ラグビー部リレー日記

弱さと後悔に向き合って

投稿日時:2024/12/27(金) 22:30

東大ラグビー部史上初の女性主務という大役を完璧に務め上げ、すでに来年度のオファーも届いていると噂の美浦瑶子からバトンをもらいました、今年度副将の池上暁雄です。瑶子は、忙しさに合わないフットワークの軽さと誰とでも仲良くなるコミュニケーション能力から、後輩に慕われご飯にも頻繁にいっています。こないだは、フラッと栃木までドライブに行っていました。

3年生のリレー日記で以前紹介した時には、既に幸せを手にしていた瑶子は、幸せのお裾分けとして変わらずプライベートの面倒を見てくれています。2回目の交流会は惨憺たる結果に終わりましたが、ぜひ次回をよろしくお願いします。食べ物は自分で調達するので、出会いをください。



以前のリレー日記で、ラグビー部総決算は最後の一回に、と宣言していました。乱文にはなりますが、最後までお付き合いください。



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振り返ると、このシーズンは自分本来の精神的な弱さとの戦いだったと思う。



小学校を最後に受験から遠ざかり、のびのびとした競争の少ない環境の中で育った。自分の重ねた努力に対して、一定程度の成果は生まれる。部活動では、順番待ちをしていれば順当にレギュラーは回ってくる。中学野球では、自分の代になるとレギュラーで出ることができたし、高校で始めたラグビーも周りには同じ初心者しかおらず、体が大きく少し動けた自分はすぐスタメンになれた。そんな環境にいた中で、自然と適当な努力を覚えていった。一番上になるまでの努力はせずに、目に見える成果が出ただけで満足してしまっていた。



東大ラグビー部に入ってもそれは変わらなかった。小学校から続けていた野球に限界は見えていたし、それならばまだ活躍できそうなラグビー部で試合に出たい、と打算的に入部を決めた。実際に、人手不足のPRになることで、ラグビー理解度も強さも追いついていない自分ながら、ありがたいことにスイカの18番を着る機会を早くからいただけた。しかし、試合に出られる時間は限られており、決してパフォーマンスを出せたわけではなかった。振り返ると、4年生からポジションを奪うことの大変さに心のどこかで諦めを感じ、真の限界まで追い込んでいなかった。スイカを着ることに満足して、スイカの3番に向けて本気になりきれていなかった。



3年生になり、スイカの3番の順番は回ってきた。4年生の少ない代だったので、順当に行けば次の3番は自分だった。ただ、そこでもやりきれない根っからの弱さが出た。春シーズン前の体調管理フォームの提出数ワースト2位。当時HCの大西さんに呼ばれ、「規律を守れないと示しがつかない」と叱られた。情けなかった。チームを一番に考え、弱い自分と決別しようと心に誓った。



そして、春シーズンから試合に出続けさせてもらった。自分で掴み取ったと言い切れないスイカの3番だったが、身につけると責任や重みは、否が応でも感じた。自分の一個のスクラム・モールに、チームの勝利が懸かっていた。しかし、強い気持ちとは裏腹に、ありえない敗戦、怪我での離脱など、100%をチームに捧げることはできなかった。4年生に対して本当に申し訳なかったと同時に、自分の代ではこの思いをしたくなかった。



そして、ちょうど去年の今頃、副将に就任するにあたって同期の前で決意表明をしたのを覚えている。「ハードワークして、背中で引っ張る副将になる。」それまでの3年間、同期の中では多く試合に出ていたし、4年生になってFWとチームを引っ張っていきたい、と副将に立候補した。少し強引な決まり方だったけど、選ばれたからには全身全霊をかけて、口下手な自分がどうやってチームをリードするかを考えて、理想像を定めた。勝手ながら、2個上の副将だった松元さんをイメージしていた。



実際、1,2月はいいスタートだったと思う。体制が大きく変わった中でも、4年生を中心に全員で運営し、体づくりに取り組んだ。自分もチームに100%でコミットできていた。



