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ラグビー部リレー日記
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いらすとや final
投稿日時:2024/12/23(月) 22:30
本多からバトンをもらいました森田です。
溢れんばかりの文才を見せつけられ、次が非常に書きにくいです。
子どもの頃から天才だったとかつてのスモブラで聞きましたが、どうやら本当だったようです。
1年生の頃から先輩たちにその才能を買われてあらゆるセクションに引き抜かれ、特に広報では馬車馬のように働かされてヒーヒー言っていました。
一方、会報は大学生になった彼にとっての梅干しだったのかもしれません。
珍しく手伝ってくれたかと思えば、普段温厚でめったに怒らない本多が細かいパソコン作業に辟易して発狂、後輩スタッフを慄かせる意外な姿も見せてくれました。
日常的に会えなくなるのは寂しいけど、忙しい中でもたまに会ってください。
——
同期のみんなのリレー日記を読み、ラグビーや部活動に対する熱い想いを語れてすごいなぁと一歩引いてみてしまう自分がいます。
この数週間、「もりぞーリレー日記どうするの?何書くの?」といろいろな人に聞かれました。
おそらく私が普段何を考えているか分からず、ラグビー部のことも好きではなさそうだと思われているからだと思います。
あながち間違ってはいません。
正直、自分でもなぜこの部活を4年間続けられたのか不思議です。
私は弱いので部員の誰にも打ち明けられませんでしたが、何度も辞めたいと思ったことがありました。
辞めたいという気持ちを隠して(見透かされていたかもしれませんが)平然と過ごしていたことについては罪悪感を覚えています。申し訳ないです。
辞めたいと思った理由は時期によってさまざまで、ここに書くのも憚られるので、なぜ辞めなかったか、辞められなかったのかを中心に振り返りたいと思います。
——
「辞める勇気がなかった」というのが、1番しっくりくる率直な理由です。
4年間で1番辞めたくなったのは、ちょうど1年前くらいでした。このあたりの記憶がほぼなくなってしまい、何が原因だったのかはよく覚えていません。
でも、1,2年のときは高かった部活へのモチベーションや当事者意識が様々な要因で薄れていき、このときにはほぼ消えかけていたのはたしかです。そして、このときのラグビー部のことはきらいでした。
どうやって辞めることを部員に伝えようか、LINEならどんな文面にしようかと考えるくらいには心が決まっていました。でも、ちょうど代替わりの時期で、色々と忙しそうな同期とチームを前に、話を切り出すタイミングを逃しました。
意外と空気を読んでしまう節があるので、なかなか言い出せず、タイミングを窺っているうちに気がついたら数ヶ月が経っていました。そしてその頃にはもう今年のチームが始動していて、辞めるに辞められない状況になっていました。
いつ辞めようか考えている間、会報のことが浮かびました。
当時スタッフで唯一の会報委員で、1人で大方の仕事を抱えていた中辞めるのはさすがに無責任すぎると思ったし、1度も会報を作ったことがない1年生に丸投げすることになる申し訳なさもとても大きく、辞めるという大きな一歩を踏み出せませんでした。
会報に限らず、他のセクションについても同じような気持ちを抱いていました。
責任感が強いとかそういう綺麗な話ではなく、ただ大胆な決断をする勇気がなかっただけでした。
——
でも、もし100%辞めたい、ラグビー部がきらいだと思っていたら、タイミングを窺うことなどなく、すぐに辞めてしまっていたと思います。
そうならなかったのは、1年の頃にJrコーチが開いてくれたミーティングのおかげだと思っています。
そのミーティングでは、1年生みんなで、学年としての目標と、個人として4年間部活をする"目的"を考えました。目的は、もし万が一目標を達成できなかったとしても、4年間を意味のあるものにするために決める、軸となるものという位置付けでした。
~~
私は昔から飽きっぽい性格で、何かに継続して打ち込んだことがありませんでした。
子どもの頃は、ピアノ、水泳、そろばんなど、今思えば東大生定番の習い事を一通りかじり、それに加えてフィギュアスケート、速読などちょっと特殊な習い事もさせてもらっていました。
でも、どれもそれなりにできるようになった頃には飽きてしまい、飽きたら辞めてまた新しい習い事を始めていました。贅沢な子どもだったと思います。
中学校では、そこそこ足が速くて運動会のリレーが大好きだったことから、陸上部に入りました。
普段はアップを兼ねて学校から代々木公園まで走っていき、公園内やフィールドで軽く練習をし、部活後には先輩にアイスを奢ってもらうなど楽しい時間を過ごしていました。
でも、入部から2ヶ月後の夏合宿で、200mを15本連続で走ることになりました。休めるのは400mトラックの残り200mを歩いて戻る間だけで、3kmをほぼ全力で走るのは本当にきつかったです。
周りが足を痛めたと言って抜けていく中、幸か不幸か怪我をせず、サボる勇気もなかった私は泣きそうになりながら走り続け、限界を迎えました。
そして夏合宿から帰ってきてすぐ、幽霊部員になりました。幽霊部員のまま5年が経ち、そのまま卒業しました。
顧問の先生に退部届をもらいに行くのが気まずいからという情けない理由で、きっぱり部活を辞めることすらできませんでした。
~~
大学では、飽きたらやめる自分、きついことがあると逃げてしまう弱い自分と決別したかったので、私がラグビー部で活動する目的は、もし嫌なことやつらいことがあっても置かれた環境から逃げない自分になること=辞めずに4年間続けること、だと思いました。
ラグビー部で辞めたくなるほどつらいことがあったときは、毎回このことが頭をよぎりました。このまま辞めたら、結局また逃げてしまった、過去の弱い自分から成長できなかったという負い目を感じ続けるんだろうと思いました。
本気で辞めようとしていた1年前も、最後に私を引き留めてくれたのは、この自分の決心だったと思います。
というわけで、ミーティングを企画してくださった藤井さんの代の皆さんには本当に感謝しています。あの時間がなければ、私は今ここにいないと思います。ありがとうございました。
——
また、4年間で何度か出会えた心を揺さぶられるような試合は、やっぱり辞めなくてよかった、この選択は正解だった、と思える瞬間でした。
特に、3年前の対抗戦初戦、上智大学戦は今でも鮮明に覚えています。
試合終了間際に逆転されたあと、ノータイムで國枝さんが再逆転トライを決め、選手たちが抱き合ってよろこんでいるのを目の前で見たとき、ラグビー部に入ってよかったと心から思えました。
ちょうど大学での初めての学期が終わって、部活と医進がおそらく両立しないであろうという厳しい現実に直面し、すこし弱気になっていたときでした。
夏休み前の試験期間中、朝練後に勉強をするため駒場の図書館に向かうと、すでに多くの学生が机に向かっていました。夜練の前に図書館を去るときも、まだほとんどの学生が居残って勉強を続けていました。医進した先輩の体験記には、楽しそうに遊んで過ごすクラスメイトを横目に、一日中図書館にこもって勉強した、と書いてありました。
それに比べて自分は…と思わずにはいられませんでした。
誇張ではなく、キャンパス内の人全員がライバルに見え、内心かなり焦っていました。
でもあの上智戦の劇的なトライは、私のちっぽけな悩みを吹き飛ばすのには十分過ぎるものでした。どんな試合を見ても滅多に動かなかった私の心を、強く掴んでくれました。
これ以降、勉強を理由に部活を辞めたいと思うことは1度もなくなりました。
むしろ、部活という逆境が、限られた時間で効率よく勉強するための原動力にすらなりました。
それに、もし医進できなかったら、周囲からは「部活が忙しいから仕方ない」と同情されることが容易に想像でき、それだけは本当に嫌でした。
部活も勉強も言い訳せずにやってやる、と決意しました。
