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ラグビー部リレー日記
わたしの置かれた場所
投稿日時:2022/12/13(火) 17:00
修蔵からバトンを受け取りました、4年スタッフの榎園琴音です。修蔵とは、1年生の秋にほぼ喋ったことがない中、2人で試合の偵察に送り込まれたことが懐かしいです。お互いのことを知らなすぎて逆に話すことしかなかったというのもありますが、1日を通して居心地の悪さや気まずさを感じることが全くなく、意外な嬉しさを感じたことを覚えています。その後、部活で話す頻度はさほど高くなかったものの、修蔵も言っているように今年はちょくちょく遊ぶ機会に恵まれ、毎度楽しい時間を過ごさせていただきました。修蔵に対してなぜかいつも必要以上に自己開示してしまうのですが、よければまた色々と話を聞いてください。
来年の春に社会に出る予定ですが、別段記者になるわけでもなく、期限に迫られて一般に発信する長い文章を書く機会は今後当分なさそうです。入部当初から今日に至るまで、ラグビー部のリレー日記という文化がわたしにとってとても愛おしく、大切なものでした。最後までお読みいただけますと幸いです。
結局のところ、ラグビー部のスタッフって、わたしには難しかったなあ。
そんなことを考えながら、残り数回となった部活に日々足を運んでいます。
思えば、生まれてから大学に入学するまでの間、わたしの人生にはラグビーのラの字もあったことがなく、ラグビー選手にスクラムを組む人とそうでない人がいることすら知りませんでした。
入学直前の3月末。テント列の出口でフロントのプレイヤーの巨体に進路を絶たれ、その誘いに根負けして奢り飯に連れて行かれた。そこから全てが始まりました。
新歓期間の自分なりの葛藤を経ていざラグビー部という場所に身を置いてみれば、程度の差こそあれラグビーとの深い関わりの中で生きてきた人との出会いが数多くあって、世の中には物心ついた頃からラグビーがある環境でしか生きてこなかった人すらいることを知りました。
そうした人たちとの出会いを新鮮に感じ、彼らとの関わりが自分の人生に生まれ、同志になる機会を与えられたことを喜ばしく思っていたあの春から4年経ち振り返る今思うのは、彼らと同じ魂を抱いて過ごせた日々では必ずしもなかったということです。
ラグビーというスポーツへの理解は最後まで追いつかなかったし、理解する姿勢も足りませんでした。ラグビー部のスタッフをしていると、わたしが「ラグビーが大好き」であるという、当たり前のような前提をもって話を振られることが多くありますが、そう形容される自分はあまりしっくり来ませんでした。
他者の勝敗を自分のものとして捉えるということがどうしてもうまくできませんでした。私が勝利を全身全霊で望んでいた時、結局その感情は「勝ちたい」ではなく「勝ってほしい」に過ぎませんでした。その対象も、自分になんらかの還元をもたらしてくれて、個人的に強い信頼や敬愛の念を覚えた数名に過ぎませんでした。
巷で話題の東京大学の女子学生率よりもさらに低い数値、15%前後の女子部員率には最後まで順応できませんでした。そんなの入る前からわかっていたことじゃないかと言われたらそれまでなのですが、女子校を卒業した後、全く新しい環境に飛び込んでみたくもあったし、なんとなくうまくやっていけそうな気もしたのです。結局、仲が良いと自信を持って言えるプレイヤーは数えるほどしかできなかったし、部室にいると今でもたまに疎外感を感じます。
苦しみは自分自身の個人的な事象にだけではなくて、構造自体に対しても存在しました。男性のみから成る選手と、女性大多数のスタッフ。大学に入り、授業で性役割分業や女性がこれまで歩んだ歴史を改めて学ぶと、自身が選んだこのスタッフという役割にもそれらの産物たる側面があると思わずにはいられませんでした。同時に、そうした構造の構築に加担している自分への嫌悪感も4年間うっすらと抱え続けていました。ラグビー部に限った話ではないですが、どんな要因があるにせよこのスタッフの男女比というものは異常かつ何かしらの弊害を伴っているのではないかと思っており、今書いている卒論もそんなことをテーマに設定しています。
元々の自分の性格に上記のような感情も相まって、「他者を支える」という、スタッフをしているとどこかで必ず要求される役回りがとても嫌いだったし、自分の中でうまく噛み砕くことができませんでした。性格のみならず、自分の特性のことを考えてみても、人のことを考えて動くといったことは全くもって向いていませんでした。