ただ、春先に怪我をした。全てはこれから始まるはずだった。破竹の勢いの春シーズンも、タフながら成長する夏合宿も、入替戦出場を決める歴史的な対抗戦シーズンも。直後のリレー日記では明るく振る舞っていたが、正直心に来ていた。DLに入り、全てから取り残されたような感覚に落ちた。自分がスタート地点に戻ろうと必死な中、他の選手は新しいDEFシステムやピックゴーATTで、チームを作り上げていた。背中を見せて引っ張るはずの自分は、周りの背中を見ながら過ごす日々だった。



この頃の自分は感情がぐちゃぐちゃになっていた。



試合に勝つのは、共に喜びを分かち合う仲間に戻れたような気がして嬉しかったが、その喜びは一瞬だけ。しかも、純度100%ではなく、その一抹に寂しさや嫉妬や悔しさやらが入り乱れた、複雑な感情だった。とくに、試合前の円陣と試合後の片付けの時間に喜びはなく、辛さしかなかった。別に自分がいなくてもチームは回るし、問題なく勝つことができる。その事実を突きつけられていた。祝勝のご飯に行く同期たちに、何もしていない自分がついていくのは後ろめたかった。



一方で、やるべきことは明確だった。副将としての理性が、一度決めた理想像が、どうあるべきかを規定してくれていた。自分の出ない練習でも、チームの方針理解のためにビデオを見なければならなかった。自分の出ない試合でも、あくまで情報として入ってくるだけだったが、それぞれの動きを見て、評価を下さなければならなかった。



ただ、揺れ動く自分の感情にも向き合いきれない自分は、責務を完璧には果たせなかった。ビデオの大枠を見てわかった気になっていた部分もあった。試合の映像は擦り切れるまで見るべきだった。必要があれば、チームメイトに強く指摘しなくてはならなかった。やるべきことがわかっているのに、やり切らない自分に嫌気がさして、部内での自分がどんどん小さくなっていく様だった。最初の方は心掛けていた、メンバー選考の説明もどこか疎かにしてしまっていた。ミーティングでの発言も減っていった。自分が副将である意味を見失っていた。最後までやりきれない弱い自分は、ここでもまた顔を出してきた。ただ、投げ出すわけにもいかず、主将の寿太郎と練習長の奥山に大きく助けられながら、なんとか喰らいついていた。



幸いなことに、夏合宿の終わりに復帰の兆しが見えた。ただその頃は、山梨学院大学戦を完勝で終えていて、Aチームは自分を必要としていない様にも感じていた。そのため、周囲にAでの出場を納得させるためにも、パフォーマンスを出して自分の価値を証明しなくてはならなかった。結局、練習に復帰してからはそれまで以上に余裕がなくなっていた。



学習院戦。後半3試合を見据えてそこが復帰試合に決定した。この時点で、失っていた余裕を取り戻すことができたと思う。正直パフォーマンスを戻し切ったとは言い難いが、一聡さんからの勧めもあり17番での登録になった。このせいで、外れた本多には本当に申し訳なかったが、それまでで一番集中して試合に臨んだ。結果は概ね良かった、がまた怪我をした。結果は4週間安静。悲しみや自分への怒りもあまり感じられないほど、ショックだった。また、チームに置いていかれる。そんな恐怖感しかなかった。成蹊戦の復帰に向けてできることは全てをやったが、一度得た冷静さは、またどこかに消えていた。



それでもなんとか、個人としてもチームとしても成蹊戦はいいイメージで迎えられたと思う。しかし、結果は負け。ここから、何か歯車が噛み合わないまま進んでしまった様に、今振り返ると思う。チームともっと深く話し合うべきだった。自分が何を考えているのか、相手が何を思っているのか。弱い自分はそこから目を背けてしまった。本当の意味で一つになるチームを作り上げる、リーダーシップを発揮できなかった。



この文章を書きながら、数々の後悔が浮かんでくる。もし上位校に勝てていたら、もし怪我をしていなかったら、もし今年一年をやり直せるのなら、なんて陳腐な「もし」をずっと考え続けている。対抗戦が終わり、余裕ができたことで一人考える時間は増えて、その思いはどんどん強くなっていった。そんな折に、昨年度副将の安冨さんと話していて、胸を張って「昨シーズンに後悔なんて一個もない」と言われた時、深く刺さった。こんなに真っ直ぐ言い切れるほど、自分はこのシーズンをやり切れなかった。弱さと向き合いきれなかった。