…と、2年の秋頃まではこのちょっと熱い気持ちのおかげで部活をがんばれていましたが、医進してからの現実はそれほど甘くありませんでした。
授業が全て必修になり、部活に行ける日が少なくなりました。
2年のSセメは、授業抜けをするような履修を組んではいけないという暗黙の了解のもと、全ての練習に参加できていました。部活に行くことが日々の楽しみでした。
それなのに、夏休み後からは授業で朝練を欠席、夜練にも遅刻することになり、部活との距離が急激に広がりました。これを補う努力が足りなかったせいで、どんどん当事者意識が薄れていきました。
そしてこのあとの1年半、部内外で本当にいろいろな経験をし、いろいろな感情を抱きました。
その結果、本気で辞めてしまいたいと思うようになり、身の引き方まで考えるに至りました。
でも、結局辞める勇気がなかったり、4年間辞めずに続けるんだという初心を思い出せたりしたおかげで、なんとか今日を迎えることができました。
特に後半の2年間あまり部に貢献できなかった自分にこんな権利があるのか分かりませんが、京大戦では、またあの上智戦のような景色を見てみたいです。
同期が魂が震えるような試合をしているところを見られるのは、どんなにしあわせなことだろうかと思います。表情に出なくても、ちゃんとこういう気持ちはあります。
ラグビー部のことは、今はすきです。
——
さて、前置きが長くなりすぎましたが、4年間たくさんの思い出をくれた同期のみんなに、感謝を込めていくつかイラストを贈り、最後のリレー日記としたいと思います。
あきお
副将のほかSEセクション長の顔も持つあきお。
去年からスタッフ内のプログラミングの仕事をたくさん手伝ってくれて、知識0の私にもいろいろ教えてくれました。ありがとう。
私はあまり被害を被っていませんが、ちょっと汗がくさくていびきがうるさいらしいです。(オブラートに包めませんでした。ごめんね)
デル
類まれな言語力とコミュニケーション能力で、たくさんのPEAK生や留学生をラグビー部に連れて来てくれたデル。
デルの明るさには何度も助けられました。ありがとう。
同期で1番ビールが似合う男でもあります。京大戦楽しみにしてるよ!また飲もうね。
礒崎
こぼれ球を逃さずトライに繋げる仕事人、礒崎。
1年の時のスモブラでの500円プレゼント企画で、「実用的でないもの」というテーマだったのに1人だけ勘違いして超実用的なマスクをくれたのが今でも忘れられません。
こんなエピソードしかなくてごめん。そこにいるだけでなんか和みました。ありがとう。
一木
最初は寡黙な感じだったのに、今やすっかり寝坊いじられキャラになってしまった一木。
彼女とのドライブデートの話をうれしそうに教えてくれたのが印象的です。
いつも自然体で、とっても話しやすかったです。ありがとう。
おっくん(奥山)
さすがの規律正しさで、将来大物になりそうランキング1位のおっくん。
テーピングをすると、毎回試合後に律儀にありがとうと言ってくれました。
特に今年は試合にも出続けられて、おっくんの素顔もたくさん見られて楽しかったです。ありきたりな言葉だけどやりがいを感じさせてくれました。ありがとう。
穴のあいた靴下を履き続けちゃうギャップもいいと思うよ。
小野ちゃん
いつものほほんとしているオールスター小野ちゃん。
スーツの着こなしに貫禄があります。
最初はお互い静かだったけど、今年は色々と本音(たぶん)を話してくれて楽しかったです。ありがとう。
定期を何度も落とすなど、うっかりしているところもまたよかったです。はやくApple Pay試してね。
デイビス
よく部員の髪を切ってあげている、お兄ちゃん気質のデイビス。
初めて練習に来た日に張り切りすぎて脳振盪になり、くらくらしていたのが遠い昔のことのようです。
当時は英語でラインを送っていたのに、今は都合の悪いときだけ日本語が分からないフリをできるまでに成長し、地頭の良さを感じずにはいられません。
素直なデイビスと話すと心が浄化されました。ありがとう。
レイラちゃんとも末長くお幸せに。
くらら(倉橋)
雨の日に傘をささず、曇りの日にサングラスをかける逆張りくらら。
アメリカ生活の方が長いのに、なぜかイギリス訛りの英語で英国紳士っぷりを見せつけてきます。
くららは部活の同期ではなく友達と思える唯一の存在でした。ありがとう。
日常的に会えなくなるのは寂しいですが、忙しい中でもたまには会ってあげます。
スバル
母性本能をくすぐることを自覚し武器にすらしているスバル。
テイクフリーに目がないケチ倹約家で、テーピング節約術のプロ。
ガハハというスバルの豪快な笑い声を聞くといつも元気になれました。ありがとう。
こんなに素直な子がどうやったら育つのか、子育ての秘訣を知りたいとずっと思っていました。
りん
部活への熱意に溢れ、新歓力で右に出る者はいないりん。
部のためにレフリーを始め、今年はスタッフ長も引き受けてくれました。
りんのサバサバさには4年間で何度も救われました。ありがとう。
バレンタインやお誕生日会で毎年売り物レベルのお菓子を振る舞ってくれる姿からは想像できないりんの荒々しい言葉遣いは、何度聞いても突っ込まずにはいられませんでした。
塩谷
自他共に認める真面目キャラの塩谷。
1年生の頃はザ・優男という感じで非常に話しにくかったですが、意外と人間らしい一面もさらけ出してくれるまでになりました。そんな塩谷と愚痴を言い合うと、なんだか心が軽くなりました。ありがとう。
今年は厄年だったみたいなので、来年は幸あらんことをお祈りしております。
清和
部内の噂をすぐに広める拡声器、清和。
話の面白さはピカイチで、何度も笑わせてもらいました。ありがとう。
ひとの恋愛をネタにするわりに、自分のデートの前にはエピソードトークをたくさん用意しオチまでの構成を練りに練っておく一途な面もあります。
先の自分語りパートでは、清和のアドバイス通り"原体験"を入れてみました。合格ですか?
よーた
私が東大ラグビー部に入るきっかけをくれたよーた。
よーたとは小学校のロボットクラブで出会いました。
それから高校で再会して一緒に花園予選を観に行き、全ての始まりをつくってくれました。ありがとう。
これからも夢に向かってがんばってね。
辻
言わずと知れた人気者の辻。
ネトスト力と妄想力は誰にも負けません。あと返信が早くて助かりました。ありがとう。
ところで入部前から熱中していたスタンプラリーは終わりましたか?そろそろ次の台紙に移る頃かな。
にの(二宮)
ラグビー部1の変わり者、にの。
大正時代を思わせるセットアップを着こなすおしゃれな面もありました。
にのはいつも何も言わずにスタッフの片付けや荷物運びを手伝ってくれました。ありがとう。
最近姿を見かけませんが、元気でいてくれたらうれしいです。
本多
うどんを2口で食べるプーさん本多。
どんなときも温かく見守ってくれる、大人な本多が同期にいてくれてよかったです。ありがとう。
本多は、そんな成熟した一面に、部室内外を裸でうろつくインモラルさも共存する、バランスのとれたすごい人でした。
よーこ
ラグビー部への愛が人一倍強く、私生活も愛に溢れるよーこ。
去年はスタッフ長、今年は主務として献身的に部をサポートしてくれました。ありがとう。
忙しいはずなのに、いつ来ても部室ですやすや眠っている姿が印象的です。部員とも仲良しで、先輩後輩問わずみんなに慕われていました。
甘々教官とのエピソードまた聞かせてね。
雪竹
イケメンなのにどこか抜けたところがある雪竹。
学歴厨を極めており、私が医進したとき1番よろこんでくれたのはなぜか雪竹でした。ありがとう。
年上なのにいつも奢ってとせびられていた気がしますが、来年からは高給取りになるみたいで羨ましいです。
あと、少食のせいでいつも苦しそうに食事をしているので、卒部したら楽しくご飯を食べてほしいです。
じゅたろう
アツいという言葉が似合いすぎるキャプテンじゅたろう。
いつの日だったか、2人で歩いていたとき、何気なく「(医学部に行っても)ぜったい辞めるなよ!」と言ってくれたのは本当にうれしかったです。4年間がんばってくれてありがとう。