様々な視点の中に、簡単には形容できないそれぞれの苦しみや悲しみ、怒り、悔しさ、やるせなさ、違和感、劣等感など様々な感情があり、じゃあそれらはわたしの人生における自己成長のために絶対に必要なものだったのかと言われると、素直には頷けないものも多いです。
今のわたしには、この東大ラグビー部という組織との出会いを「運命」などという単純で甘美な言葉では片付けられません。
なぜこの組織に吸い寄せられたかも、4年間自分がこの組織にいるべきだったのかどうかも、今のこのぐちゃぐちゃな感情では到底達観して説明できないです。ただ一つだけ言えるのは、今4年前に戻れるなら、絶対に東大ラグビー部には入部しないということです。
じゃあお前にとってラグビー部での4年間は無駄だったのか、と言われるとそうは言い切れないから今こんなにも感情がぐちゃぐちゃになっているのです。
これは自慢のように響くかもしれないし、正直な話いくらかその意味合いもあるのだけれど、あるOBの方に先日「あなたは今年の広報をよくやったと思っている」と言っていただき、ああこれでよかったのだと、安堵に似た感情を抱きました。
これでよかったのだ。
全部最初からやり直せるとしたらそうはしていないかもしれないけれど、目の前にある今この瞬間を最大限一生懸命に生きたからこそ辿りついた境地や感覚というものが、これまで部活を続けて来る上で幾度もありました。そしてそれを作り出してくれたのは、大体の場合広報でした。
ラグビー部の広報には常に、わたしのやりたい何か、わたしをワクワクさせる何か、わたしを突き動かす何かがありました。それらにひとつひとつ取り組んでいるうちに4年間が終わろうとしています。
取り組んだ個々のものをここで振り返ることにあまり意味は感じないし、書き連ねたものをジットリと眺めていたら、なんだか1人で自己満足に陥ってしまいそうでやめておきます。それではそれらの取り組みの動機は何だったのかというと、人様に胸を張って言える美しいものから、この部に自分が存在する意義をなんとか作り出さなくてはいけないという焦りや、自分が作り上げたものを人に肯定されて自尊心を保ちたいという虚栄心など、利己的なものまで様々でした。
けれど、動機はなんであれ、一つ一つの取り組みにはこの部にとって何かしらの価値があったのではないかと思うし、何よりやっている自分がいちばん強く価値を感じていました。
初めは、2学年上の先輩スタッフであり、この部の広報の創設者であるともかさんの主体的な仕事ぶりを見て「なんだか楽しそう」と思っていただけでした。
当時、広報は部にとって「最悪なくても良いもの」であり、その中で目的意識を持って価値を発揮することが大切だというようなことが言われていました。広報がなくてもラグビー部という組織はなくならずに動いていくし、ラグビー部でラグビーをすることはできる。
わたしも確かにそうだと思ったし、でも1年生の終わり頃から実際に広報の仕事をやってみて、そこにあるものをあるがままに言葉にする作業や、新しい何かを企画して形にする作業はとても自分に合っていたしやはり楽しかったから、なくても良いものに取り組むのもなかなか悪くないぞなどと思っていました。
気持ちが変わり始めたのは3年生になってからだったでしょうか。
1つ上にスタッフがいなかったから、3年生から2年間も広報責任者を務めさせていただきました。元来行きあたりばったりな性格のわたしには、最も決定力のある立場で過ごせたこの2シーズンという時間はとてもありがたく、焦ることなくああでもないこうでもないと色々考えることができたし、その中で立場や考えも少しずつ変化していきました。
OBOGの方、保護者の方、ファンの方など外部の方との関わりが増え、昨年は創部100周年を受けた記念事業にも関わらせていただきました。その中で感じたのは、楽しさよりも、自分のつまらないプライドよりも「使命感」でした。
自分が直接関わっている訳ではないものにお金を払い、支援しようと思うこと。時間を割いて試合を見に行こうと思うこと。決して当たり前だと思ってはいけないことではないかと思いました。東大は強豪ではないからそうした方の数もある程度限られてはいて、けれどだからこそ大切にしたいし、そしてその人たちがこのラグビー部という組織の現状に関心を持っているのなら、その需要に応えるべく情報発信を行っていく義務があると思いました。