後悔しかなかったので、入替戦も見に行けなかった。決して勝てない相手ではない成蹊や明学が熊谷で試合しているのを見ると、今までの自分が全く足りていないことを嫌でも理解してしまうから。4年間の日々で自分が弱さと向き合いきれずに成長できなかったと感じてしまうから。本来は、その苦さすら飲み込んで、入替戦に行くべきなのだろう。最後まで弱かった。



目標を達成できなかった自分たちは、おそらく一生消えない何かしらの後悔を背負ってこれから生きていくのだと思う。



ただ、それでも最後の思い出は、喜びに溢れた美しい記憶にしたい。

試合を終えたその瞬間くらい、いい4年間だったと胸を張って言いたい。

自分がやってきたことの証明を、歴史に刻みたい。



そのために。

最終、京大戦。

勝って泣こう。



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駄文でしたが、赤裸々な自分の気持ちです。



最後になりますが、この4年間関わってくださった全ての方に深くお礼を申し上げます。皆様のサポートなしには、大学ラグビーをやりきることはできませんでした。本当にありがとうございました。



大西さん

大学ラグビーのイロハは、全て大西さんに教わりました。こんな情けない自分ですが、期待して早くから使ってくれたこと本当に感謝しています。菅平で復帰に苦しんでいた時も、焦って目標を見失うなよ、とお電話をくださったおかげで、気持ちが落ち着きました。



一聡さん

急で無茶なHCの依頼を受けてくださり、ありがとうございました。チーム戦略に一聡さんが適切なアドバイスをくださったことで、今年のチームが完成しました。菅平での牧場に連れていっていただいたこと、クレープを食べたこと、いい思い出です。



青山先生

怪我をした自分にもチームできることがあると毎週ミーティングのたびに励ましてくださったこと、復帰への大きな力になりました。ジャージ授与式の力強い握手も、試合前の励みになりました。



田崎先生、工藤さん、笠原さん、上岡先生

大きな怪我からの復帰の面倒を見てくださり、ありがとうございました。全てが順調というわけではなかったですが、細やかなサポートを受けられて、無事に復帰することができました。



先輩方

自分に優しく指導していただいたこと、本当に感謝しています。特にフロントの先輩にはスクラムの細々したアドバイスをたくさんいただきました。そのおかげで、今の自分のスクラムがあります。京大戦、教わったスクラムで圧倒していきます。



後輩たち

頼りなく、ほとんどグラウンドにいない副将でしたが、復帰後暖かく迎え入れて、ついてきてくれたこと感謝しています。特に、DLにいる後輩たちへ。孤独や置いていかれる感覚を覚えることもあると思いますが、諦めないでください。ラグビーを楽しめるその瞬間は必ずきます。



同期たち

大好きです。この仲間で本気で入替戦出場を目指せたこと、4年間ラグビーに没頭できたこと、部室で喋ったこと、ご飯を競い合って詰め込んだこと、全てが幸せでした。あと80年くらいでしょうか、死ぬまで付き合ってください。



両親

二人のサポートなくして、ラグビーをすることはできませんでした。最後の方は怪我ばっかりで迷惑も多くかけました。試合を欠かさず応援してくれて、栄養満点のご飯を作ってくれて、時には厳しく叱ってくれて、ありがとう。まだ修士なので実家を出ていくことはありませんが、少しずつ恩返ししていきます。



次は、令和6年度東京大学ラグビー部主将、吉村寿太郎にバトンを渡します。寿太郎は文字通り大学生活全てをラグビーに捧げた、ストイックで頼りになる漢です。自分にも他人にも厳しい寿太郎がリーダーだったからこそ、今年のチームが出来上がったと思います。自分が怪我をしてチームを離れている間も、体の限界までチームを引っ張ってくれました。お疲れ様。

全てが終わって一息ついたら、また地下ライブにでも行きましょう。

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