部活外では赤ちゃん動画のファン仲間でしたが、街にいる子どもたちを遠くからじっと見つめて怪しい視線を送るのだけはやめた方がいいです。
いつか虫嫌いも克服し、楽しみにしていた子育てをできる日が来ることを願っています。
次は雪竹にバトンを渡します。
みんなからいじられ放題の雪竹ですが、たくさんいいところがあります。
まず、アイドルのような顔立ち、スタイルの雪竹は、髪型にもしっかり気を遣っています。おでこが後退していることなんて誰も気付かないようなかわいいヘアスタイル、とても似合っています。
また、練習やウェイトで忙しい中、バイトもがんばっていました。運搬業、週6の家庭教師、隙間時間の単発バイトなど多岐にわたる仕事をしていたそうです。
私をはじめとする多くの部員と違って、親の脛をかじらず自立した生活を送っていているところ、尊敬しています。
ラグビー面では、未経験ながらスイカのスタメンに定着し、自分の頭を犠牲にした猪突猛進タックルを何度もかまして大活躍でした。将来が心配なのでどうぞお大事に。
そして何より、雪竹の1番の魅力は心が綺麗なところだと思います。
名古屋のAMFでリレー日記について話していたら、「紹介は長ければ長いほどうれしいなぁ、できれば人間性を褒めてほしいかなぁ」と言っていたので、ちょっと長めに書いてみました。
この素直さがみんなに愛される秘訣なのでしょう。
Bench Press
投稿日時:2024/12/21(土) 18:18
辻からバトンを受け取りました、4年の本多です。3年前の京大C戦で1番と3番としてデビューしてから、辻とは多くのスクラムを共に組んできました。先輩たちから、自分たちは「辻の代」だといじられるほど、常に話題の中心にいた辻に、なんやかんやでいつも楽しませてもらった気がします。彼の最後のリレー日記を読んで、こいつ大丈夫なのかと心配になった人もいるかも知れませんが、安心してください。母に買ってもらったアルマーニで全身を包み、怖がりでジェットコースターに乗れず、酔っ払うといつも以上に面倒くさくなる。彼はそんなかわいらしい人間です。誰よりも涙もろく、そして実は誰よりも仲間思いな辻の最後の勇姿を、暖かく見守ってくださると幸いです。
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幼稚園のころ、母が作ってくれるお弁当にはいつも梅干しが入っていた。
とても小さくてカリカリとしたその梅干しは、幼稚園生が食べるにはあまりにも酸っぱく、自分はどうしてもそれを食べることができなかった。昔から食べることが大好きで、「好きな食べ物は?」と聞かれたら、「全部!」と答えるような子供だったけれど、唯一梅干しだけは今も苦手なままだ。
幼稚園では、食べ終わった人は先生のところに弁当箱を見せにいき、空っぽであることを確認してもらうことになっていた。母はいつも「これは殺菌用に入れてるだけだから食べなくていいよ」と言っていたけれど、先生にはそんな言い訳は通用しない。
そこで自分はいつも梅干しを弁当箱の隅に押し込み、他のゴミで蓋をして、隠して先生に見せていた。なぜなら、誰よりも早く弁当を食べ終わることに必死だったからだ。1番になるためには、苦手な梅干しと格闘している時間などなかったのだ。
小さい頃の自分は、なんでもかんでも1番にならないと気が済まなかった。テストの点数はもちろん、楽器の演奏や図画工作だって誰よりもよい評価を貰いたかったし、実際頑張ればある程度そつなくこなすことができた。毎日誰よりも早く給食を食べ終わっていたことは言うまでもない。中学校に入っても、負けず嫌いで出たがりの性格は変わらず、3年間学級委員をやり続け、生徒会にも入った。成績は常に学年トップだったし、国語の課題でやった弁論で学校代表に選ばれたり、美術で作った彫刻が市民ミュージアムに展示されたりしたこともあった。
高校に進学する際にも当然、3年間勉強だけをして終わる気はさらさらなかった。そこで自分が目をつけたのがスポーツだった。中学校でも部活には入っていたが、本気で勝ちにこだわる環境に身を置いたことはまだなかった。偏差値よりも、「文武両道」を掲げる校風に惹かれて川和高校へと進学した。
選んだのは中学校でも入っていたハンドボール部。全国的にも有名な鬼監督の指導のもと、公立高校で未経験者も多い中、毎年県の上位に食い込んでいくチームだった。監督のコネで全国レベルの強豪校とも試合や練習ができる環境が整っており、ここならスポーツでも上を目指すことができると思った。
しかし現実はそう甘くは無かった。
待っていたのは今までに体験したことのない世界。5時に起きて朝練をして、午前中の授業の合間に早弁をして、昼休みに練習して、放課後も夜まで練習して。年末年始の休みは31日と1日だけ。当然授業も寝てばかり。常に監督の怒号が飛び交う中で、自分はただ練習についていくだけで精一杯だった。なかなか試合に出ることもできず、気づけば同期の中で、最も多くの時間をベンチで過ごした選手になっていた。
普通に頑張るだけじゃどうにもならない「スポーツ」という世界。どんなことでも1番になれると思っていた自分に突きつけられた負け組の現実。そんな自分を認めたくない防衛本能からか、悔しい、負けたくないという感情をだんだんと失っていった。そして、ただ日々の練習をこなすことそのものに価値を感じるようになっていった。つらい練習を乗り越えた仲間と馬鹿話をして笑い合う。そんな日常に救いを求めた。あれだけ負けず嫌いだった自分はもうどこにもいなかった。試合に出られなくて感じるのは、悔しさではなく、みんなと同じ場にいられないことに対する、疎外感や寂しさといった諦めにも似た感情だった。
東京大学運動会ラグビー部。
最後の学生生活でもう一度スポーツに打ち込みたい。
新しいことに挑戦し、何かを成し遂げたい。
自分はそんな熱い思いを持って入部を決めたわけでは決してなかった。
高校で部活を引退した時には、つらい練習や惨めな思いはもう懲り懲りだと思っていた。大学ではチャラチャラしたサークルにでも入って、いわゆる「普通」の大学生活を送ろうと考えていた。ただ一方で、「部活」という空間自体は好きだったし、長い時間を共に過ごした仲間と一緒にいることはとても居心地が良かった。結局大学でもそんな環境が恋しくなり、部活に入ることに決めた。ラグビーを選んだのにも大した理由はなく、怠惰な浪人生活でまるまると肥えた身体を見た先輩たちに、才能があるとおだてられたからに過ぎなかった。ラグビー部が強いなんてそれまで聞いたこともなかったし、東大の部活なんて大したことないだろう、自分でもついていけるだろう、そう高を括っていた。
入部してからの生活は楽しかった。常に監督の目を気にしていた高校時代とは違って、のびのびと練習することができた。早食いを極めていた自分にとって、体重を増やすことは苦でもなんでもなかった。個性豊かで面白い同期に恵まれ、充実した日々を過ごしていた。その一方で、いつかまわりに置いて行かれてしまうのではないかという不安もあった。OB、OGによる手厚い支援、美しい人工芝のグラウンド、プロのコーチによる指導。そして、高い志を持った部員たち。入部前に想像していたのとは違い、東大ラグビー部には高い目標を目指すことのできる環境がしっかりと整っていた。そしてなにより、試合に出ることが怖かった。どんな相手にも負けたくない、誰よりも上手くなって活躍したい、そんな気持ちを持たずに入部した自分にとって、重い身体を引きずって走り続けなければいけないラグビーの試合は、ただただ苦しいだけの作業だった。早くスイカを着て試合に出たいと息巻く同期たちの中で、自分は内心、ずっとジュニアの気楽な生活が続いてくれればいいのにと思っていた。
