、本気になると非常に頼りになる男です。試合中のキャリーで会場を沸かし、誰よりも体を張る清和のタックルに何度も救われてきました。狙った獲物は絶対に逃さないその姿勢は漢そのものです。そんな漢・清和の人生観を、ぜひ今度聞かせてください。
 

清和からの紹介文に、怒ったら怖いと書かれていましたが、滅多に怒らないので安心してください。むしろ笑っている方が圧倒的に多いです。ただ、心の奥底から込み上げてくる熱いものに突き動かされやすいという点では、あながち間違ってはいないかもしれません。
 

野球しかやったことのなかった私が、ましてや高校時代は文化部でスポーツから離れていた私がラグビーを始めたきっかけは、昴に誘われて行った新歓の時に聞いた現主将・吉村のある言葉にあります。それは「経験者を超えてグラウンドに立ちたい」というもので、この時、私の心の中に燻っていた何かが弾けました。もう一度、スポーツに打ち込んで夢を本気で追いかけてみたい。そして、それをこの熱い同期がいて、先輩達も上を目指して本気で挑んでいるこのラグビー部の一員としてやりたい。そう思えたのが入部のきっかけでした。 
 

しかし、その道は決して甘いものではありませんでした。当時の4年生に片手で持ち上げられ、タックルをすればたちまちバーナーで手が痺れ、肩も外れかけていて、この先やっていけるのかという不安が積もっていきました。そんな不安の中、2年生の春にBBCが始まったのです。とにかく頑張るしかないと思い、必死にダミーを押し、ウォークADという名の肉弾戦ではがむしゃらに分厚い壁の中に飛び込んできました。この時はきつすぎて、毎晩必ず夜中の2時ごろに眼が覚める不思議な経験をするほどでした。それでも必死に喰らい付いていた矢先に、一年生のロックですごいやつが来るらしいという噂を聞いて、なんとか遠ざけていた不安が一気に押し寄せてきました。今となってはそんなもん努力してそいつを超えれば良いだけと思えますが、不安の中にいた当時の自分は休部という選択をとりました。そのため、綺麗な駒場の桜を私はあの時見ることができませんでした。休部の理由は皆には野球部と迷ったからと伝えていて、勿論それもありましたが、この不安が一番の理由でした。このまま試合に出られずに終わるくらいなら、まだまだ衰えていなかった肩を使って野球をやった方がいいのではないかと思っていました。そんな自分の考えを変えてくれたのは仲間達で、いろんな仲間から声をかけてもらいました。中でも、昴と大西さん、國枝さんと話した時、私は思わず涙を流してしまいました。これだけ想ってくれている仲間がいる。そのことに心が動かされ、この仲間と最後までやり遂げたい、この仲間のためにできることをしたいと心の底から思うようになりました。結局噂のロックはラグビー部に入らず心配は杞憂に終わったのですが、この休部していた期間はとても貴重な時間でした。
 

そこからは「経験者を超えてグラウンドに立つ」という夢に立ち返り、これまでの分を取り返そうと必死になりました。そして、ついにA戦デビューを果たすことができました。初めてのA戦が帝京で、しかも105分出場とかなりハードでしたが、まだラグビーを始めて一年の自分がテレビで見る選手達と試合をしているということが嬉しくてたまりませんでした。そしてその後も明治にボコボコにされ、早稲田に負け、とタフな試合が続きましたが、当時の先輩達とするラグビーが、特に毎週必ず100回組んできたスクラムで相手を圧倒する瞬間が幸せでした。フォワード8人全員の気持ちが一つになって相手を崩し切るスクラムが、私はロックながら一番好きです。この年は怪我を繰り返して対抗戦に出ることができなかったのですが、最後の名古屋・京大戦で復帰しました。特にエコパスタジアムで行われた京大戦は、先輩達とできる最後の試合ということもあり過去最高に気持ちが入っていましたが、負けてしまいました。試合終了後のグラウンドで、ずっとスクラムで前後を組んでいた笹俣さんと涙の抱擁を交わし、次は必ず勝つと約束をしたことを今でも覚えています。
 