そして、100年の歴史やその中でこの組織が培ってきたアイデンティティを振り返った時、これは必ずや受け継いでいくべきものだと思いました。
この歴史が、歩みが埋もれないよう、そして先人たちに恥じぬように組織の力をさらに高め、広げ、次に繋げる努力をするのが、歴史ある組織に属す者の任務だと。
自分にしかできない仕事などこの世にいくらも存在しないと思っているので、上記が「わたしでなければできなかった」などと言うつもりは毛頭ありません。けれど、去年今年と、それを先頭に立って遂行する立場にあったのは他でもないわたしで、わたしはその遂行に意義を感じていました。
だから、投げ出すことなくここまでやって来られたのだと思います。
特に、3年生の9月~4年生の3月にかけて、広報セクション総出で半年がかりで作成した100周年記念ドキュメンタリービデオは、この部のスタッフとしては珍しく、部活を理由に現役での就活を諦めそうになるほどの時間と労力と胆力を要するものでしたが、同時に、部活を理由に就活を諦めても後悔しないと当時本気で思えたほど、大きな価値を感じながら真剣に取り組めたものでした。きっと、わたしにとって一生の誇りです。
同時に、広報に取り組む上では取り組んだ分だけの美しい景色を見させていただきました。
コロナの影響を受け2年生の時にグラウンドから消え失せた観客を、4年生になって、やっと再び制限なしで迎えることができるようになりました。わたしが作ったグッズで緑色に染まる観客席。
対抗戦初戦の上智戦では、長きにわたって東大ラグビー部をみつめ続けた、東京大学ラグビー倶楽部 山田会長に、「駒場史上最も多い観客だった」とのお言葉をいただきました。
そしてA戦では、愛に溢れた差し入れを両手で抱えきれないほどいただくようになりました。
他にも感動はそこかしこにありました。
それは、メールやSNSでの文字上で、電話での音声で、そして試合会場で。
普段から会っているわけではなく、ひょっとすると名前と顔が一致することもなく終わる関係性。それがわたしの活力でした。
日本の躍進に大盛り上がりし、現在大詰めを迎えているサッカーワールドカップでは、スペイン戦での逆転シュートが決まった直後、拳を天に突き上げ男泣きに泣くサポーターが「涙腺ニキ」として話題になりました。その映像を見て、気づけばわたしも泣いていました。
理由をうまく説明することはできないのだけれど、何かを応援するという感情に触れることがわたしはどうしようもなく好きで、それができるのがこの部の広報でした。
ただそれだけではなくて、所属する組織にあるものをあるがままに、しかし魅力的に伝えるという作業への興味、もっとできるようになりたいという想いは尽きず、将来社会のどこかで企業広報に携わるという夢もできました。
部活がどうしようもなくしんどくなった時、何かに失望して東大ラグビー部を嫌いだと思った時、もうこんなことはやめて他の組織の広報がしたいな、と思ったこともあります。実際、この部活である必要はどこにもなかったのでしょう。1年生に戻ったら入る気はないのだし。もしかしたら広報である必要もなかったのかもしれないです。良いようなことばかり書いてきましたが、広報に付随する、人とこまめにコミュニケーションを取ったり地道な確認を行ったりといった作業は別に最後まで苦しかったし、できることならいつでも逃げ出したいものでした。
けれど、東京大学で過ごした4年という年月の間わたしがいたのはやはり東大ラグビー部で、そこでわたしが向き合っていたのも東大ラグビー部を応援する人たちでした。
新歓期に葛藤を経て入部したと冒頭で述べましたが、今思えば当時のわたしはこのラグビー部という組織をあまりに狭い視野で捉えており、一人前に葛藤しているようで実はほぼ何も考えられていなかったのではないか、と折に触れて思います。
けれど、その過程が何であれ、わたしは確かに1年生の春に東大ラグビー部に入部しました。何に導かれたにせよ、正しいと信じたその判断がたとえどれほど愚かで後悔を伴うものだったとしても、わたしが選んだのは他のどの組織でもなく、東大ラグビー部でした。
結局、わたしには東大ラグビー部しかなかったのです。
「置かれた場所で咲きなさい」という言葉があります。
東京大学で与えられたこの土壌での4年間で、豪華絢爛ではないかもしれないし、満開でもないかもしれないけれど、わたしなりの色の花を開花させられたのではないかと思います。
これでよかったのだ。
何かを残し、得られたという確信を持って、この部を卒業したいと思います。