2年生の夏、左膝の前十字靭帯を断裂した。コロナにかかってしまったこともあって手術が遅れ、そこからまるまる1年間DLとしてリハビリ生活を送ることになった。診断結果を伝えられた時のことは今でもはっきりと覚えている。自分の周りだけ時が止まり、音がなくなってしまったような、あの奇妙な感覚を忘れることは、これから先もきっとないだろう。そこからの1年間、DLとしてみんなと異なるタイムラインで部活に参加する中で、自然と、練習後の談笑に混ざったり、一緒に昼飯に行ったりすることが少なくなっていった。ラグビー部の中で、自分の居場所がなくなってしまうのではないかと恐怖を感じた。練習のたびに誰かが怪我をすることを期待している自分がいた。新しくDLに誰かが入るたびに、表面上は心配しながら、心の中では一緒にトレーニングできることを喜んだ。その間は、がむしゃらにバトルロープやワットバイクに打ち込んだ。まわりはそれを見て、頑張ってるなと声をかけてくれたが、むしろ何もせずに練習を見ていることの方が辛かった。少なくとも身体的に自分を追い込んでいる間は余計なことを忘れられたし、一時的な達成感を得ることができた。
その一方で、どこかで安心してしまっている自分もいた。少なくともDLの間は試合に出てしんどい思いをしなくて済んだ。そして怪我をしたことで、逃げるための口実を作ってしまった。未経験者で入部したのに、1年間も遅れをとってしまったら、スイカを着れずに終わってしまっても仕方がないだろう、と。自分の中で、諦めるための大義名分ができてしまっていた。
そんな中でモチベーションになっていたのは、ウエイトトレーニングだった。ラグビーやハンドボールと違って、ウエイトは頑張れば頑張るだけ成長し、すぐに結果として帰ってきた。特にベンチプレスに関しては才能があった。人よりも腕が短い歪んだ骨格はベンチプレスに適しており、2年生の時点ですでに部内で一番の強さになっていた。もしベンチプレスがなかったら、もし膝ではなく上半身の大怪我をしていたら、今の自分はいなかったと思う。対抗戦Bにおいて、そして100年を超える東大ラグビー部の歴史において、自分よりもベンチプレスが強い人間は存在しないだろう。そのことは大きな自信につながった。
3年生の夏、練習に復帰した。当時チームは新ルールに対応するためにシングルタックルを導入しているところで、ブランクのある状態でもすんなりと合流することができた。なにより、久しぶりにみんなと練習ができることが嬉しかった。もう少しだけ頑張ってみるか、そう思った矢先に足首を捻挫した。復帰してから2週間かそこらの出来事だったと思う。それほど重い怪我ではなかったが、その後の夏合宿では1日も練習に参加することができなかった。合宿後に復帰した時には、Bチームにすら自分の名前はなかった。みんながADをしている中、自分はグラウンドの端で1年生とコンタクトの基礎練習をしていた。
対抗戦に向け、それぞれが気持ちを作っている中で、誰にも相談することはできなかったが、当時の自分はプレイヤーを辞めることを真剣に考えていた。S&Cのスタッフになって、4年生になったら主務でもやろうと思っていた。自分にとって試合に出て活躍することなどどうでもよかった。ただこの部活に居場所が欲しかった。プレイヤーではなく、違う道でチームから認められるようになろうと思った。
対抗戦第3戦、成城大学戦。思いがけず転機が訪れた。前節の一橋戦での不運なレッドカードによってあきおが出場停止になり、自分がリザーブに入ることになった。16ヶ月ぶりの復帰試合が、まさかの対抗戦デビュー戦。そんな自分がメンバー入りしなければならないほど、チームのフロントロー不足は深刻だった。5分にも満たない出場時間だったが、5回連続してタックルに入って、プレーに参加することができた。初めてラグビーの試合が楽しいと思った。チームメイトや応援に来てくれていた先輩たちが、おめでとうと声をかけてくれた。初めてもっと試合に出たいと思った。
結果的にこの年は残りの対抗戦全てでメンバー入りをして、日体大戦、武蔵戦ではスタメンとして試合に出ることができた。決して実力で勝ち取ったポジションではなかったし、ついていくのに必死でチームのことを考える余裕などなかったけれど、今できることは全てやろうと思うようになった。もう2度と怪我をしないように、身体のケアを徹底した。睡眠の質を高めるために、1時間前から電子機器を断ち、ストレッチとマッサージの時間にあてるようになった。ラグビー理解力を高めるために、隙間時間で試合を見るようになった。最後の京大戦では、スイカを着て80分間通して出場し、長い部活人生の中で初めて、自分が出た試合で涙を流した。こんな自分を信じてくれたチームに恩返しがしたかった。先輩たちを勝利で送り出したかった。それができない自分が不甲斐なかった。
4年生になって、S&Cセクションの長に就任した。チームの中で自分の明確な役割ができたのは嬉しいことだった。相変わらず試合ではしんどい思いがほとんどだったけれど、スクラムは楽しかった。ウエイトと同じで、スクラムも組めば組むだけ成長し、強くなっていくことを実感できた。大きな怪我もなく、春シーズンは全ての試合にスイカを着て出場することができた。今年のチームならば必ず入替戦に行けると信じていたし、その目標達成のために貢献したいと思っていた。あきおがアキレス腱を断裂した時、自分がその代わりにならなければと思った。せめてあきおが戻ってくるまでの間だけでも、東大の3番を守り続けることが4年生としての責任だと思った。
そんな中で、自分の足を引っ張ったのは、他でもない自分自身だった。今年1年はとにかく自分との戦いだった。
まわりについていくことだけに必死だった去年とは違い、今年は、冷静に自分自身を見つめ直すことのできる時間が増えた。そしてそのことが逆に、現状に満足している自分がいることを気づかせてしまった。高校時代の長いベンチ生活。そして、1年間のDL生活。その時に感じた、疎外感、無力感。もうそんな惨めな思いはしたくない、周りに置いて行かれたくない。それが自分の原動力だった。それは常に、マイナスからゼロを目指す作業だった。負けず嫌いだったあの頃のギラギラした自分は、もう戻ってこなかった。いいプレーをして、チームを勝利に導く。試合に出たその先にある、ゼロからプラスを生み出す行動。そのためのモチベーションの作り方を、自分は思い出すことができなかった。
それまでの部活人生で得たものといえば、自分を納得させるための言い訳作りが上手くなったことだけだった。現実を知り、諦めることを覚え、悪い意味で大人になってしまった。
頭で考える理想に、心がついていかなかった。常に自分の中に、矛盾を抱えていた。今日はいまいち練習に身が入らなかったな、今日はこなすだけのウエイトをしてしまったな、そんなことを思う日が去年よりも多くなった。本当に入替戦にいきたいと思っているのか分からなくなる時があった。鵜木に3番を奪われた時も、やっぱりダメだったかという諦めの気持ちが先行した。チーム状況的に、メンバーから外されることがないことは分かっていた。試合に出ることができるなら、スタメンでもリザーブでもどっちでもいいと思っている自分がいた。
今シーズン、試合に負けて、何度も涙を流した。1点差で敗れた国公立大会決勝の学芸大戦。ターゲットマッチに定めていた山中湖での慶應戦。そして、成蹊戦、明学戦。その度に、チームの勝利に貢献できなかったことへの、不甲斐なさ、申し訳なさでいっぱいになった。怪我で苦しみながらも、試合後にみんなの前に出て言葉を紡ぐ寿太郎の姿を見て、心が引き裂かれそうになった。自分の中のくだらない感情に振り回され、純粋に勝利だけを追い求め続けられないことで、激しい自己嫌悪に陥った。もしかしたら、これらも一種の悔しさと呼ぶことができるのかもしれない。けれど自分はそれをエネルギーに変え、行動に移すことができなかった。そこから目を背け、それまでと変わらない日々に戻るほうが、はるかに楽で簡単だった。
ーーーーーーーーーー
村を一歩出た瞬間からもう捨てたはずだ”平穏”や”安全”なんて・・・!!
毎日命はって生きてるからあいつらは本当に楽しそうに笑うんだ!!
だからおれは海へ出ようと決意した!!
あいつらみたいにめェいっぱい笑いたくて!!
今ここで全力で戦わなかったおれにあいつらと同じ船に乗る資格なんてあるはずもねェ!!!
あいつらと本気で笑い合っていいはずがねェ!!!