3年生となり、試合に出続けていることに驕りが出てきて、次第に自分としてもプレーがうまくいかず、悩むようになってしまいました。今振り返ってみると、自分にとって最悪の時間で、今からでも戻ってやり直したいくらいです。しかし、これは慶應戦後の青貫監督の言葉で変わることができました。それは「どうせ感情は忘れる。それが人間というもの。悔しければ今すぐ行動を変えろ。」というものです。その時から、今できることをとにかく思い立ったらすぐ行動する自分に変わることができました。この青貫監督の言葉は、是非とも後輩達に伝えていきたい言葉です。特に怪我をしている時期はもどかしさを感じることも多いと思いますが、とにかく行動することが大事です。きつくてもまずやってみる。そのうち、きつさが復帰後の希望に変わり、仲間への想いへと変わります。それを信じてきついトレーニングを頑張って欲しいです。そして、この年の終盤になると学年でチームの方針について揉めることが多くありました。この時自分が立ち返ったのは、「この仲間と最後までやり遂げたい、この仲間のためにできることをしたい」という気持ちでした。それまであまりラグビー部のミーティングで発言することはありませんでしたが、学年ミーティングの方向性がずれそうな時はこの気持ちに突き動かされてわずかながら意見を投げてきました。結果的にチームは同じ方向を向いて走り出し、より一層団結が強まった気がしました。
 

3年の末から、4年の今にかけて怪我を繰り返して満足にラグビーができない時間が続きました。その時に自分の支えになったのは「仲間の存在」と「とにかく行動する」ということでした。長く暗いDL生活は苦しかったですが、仲間と入替戦出場の夢を叶えるその日を夢見て重い体に鞭を打ってとにかくトレーニングを続けてきました。そして、念願の復帰は夏合宿のタイミングでした。この時は他のすべてを忘れ去り、一ヶ月間ラグビーに没頭しました。同じ夢を持つ仲間と24時間共に過ごし、ラグビーをする日々はとても幸せでした。この合宿の最終戦、山梨学院戦では勝利を収め、ノーサイドの笛が鳴ると自然と涙が零れてきました。みんながラグビーをしているところをずっと横目にみていた苦しい期間を乗り越え、仲間とラグビーができていることに感情を抑えることができず、皆に見えないようにするのが精一杯でした。そんな折、またしても怪我をして対抗戦に満足に出場することができませんでした。ドクターから「今シーズンは無理かな」と言われた時は絶望しかけましたが、ここでも立ち返ったのは「この仲間と最後までやり遂げたい、この仲間のためにできることをしたい」という気持ちでした。本当に小さなことしかできていませんが、それでも自分なりに仲間のためにできることをしてきました。自己満足に過ぎないかもしれませんが、それがチームに貢献できる唯一の方法でした。そして何よりも、皆が対抗戦で勝ってくれることがとても嬉しかったです。皆が躍動する姿は私の力になっていました。本当にありがとう。
 

成蹊戦・明学戦・武蔵戦では入替戦出場という夢を果たすことができず、そう簡単に立ち直れるものではありません。しかし、幸い私たちにはまだ名古屋戦と京大戦が残っています。夢破れた悔しさ、そしてこの一年間プレーでチームに貢献できなかった悔しさをこの2戦に全てぶつけたいと思います。2年前に笹俣さんと交わした約束を絶対に果たして、東大ラグビー部の一員としての意地を見せます。
 

この4年間で人間として成長させてくれたラグビー部とそのご支援をしてくださっている方々、そしてラグビーに挑戦することを後押ししてくれた両親には感謝してもしきれません。これから少しずつ恩返しをしていきたいと思います。
 

次は辻にバトンを渡します。彼もまたふざけたやつですが、なぜか憎めない存在です。なんだかんだで部内随一の愛されキャラだと思っています。そんな彼は、一年生の頃にトレーナーさんにいじめ倒され、最近もまた別のトレーナーさんにいじめ倒されています。でも、ぶつぶつ文句を言いながらも真面目にトレーニングをして成長した彼のそういうところだけは尊敬しています。

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