感謝を伝えたい方がたくさんいます。
OBOGの皆様、保護者の皆様、ラグビー部を応援してくださる全ての皆様
日頃より厚いご支援を賜り、心より感謝申し上げます。
皆様と関われる時間がとても好きでした。時たま日頃の業務への感謝をお伝えいただく機会に恵まれましたが、私の方こそいつも皆様に支えられていましたし、皆様の存在がなければどこかで潰れていたかもしれません。
4年という長い時間の中で思いがけない出会いと繋がりをいくつもいただき、引退したら個人的に報告したい方が何人もいます。入部した時には想像すらできなかったことです。幸せなことです。
特に執行部会の皆様には本当にお世話になりました。3年生の後半から100周年事業絡みでコンタクトを取ることが増えましたが、私に常識が欠けていても、何だか詰めが甘くまとまりのないことを言っていても、常に温かくご指導いただき、助けていただきました。
来春から社会人になる身として、こうありたいと思う一面をお持ちの方がたくさんいらっしゃいます。
青山先生、大西さん、深津さん、コーチ陣の皆様
何度失敗しても、期待に応えられなくても、必ず現役の味方であり続けてくださりありがとうございました。学生主体とはいっても結局最後は大人の力に頼らざるをえない存在でしたが、未熟な私達をご指導くださりありがとうございました。
先輩、同期、後輩の皆様
わたしにとってこの東大ラグビー部という場所は、今まで過ごしてきたどの環境とも違う非常に特異な環境でしたが、その中で常に色々な刺激があり、飽きることがありませんでした。時間をかけて向き合っていただいた方もたくさんいらっしゃいます。大変お世話になりました。
特にスタッフの皆様
この部のスタッフは皆真っ直ぐで、より良い何かをしたいという想いに溢れていると思います。学年を問わずどの人にも、尊敬できる何かがありました。
後輩の皆さんは来年大きな変化に直面すると思いますが、好きなように仕事を進められる喜びは格別です。伸び伸びと前向きに乗り越えていってください。
ともかさん
先日、ともかさんの最後のリレー日記を改めて読み直して胸が締め付けられました。
低学年の頃から一から積み上げてきた広報の集大成である最後の1年が、2020年というコロナとの闘いの1年に重なり、どれほど悔しかったでしょうか。
けれどこの2年間で、ともかさんが種を蒔き水を遣ってきたものが花開いていくという感覚を幾度も持ちました。
ともかさんの「この部に広報の体制を構築したい」という想い。コロナ禍でも常に前向きに、今できる最大限の、そして最も新しい広報を続けた姿。あまりにへなちょこなわたしを忍耐強くご指導くださった日々。2年生で部活をやめようとしていた私へかけてくださった「琴音ちゃんがいなくなったらこの部の広報は終わる」という言葉。全てがあってこその、その後のわたしの2年間でした。本当にありがとうございました。来年以降は、頼れる後輩たちが広報を受け継ぎ、さらに広げてくれます。
家族へ
受験期の闘いを経て、大学入学後はゆっくりできると思いきやこんなことになり、さぞかし驚いたことと思います。
当初は反対もされましたし、おっしゃる通りスタッフは向いていませんでした。とんでもない早朝に起きてはゴソゴソ、日付を超えた遅くに帰ってきてはゴソゴソと終始ご迷惑をおかけしましたが、というか現在進行形でご迷惑をおかけしていますが、見守ってくれてありがとうございます。来春に家を出ることに免じてあと2週間ご容赦ください。ぴょるちゃん(犬)も、春休みはたくさんお散歩に行きましょう。
そして、わたしに寄り添ってくださった全ての皆様
4年間を通して、様々な方がわたしを支えてくださいました。時に泣き喚き、時に言葉もなく気落ちし、時に怒り狂うわたしをなだめ、前向きな言葉で後押しをしてくださいました。ありがとうございました。まだまだ半人前な存在ではありますが、少しずつ誰かに何かをお返しできるような優しい人間になりたいです。
これほどまでにたくさんの方の力を感じた経験は未だかつてありません。本当にありがとうございました。
次は、東大ラグビー部の生き字引たる学生レフリー、そしてスタッフの原くんにバトンを渡します。入部時の寡黙なイメージとは裏腹に、実はおしゃべりな人だったため高学年になってからはわりかしたくさん話しました。しかし口下手な側面もあり、何を言っているのかよくわからないところをぐっと堪えながら話を聞いていたところ、かなり的を得たことを言っているのに気づき、ほう、と思うことも多々ありました。わたしは4年間を通して常に何かに追われ焦っていたので、常に精神的余裕があり、仕事を頼まれても嫌な顔をせずに引き受けたのちそつなくこなせるところをとてもリスペクトしています。部旗の件などはありがとうございました。