漫画ONE PIECEにおける主要キャラの1人、ウソップのあるワンシーンです。
臆病で見栄っ張りで、いつもは逃げてばかりのウソップだけど、仲間がピンチの時には、どんな強大な敵にも立ち向かいます。高校時代に、一度は諦めたスポーツの世界だったけれど、この4年間で、昔の負けず嫌いだった自分を取り戻し、挑戦する楽しさを思い出すことができました。ラグビーの試合は怖かったけれど、仲間のことを思うと、どんな相手にも向かっていくことができました。明学戦で、スクラムペナルティからモールでトライを取って逆転したことは、僕の人生で最高の思い出です。歴史に残る入替戦出場を果たした代の一員になれたことを、とても嬉しく思います。ルフィやゾロにはなれなかったけど、ウソップくらいにはなれたかな。
最後はそんなリレー日記を書くつもりだった。
そんなリレー日記が書きたかった。
けど書けなかった。
すでに最後のリレー日記を書き終えた4年生、そしてこれから書く4年生もきっと、それぞれ形は違えど、ラグビーという競技と、今年の東大ラグビー部というチームに真剣に向き合っていた。自分はいったいどうだっただろうか。
3年末の学年ミーティングで、皆が思いを語る中、それをどこか他人事のように聞いている自分がいなかっただろうか。怪我をすることの苦しさ、試合に出られないつらさを、人一倍知っていたはずなのに、同期や後輩が苦しんでいる時、何か手を差し伸べることができていただろうか。本当の意味でのチームの一員、本当の意味での「仲間」になることができただろうか。そこそこ練習して、ちょろっと試合に出て、あとはみんなとわいわいやってるだけで満足の、ただ自分が傷つかず、楽しければそれでいい、ちっぽげなオナニー野郎にすぎなかったのではないだろうか。
最後の対抗戦になった武蔵戦。入って1本目のスクラムで、自分がコラプシングをして、チームの勢いを止めてしまった。なぜか終わった時には、一滴も涙は流れなかった。その日からずっと、自分に問いかけを繰り返す日々が続いている。
残されたのはあと2戦。このまま引退を迎えてしまえば、これから先も、何も成し遂げることのない、つまらない人生で終わってしまうことだろう。この4年間は、いったい何のための4年間だったのか。その答えの欠片を掴み取るために、走り、当たり、闘う。
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最後までお読みいただき、ありがとうございました。思えばこのリレー日記というコンテンツも、4年間の楽しみのひとつでした。自分が書く下品なリレー日記を、少なくともプレイヤーの皆さんには楽しんでいただけたようで嬉しかったです。みんなリレー日記を読むことは好きなのに、書く方になると腰が引けて、ありきたりな文章を書いてしまいがちな傾向があるように思います。自分が書くのはこれで最後になりますが、ぜひこれからも、リレー日記の文化を盛り上げていって欲しいと願っています。
加えてこの場をお借りして、お礼の言葉を述べさせていただきたいと思います。怪我から復帰した自分を厳しく指導してくださった大西さん。どんな試合の後でも固い握手を交わしてくれた一聡さん。いつも熱い檄を飛ばしてくれた青山先生。ウエイトと身体作りの楽しさを教えてくれた太田さん。選手の目線でサポートし続けてくれた原さん。怪我のたびにプレーするための方法を教えてくれた工藤さん。こんな自分を可愛がってくれた先輩方。こんな自分を慕ってくれた後輩たち。応援し続けてくれた家族。とてもここに名前を書き切ることはできませんが、4年間自分に関わってくれた全ての人に、心からの感謝を伝えたいです。本当にありがとうございました。
そして愛すべき同期たち。いつもは照れ臭くて言えないけれど、大好きです。これからも死ぬまで仲良くしてください。
次は我らがスタッフ三銃士の1人、もりぞーにバトンを渡します。会報セクション内で「改革女」の異名を取るもりぞーは、財務やメディカルでもその敏腕を轟かして東大ラグビー部を陰から牛耳っており、その仕事ぶりはOB・OGの方々からも一目置かれていたようです。派手な髪色がトレードマークな見た目とのギャップに、心を撃ち抜かれた部員も少なくないとか。日常的に会えなくなるのは寂しいけど、忙しい中でもたまに会ってください。
容疑者Xの献身
投稿日時:2024/12/18(水) 20:07
残り2試合しかないですが、塩谷とともに戦える時間を存分に楽しみたいと思います。
3年の夏のリレー日記でそれ以前のラグビー人生については語ったので、今年の話をしよう。
人間、希望があって初めて生きられるものだと思う。その希望を何に見いだすかは人それぞれだ。部活、仕事、勉強、恋愛など、色々だと思う。
今年の自分にはそれがなかった。本当にしんどいだけだった。もちろん同期や後輩、ジュニコの人たちと話してるときは楽しかったけど、ラグビー中は楽しめてなかった。それはなぜなら、希望がなかったからなんだと、今はそう思う。4年生としてのプレッシャーとか責任とか、そういうことではない。
僕の希望が消えていった顛末を記したい。
今年1年のことは昨日のことのように鮮明な記憶として残っている。
シーズンインしてすぐ大雪で雪かきをしたこと。明らかに無駄なことをしているのにマジョリティがそうだから従わされたこと。平気で嘘をついて部活を休む4年生。足を攣っても誰も助けない合同練習。春はBBCのしんどさより人間がしんどかった。そういえば、分析戦術の長になったはいいけど、学年ミーティングで話されなかった「アドバイザー」がいて全権を握られたってのもしんどかったな。前ヘッドコーチを追い出したいだけなんだろうなぁっていうのも感じてしまって、話し合いというよりただの政治。根回しの世界だった。
書き出すだけでもしんどくなる2月~3月を乗り越えると新歓が始まった。新歓に関しては過去のリレー日記で書いたからそれでいいや。桑田を初めとして新歓委員の人は本当にすごいと思います。来年以降も頑張ってほしいです。この活動が部のリソースを増やすことに直結するので。
新歓試合とか合同練習を経て、いっそうさんとのコミュニケーションをみんなが取れるようになった矢先、足を捻挫した。その日は少し就寝時刻が遅くて、若干寝不足アップ不足みたいなとこで、、、っていう言い訳したらいくらでも言えるけど完全に自爆だった。このときもみんなまともに扱ってくれなかったなぁ。辻金が一緒にいてくれて助かりました。ありがとう。歩きにくいのもあったけど1人なら精神的におかしくなってたと思う。
5月中旬まではリハビリしてた記憶しかない。あきおと塩谷がいたからこそ頑張れました。精神弱い系なので、助かりました。俺の都合で原井が今年になってメンター引き受けてくれて、助かりました。結構キテたときに話聞いてくれたり、合宿中に毎朝毎晩リハビリ手伝ってくれたりして、ありがたかったです。おかげで国公立に間に合わすことができて、一橋からはスタメン出場出来た。
でも立教でピールオフを止められず、干され出した。いやまぁ実力不足だから仕方ないかぁとは思った。安食くん須川くんと話せてAMFが楽しかった。
逆にその翌週の防衛はスクラムペナからモールで結果逆転できて気持ちよかった。コンバージョン待ってるときにスタッフに「ナーイス」って言われて、あの時は久々に高揚感を覚えた記憶がある。
早稲田戦、またスタメンで選ばれて、あのときはすごくチームへの気持ちがあった記憶がある。ワセダは、齋藤直人や岸岡を見てラグビーを始めた自分にとって思い入れのあるチームだし、だからこそ本気で倒したいと思っていた。前半、自分のタックルが1つ決まって、それが嬉しかった。ワセダのFWに通用するってのがとても嬉しかった。タックルは下手だし今でも苦手意識あるけど、それが少しの自信につながった。復帰してから少しずつタックルできるようになって、毎試合のタックルを國枝さんに送っていた(今も継続しているので、國枝さんには申し訳ないですが見てくれてありがとうございます)のも懐かしいなぁという気持ちになっている。試合には負けてしまったけど、春シーズンのベストマッチであることに間違いないと思うし、今年の東大は強いなとこのとき感じた。
その矢先、九大戦で肉離れした。やったときに、攣ったときとは違う感覚になって、(あーやったわ)って思ったのも覚えてるし、そこから明らかにスクラムのヒットに恐怖を覚えるようになった気がする。幸いそのあとはオフだったので、何も考えずにいられたけど。このときは笠原さんにすごくしごかれて、しんどかったけど、「絶対に早く復帰してやる」と思えたし、少しずつ走れるようになるのが楽しくはあった。
山中湖での慶應戦は、復帰したばかりだったので控えになるのは想定内だったし、一木の腰がやばいって当日知って、(あーこれ出番早いな)と思った。案の定前半から出たけど、クソしんどかった記憶しかない。明らかにスクラム勝ったのにアドバン取られてたな、そういえば。結果的にワセダのときとはほど遠い結果になって、チーム全体が悶々としていた感じなのを覚えている。そのあとのバーベキューも色々あったし、でも僕の中では或る意味希望の光が差し込んだ日だった。
菅平くらいからだろうか、チームに対して不信感というか、なんかもどかしいというか、うーん…なんだか馬鹿馬鹿しいなと思うようになったのは。
ペナ吹かれたことと、ムードミーティング?みたいなミーティングしたことで頭がおかしくなった。いや、あれを大真面目にやってるのが馬鹿馬鹿しすぎて、笑ってしまった。後輩の中には、自分がこの部活で何しているのかわからなくなって、親に電話している人もいたようだ。
なんだろ、どうにかしたいのは、理解するけど、ズレてるというか。それが正しいのかもしれんけど、首脳陣が残りを置いていってる感じがすごくて、呆れてしまっていた。でもその裏で、いいこともあった。まず合宿の部屋が楽しかった。石澤がシンビンになった日とか謎ペナ取られた時はかなり荒ぶった記憶あるなぁ。結果的に石澤は懲罰お休みを貰ってしまったようで申し訳ない。。。それと、1年生と仲良くなったこと。三上にビデオレビューとかしたなぁ。純粋にラグビーを楽しむ1年生は僕にとって希望であった。
そして訪れた9月。最後の対抗戦だ。去年とは全然違う。去年はついていくのに必死だったけど、今年はやらないといけない立場にあって、ある程度周りも見えるくらいの余裕はあった。だからこそ、自分にも周りにももっと求めていきたいという気持ちはあったし、分析戦術チームとしての本番はここからだったので結構緊張していた。
初戦の一橋。控え。体調不良よりも評価が低いという事実にイラッとしたが、後半から目立てばいいし、別に時間が平等にあるならと受け入れた。
試合は、完勝だったと思う。個人的には1個いいタックル決めたのと最後のスクラムが脳汁ドバドバ出るくらい気持ちよかった。試合後パスタ食べながらそこだけ無限に再生してた記憶ある。ありえないくらい緊張してたからこそ、勝ったことで「なんだいけるやん」って気持ちと「このままだと成蹊明学は厳しいな」という気持ちが両方うまれた。
上智は苦しんだけど勝てた。「成蹊明学は…」の気持ちが俺の中ではかなりデカくなった日でもあった。連戦をボーナス付きで両方取れたことが、チーム内でのいけるという雰囲気、そしてOBからの大きな期待に繋がっていて、嬉しい反面、自分含め浮足立ってしまっていないか不安というか、現実とまわりからの評価にかなりの乖離があると感じつつあった。
学習院戦は「いっそうダービー」ということで、相手は死に物狂いだったのを覚えている。それでも勝てた。ありがたいことに人生で初めて走ってトライを取れたのでありえないくらい気持ちよかった。セブンス日本代表が近づいてくる感覚忘れられないくらい気持ちいいですね。ベンチにいた鵜木とか福元がバカ騒ぎしてて、普段めったに喜ばない人も拍手してたみたいで、結構嬉しかったです。
成城は我儘言ってスタメンにしてもらったけど、散々な出来で結構萎えた。成蹊の前の試合でこのプレーはヤバいし、チームの勢いを止めてしまったかもなぁと思ったけど、後半なんとか勝ってくれて助かりました。
とまぁ前座はこれくらいにしておいて、いよいよ成蹊明学が目の前に来た。
成蹊の過去のゲームは3週間くらい前からかなり見まくっていたし、誰がどういうアタックをしてくるか、ラインアウトのサインはどんな感じか、スクラムはどう組んでくるか、もかなり想定していた。そのうえで、4分6分くらいであっちの有利だけど、なんかしらで想定外が起きたら勝つと思っていた。
でも結果は負け。結果だけ見たら惜しかったと言えるかもしれない。けど、たぶんあと何回やっても勝つことはなかったと思う。全員ハードワークしてたし、勝ちを信じてたと思うけど、俺は実力差を感じてしまった。
プレーヤーとしての自分は、翌日になって切り替えられたけど、分析官としての自分は、(相性的に成蹊に勝つ算段だったのに)と思ってしまっていた。でも、ありがたいことに、自分の手で、客観的でクソみたいな予測を変えられるから大丈夫だとも思えた。ただ、一木が明らかにバテてスクラムでそっちがやられてるのに、交代されなかったことに不満は募るばかりだった。
10/29から明学までは日記形式で表すことにする。
10/29
この日から集合が早くなった。テーピングをしている自分は、早く行くとあらかじめ伝えて普段より20分早く来た。家近い人たちは、家出る時間を5分前倒しすればいいかもしれないけど、そういう人たちがいることにも理解を示してほしいです。まぁでも、それくらい4年生は普通にやらんとなとも思えたから受け入れた。しかし、テーピングスタッフはいつも通り来たため、20分部室で待ちぼうけを食らった。
10/30
昨日と同じ。しかも先に巻かれない。ブチギレるのも当然でしょう。この日、「正しさ」よりも「なんとなくウケが良い」方に人間が流れるのを目の当たりにした。3年間で「何を言うか」じゃなくて「誰が言うか」が正しさなのだと理解していたはずだったが。どうやら「大人」の社会はそういうものらしいです。あーあとそれに関連すると、「体裁がいいクズ」がスタッフウケいいので、スタッフからの評価を高めたい諸氏は是非参考にするといいと思います。優しくするだけだと「使い勝手のいい道具」でしかないです。否定されるだろうけど、4年間で得た知見(n=4)です。
10/31
久我山との合同練習。
いっそうさんに謎の叱責を受ける。戦術に関わることなので詳しくは書かないが、理解に苦しんだ。久我山がラインアウトに並ぶ人数を言わないので邪魔したら突っかかってきたので、対応したら「高校生にあれはみっともない」という謎意見を出された。ちょっと花園出てるからって関係ないやろ。じゃあJRさんやIBMさんにはやるのか?という話。
いっそうさんと練習後ずっとLINEした。やりたいことは理解したけど、いやじゃあ俺だけにそれ言うなよという話だし(実際その話を全員に共有したのは明学終わってからだったし。)
11/3
成蹊との練習試合。B戦がめちゃくちゃ楽しいことを実感した。安富さんとスクラム組むと、俺の良さを引き出してくれるのでやりやすいし楽しい。東農大のときもそれ思ったことを思い出した。
その一方で、起用法への不満は同じくらい募った。俺ばかり被害者なのではなくて、2から3にコンバートされた後輩や元々メンバーだったのにメンバー外にされて、それを差し置いてメンバー入りするのは何なんだろうと。3人がその割を食うのおかしいでしょと思った(今も思ってる)。
11/6
某大学との合同練習。
謎にフッカーでスクラムを組まされる。ここでチームへのフォロワーシップは完全に失墜した。分析だけやってりゃいいのね~と思わされたし、明学出番ないことを察した。まぁ春から首脳陣とかに反抗的だったので、干されるのも仕方ないかぁと思いつつ、去年からAチームだった自分ってなんなんだろという気持ちになった。
11/7
久我山との合同練習。
アドバイザーが俺を干してると思っていたので、練習中に舌打ちしたりなど結構歯向かっていた。後になって確かになと思ったのは、彼にはそこまで強い意志がないという話だ。権力者にすり寄るのがうまいので、その権力者の意見に同調しているだけということに、そのときはまだ気づいていなかった。
11/10
明学との試合。
鵜木とようこに、この試合負けたら辞めようかなと話していた。このチームに必要とされてないと感じたからだ。
案の定試合には全然出されず、試合を見るだけだった。本多1は無理って言ってたのにねって感じだけど、首脳陣が決めたことなので、それ以上に俺を起用したくないという強い意志を感じた。スクラムひっくり返されてトライ取られたところで我慢の限界がきて、いっそうさんたちに「とりあえずスクラムだけは変えるんで、試合に出してください」と打診した。交代して最初のスクラムでやられたら面目が立たないので内心エグいくらい緊張していた。でも結果的に俺が入ってから大量失点して大敗。シャトルランのように戻るたびに立ち上がれない東大の15人とそれを見て何とも言えない表情のメディカルスタッフ。