結構誉めたので最後に一点だけ苦言を呈させていただきますが、練習前後のスタッフの仕事はもうちょいやっていただけないものでしょうか。待ってます。
来年の春に社会に出る予定ですが、別段記者になるわけでもなく、期限に迫られて一般に発信する長い文章を書く機会は今後当分なさそうです。入部当初から今日に至るまで、ラグビー部のリレー日記という文化がわたしにとってとても愛おしく、大切なものでした。最後までお読みいただけますと幸いです。
結局のところ、ラグビー部のスタッフって、わたしには難しかったなあ。
そんなことを考えながら、残り数回となった部活に日々足を運んでいます。
思えば、生まれてから大学に入学するまでの間、わたしの人生にはラグビーのラの字もあったことがなく、ラグビー選手にスクラムを組む人とそうでない人がいることすら知りませんでした。
入学直前の3月末。テント列の出口でフロントのプレイヤーの巨体に進路を絶たれ、その誘いに根負けして奢り飯に連れて行かれた。そこから全てが始まりました。
新歓期間の自分なりの葛藤を経ていざラグビー部という場所に身を置いてみれば、程度の差こそあれラグビーとの深い関わりの中で生きてきた人との出会いが数多くあって、世の中には物心ついた頃からラグビーがある環境でしか生きてこなかった人すらいることを知りました。
そうした人たちとの出会いを新鮮に感じ、彼らとの関わりが自分の人生に生まれ、同志になる機会を与えられたことを喜ばしく思っていたあの春から4年経ち振り返る今思うのは、彼らと同じ魂を抱いて過ごせた日々では必ずしもなかったということです。
ラグビーというスポーツへの理解は最後まで追いつかなかったし、理解する姿勢も足りませんでした。ラグビー部のスタッフをしていると、わたしが「ラグビーが大好き」であるという、当たり前のような前提をもって話を振られることが多くありますが、そう形容される自分はあまりしっくり来ませんでした。
他者の勝敗を自分のものとして捉えるということがどうしてもうまくできませんでした。私が勝利を全身全霊で望んでいた時、結局その感情は「勝ちたい」ではなく「勝ってほしい」に過ぎませんでした。その対象も、自分になんらかの還元をもたらしてくれて、個人的に強い信頼や敬愛の念を覚えた数名に過ぎませんでした。
巷で話題の東京大学の女子学生率よりもさらに低い数値、15%前後の女子部員率には最後まで順応できませんでした。そんなの入る前からわかっていたことじゃないかと言われたらそれまでなのですが、女子校を卒業した後、全く新しい環境に飛び込んでみたくもあったし、なんとなくうまくやっていけそうな気もしたのです。結局、仲が良いと自信を持って言えるプレイヤーは数えるほどしかできなかったし、部室にいると今でもたまに疎外感を感じます。
苦しみは自分自身の個人的な事象にだけではなくて、構造自体に対しても存在しました。男性のみから成る選手と、女性大多数のスタッフ。大学に入り、授業で性役割分業や女性がこれまで歩んだ歴史を改めて学ぶと、自身が選んだこのスタッフという役割にもそれらの産物たる側面があると思わずにはいられませんでした。同時に、そうした構造の構築に加担している自分への嫌悪感も4年間うっすらと抱え続けていました。ラグビー部に限った話ではないですが、どんな要因があるにせよこのスタッフの男女比というものは異常かつ何かしらの弊害を伴っているのではないかと思っており、今書いている卒論もそんなことをテーマに設定しています。
元々の自分の性格に上記のような感情も相まって、「他者を支える」という、スタッフをしているとどこかで必ず要求される役回りがとても嫌いだったし、自分の中でうまく噛み砕くことができませんでした。性格のみならず、自分の特性のことを考えてみても、人のことを考えて動くといったことは全くもって向いていませんでした。
様々な視点の中に、簡単には形容できないそれぞれの苦しみや悲しみ、怒り、悔しさ、やるせなさ、違和感、劣等感など様々な感情があり、じゃあそれらはわたしの人生における自己成長のために絶対に必要なものだったのかと言われると、素直には頷けないものも多いです。
今のわたしには、この東大ラグビー部という組織との出会いを「運命」などという単純で甘美な言葉では片付けられません。