試合が終わって客席に挨拶をする時、全く涙が出なかった。(あーあっけなく終わっちゃった)の一心だったし、入れ替え戦って遠いなと急に客観視していた。でも、東大ベンチに挨拶する時、目の前に同期スタッフがいて、泣くまいとやるせない表情をしているのを見てしまって号泣してしまった。あの悲しみに暮れた表情は今でも脳裏に焼きついているし、たぶん一生忘れられないと思う。チームの一員として何もしてやれなかったんだと気付かされた。あの試合後はいろんな意味で希望の光が消えた瞬間だった。
試合が終わって、國枝さんからラインが来た。「今日はしっかり反省して、明日から顔あげて頑張れ」と言われた。そうか、國枝さん武蔵来るんだよな。そう思った。ここで辞めたら、國枝さんに自分のプレー見せられないのか。その気持ちだけで引退はしないことにした。
でも、一度消えてしまった火を戻すのは出来てなかったのかもしれない。はっきり言って明学から武蔵はほぼ何も覚えてない。何の気力もなくなっていた気がする。5勝したらどうとか、マジでどうでも良かった。20年以上続く「入れ替え戦に出られない代」の1つになっただけ。それと同時に、武蔵も使われないなら、家族とか友人を呼んでいて恥ずかしいというか申し訳ないから出さないならそう言って欲しかった。もちろん聞いても「23人で戦う」みたいな御託を並べられるだけなのは分かっていたけど、自分は何を目標に、何のためにラグビーすればいいかわからなかった。
そういう時に、鵜木や西久保さん安富さんが近くにいて話を聞いてくれたり、彼らのおかげで自分らしさを保てていたりしたのは本当に大きかった。西久保さん安富さんの2人がいることで、去年の自分を忘れないでいられた。2人ともありがとうございます。鵜木もありがとう。
武蔵は自分の中ではベストを尽くせたと思っている。あれが、よくも悪くも今のチームなんじゃないかなと思います。武蔵の人には失礼かもだけど、普通に東大のラグビーやったら勝てる相手だと今でも思うし、この試合落とすところが今年の東大らしいというか、4年間見てきた東大ラグビー部っぽいというか。ただ、不思議なことに負けて悔しい気持ちが全く湧かなかった。自分が出た時点で厳しい戦況だったし、自分はベスト出せたと思ってるし、後半勝ってるし。自分はチームスポーツというか人と何かをやることに向いてない(⇔人間として終わっている)のかもしれないです。
武蔵終わって負けたことよりも明学に負けたことのほうがいま(2024/11/29現在)でも心に残っている。勘違いしてほしくないのは、武蔵のときも試合中はタックルとスクラムとモールと、自分の役割をやり切ることに執着していたし、勝ちを諦めなどしてなかった。ただ、たぎるものがなかったというか、淡々と仕事をこなしている感じなのは否めなかった。それに、なんか周りのアツい気持ちを感じられなかった。でも、いいタックル決めれたしスクラムペナ取れたし、それは気持ちよかった。
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思えば、去年の学年ミーティングから良くないことだらけだったんだと思う。良くないって言い方はアレだけど、でも全員が自分なりに考えた結果とは言えるのか分からない。前提を履き違えた人にも同じ票があること、自分が信頼していた人が直前になって意見を変えたこと、などなど…「間違った選択かもしれないけど、それを正解にしよう」って端的に集団心理の愚かさを表してしまっているなと思ってしまった。結局それって、勝つ確率を高めること<自分の成長なんじゃないかなと。いや、もちろん個人の成長とかはめちゃくちゃ大事だし必要なことだけど、勝つための選択というわけではないと感じた。
それに、武蔵終わったあとのミーティングかなんかで、「いつまでも規律を正せなかった」みたいな話があって、それはそうなんだが、たとえば、無断遅刻した人間をその日の練習から外すとかしてもよかったんじゃないの?って今でも思う。別に俺はリーダーでも何でもないからそんなことに口を出す権限ないけど、普通チームってそういうもんじゃないの?って思ってた。でもそうじゃなかった。僕たち下手くそな人からしたら「結局ラグビーの実力だけじゃん」ってなるよね。それってフォロワーシップを落としかねないと思った。
あとは、重ね重ねになるけど明学戦前後は本当に精神的にキテた。何の説明もなく、大一番で起用されない控えフロントローとか惨めそのもの。あきおは「別に大差ない(からスローを考えて控えにしてる)」と説明してたけど、いざとなったら「自分に交代の権限なかった」って言い逃れするし、なんか結局自分たちがでられればそれで満足なのか…と。武蔵もそう。「2試合の責任を取る」っていう説明してたけど、3番でずっとスクラム組んでるあきおなら分かってたやろ。どのメンツで組むスクラムが1番強いのか、どのメンバーでやるのが1番勝つ確率を高めるのか。別にケガを責める意図は全くないけど、そのせいで下手を打って変な責任の取り方して思い切ったことをしなかった。俺は武蔵の負けはそれも大きいと思っているし、申し訳ないけどずっと恨むと思う。武蔵の負けだけは本当に許せない。
そして、今年の入れ替え戦に自分含め誰も行かなかったことは、後輩に対して不信感を与えてしまっただろうし(行くつもりあったけどみんな行くつもりなさすぎて行くのやめちゃった人もいるみたいだが)、最後までこの学年が絶望的に他人に興味ない、よく言えば自分たちの結果のためなら何でもする、悪く言えばわがままで自分本位な学年なんだなと感じた。
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あと少しで4年間のラグビー人生が終わる。ワールドカップに魅せられて、林新太郎と財木さんに騙されて入ったラグビー部。上ではこう書いてるけど、楽しいことも多かったし(しんどいことはそれの数倍多かったけど)、ラグビーが好きなので、生まれ変わってもラグビー部以外の選択肢はないと断言できる。でも、「結果は残念だったけど、俺たちはやりきった。後悔はあるけど満足だ」みたいな綺麗事を言うつもりは全くないし、リレー日記のそういう風潮はクソなので、やめてほしいです。負けは負け。負けた代の1人だし、分析長として、それなりに責任は大きいとおもう。後輩に、去年より上の舞台を見せられないのが申し訳ない。
自分のラグビー人生の転機は間違いなく2年前の常翔の日。試合はもう数シーンしか覚えてないけど、1日何があったのか、今でも鮮明に覚えてる。そこから3年の対抗戦始まるくらいまでは本当に色々と良かった。本当に今との対比でしかないけど、プライベートも楽しくて今から振り返れば最高の日々だった。今のほうがラグビー的な実力はあるだろうけど、安富さんとあきおについていくあの半年は、この4年間で1番もがき苦しみ、楽しかった半年だったと思う。人間関係もすごく良好だったし、誰かに期待されているという実感ほど、自分が生を感じられる瞬間はないのだと感じる。
最後に、
大西さんへ
自分のラグビー観や、理想のラガーマン像に影響を与えてくださったのが大西さんです。言わずとしれた名選手にラグビーを教わることが出来て、僕は本当に感謝しています。最後の1年を大西さんに見てもらえなくて悔しいです。
國枝さん、西久保さん、安富さんへ
3人にはラグビー面でもプライベート面でもめっちゃお世話になりました。3年生の時タックル出来なさすぎてチームに大迷惑かけていたと思うんですけど、諦めずに指導してくれたお陰で今の自分があります。特に國枝さんは3年生の入れ替え戦のあと電話で、「最終的にAチームで出れなくてもいいから4年間やりきって、タックルできるようになれ」って言ってくれたことが春シーズンの支えになっていました。ありがとうございました。飯連れてってください。
同期へ
人数多くていろんなタイプの人がいて、偏った交友関係の自分からしたらびっくりな人もたくさんいましたが、、、とても楽しかったです。スバルとか小野とか清和とかラグビーIQ高くてラグビーに詳しい経験者と今年分析戦術一緒にできてめっちゃ楽しかったです。あと、ずっとフロントでやってきてウエイトのお手本だった本多、あきお、駒場メイトの寿太郎、数少ない山手線ユーザーで長い事一緒にいたようこ、スパイク直してくれて、メンターしてくれたもりぞーには感謝しかないです。ありがとう。