なぜこの組織に吸い寄せられたかも、4年間自分がこの組織にいるべきだったのかどうかも、今のこのぐちゃぐちゃな感情では到底達観して説明できないです。ただ一つだけ言えるのは、今4年前に戻れるなら、絶対に東大ラグビー部には入部しないということです。
じゃあお前にとってラグビー部での4年間は無駄だったのか、と言われるとそうは言い切れないから今こんなにも感情がぐちゃぐちゃになっているのです。
これは自慢のように響くかもしれないし、正直な話いくらかその意味合いもあるのだけれど、あるOBの方に先日「あなたは今年の広報をよくやったと思っている」と言っていただき、ああこれでよかったのだと、安堵に似た感情を抱きました。
これでよかったのだ。
全部最初からやり直せるとしたらそうはしていないかもしれないけれど、目の前にある今この瞬間を最大限一生懸命に生きたからこそ辿りついた境地や感覚というものが、これまで部活を続けて来る上で幾度もありました。そしてそれを作り出してくれたのは、大体の場合広報でした。
ラグビー部の広報には常に、わたしのやりたい何か、わたしをワクワクさせる何か、わたしを突き動かす何かがありました。それらにひとつひとつ取り組んでいるうちに4年間が終わろうとしています。
取り組んだ個々のものをここで振り返ることにあまり意味は感じないし、書き連ねたものをジットリと眺めていたら、なんだか1人で自己満足に陥ってしまいそうでやめておきます。それではそれらの取り組みの動機は何だったのかというと、人様に胸を張って言える美しいものから、この部に自分が存在する意義をなんとか作り出さなくてはいけないという焦りや、自分が作り上げたものを人に肯定されて自尊心を保ちたいという虚栄心など、利己的なものまで様々でした。
けれど、動機はなんであれ、一つ一つの取り組みにはこの部にとって何かしらの価値があったのではないかと思うし、何よりやっている自分がいちばん強く価値を感じていました。
初めは、2学年上の先輩スタッフであり、この部の広報の創設者であるともかさんの主体的な仕事ぶりを見て「なんだか楽しそう」と思っていただけでした。
当時、広報は部にとって「最悪なくても良いもの」であり、その中で目的意識を持って価値を発揮することが大切だというようなことが言われていました。広報がなくてもラグビー部という組織はなくならずに動いていくし、ラグビー部でラグビーをすることはできる。
わたしも確かにそうだと思ったし、でも1年生の終わり頃から実際に広報の仕事をやってみて、そこにあるものをあるがままに言葉にする作業や、新しい何かを企画して形にする作業はとても自分に合っていたしやはり楽しかったから、なくても良いものに取り組むのもなかなか悪くないぞなどと思っていました。
気持ちが変わり始めたのは3年生になってからだったでしょうか。
1つ上にスタッフがいなかったから、3年生から2年間も広報責任者を務めさせていただきました。元来行きあたりばったりな性格のわたしには、最も決定力のある立場で過ごせたこの2シーズンという時間はとてもありがたく、焦ることなくああでもないこうでもないと色々考えることができたし、その中で立場や考えも少しずつ変化していきました。
OBOGの方、保護者の方、ファンの方など外部の方との関わりが増え、昨年は創部100周年を受けた記念事業にも関わらせていただきました。その中で感じたのは、楽しさよりも、自分のつまらないプライドよりも「使命感」でした。
自分が直接関わっている訳ではないものにお金を払い、支援しようと思うこと。時間を割いて試合を見に行こうと思うこと。決して当たり前だと思ってはいけないことではないかと思いました。東大は強豪ではないからそうした方の数もある程度限られてはいて、けれどだからこそ大切にしたいし、そしてその人たちがこのラグビー部という組織の現状に関心を持っているのなら、その需要に応えるべく情報発信を行っていく義務があると思いました。
そして、100年の歴史やその中でこの組織が培ってきたアイデンティティを振り返った時、これは必ずや受け継いでいくべきものだと思いました。
この歴史が、歩みが埋もれないよう、そして先人たちに恥じぬように組織の力をさらに高め、広げ、次に繋げる努力をするのが、歴史ある組織に属す者の任務だと。
自分にしかできない仕事などこの世にいくらも存在しないと思っているので、上記が「わたしでなければできなかった」などと言うつもりは毛頭ありません。けれど、去年今年と、それを先頭に立って遂行する立場にあったのは他でもないわたしで、わたしはその遂行に意義を感じていました。
だから、投げ出すことなくここまでやって来られたのだと思います。
特に、3年生の9月~4年生の3月にかけて、広報セクション総出で半年がかりで作成した100周年記念ドキュメンタリービデオは、この部のスタッフとしては珍しく、部活を理由に現役での就活を諦めそうになるほどの時間と労力と胆力を要するものでしたが、同時に、部活を理由に就活を諦めても後悔しないと当時本気で思えたほど、大きな価値を感じながら真剣に取り組めたものでした。きっと、わたしにとって一生の誇りです。
同時に、広報に取り組む上では取り組んだ分だけの美しい景色を見させていただきました。
コロナの影響を受け2年生の時にグラウンドから消え失せた観客を、4年生になって、やっと再び制限なしで迎えることができるようになりました。わたしが作ったグッズで緑色に染まる観客席。
対抗戦初戦の上智戦では、長きにわたって東大ラグビー部をみつめ続けた、東京大学ラグビー倶楽部 山田会長に、「駒場史上最も多い観客だった」とのお言葉をいただきました。
そしてA戦では、愛に溢れた差し入れを両手で抱えきれないほどいただくようになりました。
他にも感動はそこかしこにありました。
それは、メールやSNSでの文字上で、電話での音声で、そして試合会場で。
普段から会っているわけではなく、ひょっとすると名前と顔が一致することもなく終わる関係性。それがわたしの活力でした。
日本の躍進に大盛り上がりし、現在大詰めを迎えているサッカーワールドカップでは、スペイン戦での逆転シュートが決まった直後、拳を天に突き上げ男泣きに泣くサポーターが「涙腺ニキ」として話題になりました。その映像を見て、気づけばわたしも泣いていました。
理由をうまく説明することはできないのだけれど、何かを応援するという感情に触れることがわたしはどうしようもなく好きで、それができるのがこの部の広報でした。
ただそれだけではなくて、所属する組織にあるものをあるがままに、しかし魅力的に伝えるという作業への興味、もっとできるようになりたいという想いは尽きず、将来社会のどこかで企業広報に携わるという夢もできました。
部活がどうしようもなくしんどくなった時、何かに失望して東大ラグビー部を嫌いだと思った時、もうこんなことはやめて他の組織の広報がしたいな、と思ったこともあります。実際、この部活である必要はどこにもなかったのでしょう。1年生に戻ったら入る気はないのだし。もしかしたら広報である必要もなかったのかもしれないです。良いようなことばかり書いてきましたが、広報に付随する、人とこまめにコミュニケーションを取ったり地道な確認を行ったりといった作業は別に最後まで苦しかったし、できることならいつでも逃げ出したいものでした。
けれど、東京大学で過ごした4年という年月の間わたしがいたのはやはり東大ラグビー部で、そこでわたしが向き合っていたのも東大ラグビー部を応援する人たちでした。
新歓期に葛藤を経て入部したと冒頭で述べましたが、今思えば当時のわたしはこのラグビー部という組織をあまりに狭い視野で捉えており、一人前に葛藤しているようで実はほぼ何も考えられていなかったのではないか、と折に触れて思います。
けれど、その過程が何であれ、わたしは確かに1年生の春に東大ラグビー部に入部しました。何に導かれたにせよ、正しいと信じたその判断がたとえどれほど愚かで後悔を伴うものだったとしても、わたしが選んだのは他のどの組織でもなく、東大ラグビー部でした。
結局、わたしには東大ラグビー部しかなかったのです。
「置かれた場所で咲きなさい」という言葉があります。
東京大学で与えられたこの土壌での4年間で、豪華絢爛ではないかもしれないし、満開でもないかもしれないけれど、わたしなりの色の花を開花させられたのではないかと思います。
これでよかったのだ。
何かを残し、得られたという確信を持って、この部を卒業したいと思います。
感謝を伝えたい方がたくさんいます。
OBOGの皆様、保護者の皆様、ラグビー部を応援してくださる全ての皆様
日頃より厚いご支援を賜り、心より感謝申し上げます。
皆様と関われる時間がとても好きでした。時たま日頃の業務への感謝をお伝えいただく機会に恵まれましたが、私の方こそいつも皆様に支えられていましたし、皆様の存在がなければどこかで潰れていたかもしれません。
4年という長い時間の中で思いがけない出会いと繋がりをいくつもいただき、引退したら個人的に報告したい方が何人もいます。入部した時には想像すらできなかったことです。幸せなことです。
特に執行部会の皆様には本当にお世話になりました。3年生の後半から100周年事業絡みでコンタクトを取ることが増えましたが、私に常識が欠けていても、何だか詰めが甘くまとまりのないことを言っていても、常に温かくご指導いただき、助けていただきました。
来春から社会人になる身として、こうありたいと思う一面をお持ちの方がたくさんいらっしゃいます。
青山先生、大西さん、深津さん、コーチ陣の皆様
何度失敗しても、期待に応えられなくても、必ず現役の味方であり続けてくださりありがとうございました。学生主体とはいっても結局最後は大人の力に頼らざるをえない存在でしたが、未熟な私達をご指導くださりありがとうございました。
先輩、同期、後輩の皆様
わたしにとってこの東大ラグビー部という場所は、今まで過ごしてきたどの環境とも違う非常に特異な環境でしたが、その中で常に色々な刺激があり、飽きることがありませんでした。時間をかけて向き合っていただいた方もたくさんいらっしゃいます。大変お世話になりました。
特にスタッフの皆様
この部のスタッフは皆真っ直ぐで、より良い何かをしたいという想いに溢れていると思います。学年を問わずどの人にも、尊敬できる何かがありました。
後輩の皆さんは来年大きな変化に直面すると思いますが、好きなように仕事を進められる喜びは格別です。伸び伸びと前向きに乗り越えていってください。
ともかさん
先日、ともかさんの最後のリレー日記を改めて読み直して胸が締め付けられました。
低学年の頃から一から積み上げてきた広報の集大成である最後の1年が、2020年というコロナとの闘いの1年に重なり、どれほど悔しかったでしょうか。
けれどこの2年間で、ともかさんが種を蒔き水を遣ってきたものが花開いていくという感覚を幾度も持ちました。
ともかさんの「この部に広報の体制を構築したい」という想い。コロナ禍でも常に前向きに、今できる最大限の、そして最も新しい広報を続けた姿。あまりにへなちょこなわたしを忍耐強くご指導くださった日々。2年生で部活をやめようとしていた私へかけてくださった「琴音ちゃんがいなくなったらこの部の広報は終わる」という言葉。全てがあってこその、その後のわたしの2年間でした。本当にありがとうございました。来年以降は、頼れる後輩たちが広報を受け継ぎ、さらに広げてくれます。
家族へ
受験期の闘いを経て、大学入学後はゆっくりできると思いきやこんなことになり、さぞかし驚いたことと思います。
当初は反対もされましたし、おっしゃる通りスタッフは向いていませんでした。とんでもない早朝に起きてはゴソゴソ、日付を超えた遅くに帰ってきてはゴソゴソと終始ご迷惑をおかけしましたが、というか現在進行形でご迷惑をおかけしていますが、見守ってくれてありがとうございます。来春に家を出ることに免じてあと2週間ご容赦ください。ぴょるちゃん(犬)も、春休みはたくさんお散歩に行きましょう。
そして、わたしに寄り添ってくださった全ての皆様
4年間を通して、様々な方がわたしを支えてくださいました。時に泣き喚き、時に言葉もなく気落ちし、時に怒り狂うわたしをなだめ、前向きな言葉で後押しをしてくださいました。ありがとうございました。まだまだ半人前な存在ではありますが、少しずつ誰かに何かをお返しできるような優しい人間になりたいです。
これほどまでにたくさんの方の力を感じた経験は未だかつてありません。本当にありがとうございました。
次は、東大ラグビー部の生き字引たる学生レフリー、そしてスタッフの原くんにバトンを渡します。入部時の寡黙なイメージとは裏腹に、実はおしゃべりな人だったため高学年になってからはわりかしたくさん話しました。しかし口下手な側面もあり、何を言っているのかよくわからないところをぐっと堪えながら話を聞いていたところ、かなり的を得たことを言っているのに気づき、ほう、と思うことも多々ありました。わたしは4年間を通して常に何かに追われ焦っていたので、常に精神的余裕があり、仕事を頼まれても嫌な顔をせずに引き受けたのちそつなくこなせるところをとてもリスペクトしています。部旗の件などはありがとうございました。
結構誉めたので最後に一点だけ苦言を呈させていただきますが、練習前後のスタッフの仕事はもうちょいやっていただけないものでしょうか。待ってます。
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