後輩へ
負けた代の人間から言えることは、負けたらしんどいということです。自分は、このしんどさを体感するまで理解できていなかった。後悔したくないなら本気で取り組んでください。鵜木、ダルいからって練習さぼんなよ。
このリレー日記は、「こんなはずじゃなかった」を集めた人間の、苦悩とその過程をありのままに書いたつもりです。
今の1-3年だけではなく、未来の東大ラガーマンにはこんな思いをしてほしくない。希望を持ってラグビーしてほしい。少なくとも、諦めた先には何もないからね。それに、今ラグビーがあまり楽しくないという人も、絶対いつか楽しいと思える日が来る。俺でさえ来たんだから間違いない。自分のやっていることに意味を感じられなくても、いつか報われる日は来るのが東大ラグビーなのだと思う。
家族へ
まともに運動経験ないのに大学からいきなりラグビーやるって言って心配させてしまっていたようですが、無事引退です。正直スイカ着れるって思ってなかったので、まぁちょっとは親孝行出来たかなと思ってるんですけど、それ以上に食事や朝練といった生活面でめちゃくちゃ負担をかけさせてしまって申し訳なかったです。でも4年間支え続けてくれてありがとう。家にいるときはとてもリラックスできていました。あと少し投資期間は続きますが、いいリターンを出せるようにこれからは勉強頑張ります。
次は本多にバトンを渡します。ウエイト強者・スクラム強者の彼は、見た目と某黄色い熊さん好きというポイントで可愛いキャラみたいになっていますが、普通にただの「本多直人」です。浪人らしい趣深さとインモラルさが俺は大好きです。かつて、「本多とあきおとスクラム組めたらいいな」と話していたのですが、達成されたのは4年の合同練習くらいしかなくて、フロント古参組としてはさみしかったです。残りわずかですが、たくさんスクラム組みましょう。
桜咲く
投稿日時:2024/12/18(水) 12:46
清和からバトンを受け取りました4年の塩谷航平です。彼は本当にふざけたやつで、確かに深い話をした記憶が全くありません。くだらない話でいつも笑っている清和を見ていると自然と笑顔になってしまう、不思議な力を持っています。そんな彼ですが、本気になると非常に頼りになる男です。試合中のキャリーで会場を沸かし、誰よりも体を張る清和のタックルに何度も救われてきました。狙った獲物は絶対に逃さないその姿勢は漢そのものです。そんな漢・清和の人生観を、ぜひ今度聞かせてください。
清和からの紹介文に、怒ったら怖いと書かれていましたが、滅多に怒らないので安心してください。むしろ笑っている方が圧倒的に多いです。ただ、心の奥底から込み上げてくる熱いものに突き動かされやすいという点では、あながち間違ってはいないかもしれません。
野球しかやったことのなかった私が、ましてや高校時代は文化部でスポーツから離れていた私がラグビーを始めたきっかけは、昴に誘われて行った新歓の時に聞いた現主将・吉村のある言葉にあります。それは「経験者を超えてグラウンドに立ちたい」というもので、この時、私の心の中に燻っていた何かが弾けました。もう一度、スポーツに打ち込んで夢を本気で追いかけてみたい。そして、それをこの熱い同期がいて、先輩達も上を目指して本気で挑んでいるこのラグビー部の一員としてやりたい。そう思えたのが入部のきっかけでした。
しかし、その道は決して甘いものではありませんでした。当時の4年生に片手で持ち上げられ、タックルをすればたちまちバーナーで手が痺れ、肩も外れかけていて、この先やっていけるのかという不安が積もっていきました。そんな不安の中、2年生の春にBBCが始まったのです。とにかく頑張るしかないと思い、必死にダミーを押し、ウォークADという名の肉弾戦ではがむしゃらに分厚い壁の中に飛び込んできました。この時はきつすぎて、毎晩必ず夜中の2時ごろに眼が覚める不思議な経験をするほどでした。それでも必死に喰らい付いていた矢先に、一年生のロックですごいやつが来るらしいという噂を聞いて、なんとか遠ざけていた不安が一気に押し寄せてきました。今となってはそんなもん努力してそいつを超えれば良いだけと思えますが、不安の中にいた当時の自分は休部という選択をとりました。そのため、綺麗な駒場の桜を私はあの時見ることができませんでした。休部の理由は皆には野球部と迷ったからと伝えていて、勿論それもありましたが、この不安が一番の理由でした。このまま試合に出られずに終わるくらいなら、まだまだ衰えていなかった肩を使って野球をやった方がいいのではないかと思っていました。そんな自分の考えを変えてくれたのは仲間達で、いろんな仲間から声をかけてもらいました。中でも、昴と大西さん、國枝さんと話した時、私は思わず涙を流してしまいました。これだけ想ってくれている仲間がいる。そのことに心が動かされ、この仲間と最後までやり遂げたい、この仲間のためにできることをしたいと心の底から思うようになりました。結局噂のロックはラグビー部に入らず心配は杞憂に終わったのですが、この休部していた期間はとても貴重な時間でした。
そこからは「経験者を超えてグラウンドに立つ」という夢に立ち返り、これまでの分を取り返そうと必死になりました。そして、ついにA戦デビューを果たすことができました。初めてのA戦が帝京で、しかも105分出場とかなりハードでしたが、まだラグビーを始めて一年の自分がテレビで見る選手達と試合をしているということが嬉しくてたまりませんでした。そしてその後も明治にボコボコにされ、早稲田に負け、とタフな試合が続きましたが、当時の先輩達とするラグビーが、特に毎週必ず100回組んできたスクラムで相手を圧倒する瞬間が幸せでした。フォワード8人全員の気持ちが一つになって相手を崩し切るスクラムが、私はロックながら一番好きです。この年は怪我を繰り返して対抗戦に出ることができなかったのですが、最後の名古屋・京大戦で復帰しました。特にエコパスタジアムで行われた京大戦は、先輩達とできる最後の試合ということもあり過去最高に気持ちが入っていましたが、負けてしまいました。試合終了後のグラウンドで、ずっとスクラムで前後を組んでいた笹俣さんと涙の抱擁を交わし、次は必ず勝つと約束をしたことを今でも覚えています。
3年生となり、試合に出続けていることに驕りが出てきて、次第に自分としてもプレーがうまくいかず、悩むようになってしまいました。今振り返ってみると、自分にとって最悪の時間で、今からでも戻ってやり直したいくらいです。しかし、これは慶應戦後の青貫監督の言葉で変わることができました。それは「どうせ感情は忘れる。それが人間というもの。悔しければ今すぐ行動を変えろ。」というものです。その時から、今できることをとにかく思い立ったらすぐ行動する自分に変わることができました。この青貫監督の言葉は、是非とも後輩達に伝えていきたい言葉です。特に怪我をしている時期はもどかしさを感じることも多いと思いますが、とにかく行動することが大事です。きつくてもまずやってみる。そのうち、きつさが復帰後の希望に変わり、仲間への想いへと変わります。それを信じてきついトレーニングを頑張って欲しいです。そして、この年の終盤になると学年でチームの方針について揉めることが多くありました。この時自分が立ち返ったのは、「この仲間と最後までやり遂げたい、この仲間のためにできることをしたい」という気持ちでした。それまであまりラグビー部のミーティングで発言することはありませんでしたが、学年ミーティングの方向性がずれそうな時はこの気持ちに突き動かされてわずかながら意見を投げてきました。結果的にチームは同じ方向を向いて走り出し、より一層団結が強まった気がしました。
3年の末から、4年の今にかけて怪我を繰り返して満足にラグビーができない時間が続きました。その時に自分の支えになったのは「仲間の存在」と「とにかく行動する」ということでした。長く暗いDL生活は苦しかったですが、仲間と入替戦出場の夢を叶えるその日を夢見て重い体に鞭を打ってとにかくトレーニングを続けてきました。そして、念願の復帰は夏合宿のタイミングでした。この時は他のすべてを忘れ去り、一ヶ月間ラグビーに没頭しました。同じ夢を持つ仲間と24時間共に過ごし、ラグビーをする日々はとても幸せでした。この合宿の最終戦、山梨学院戦では勝利を収め、ノーサイドの笛が鳴ると自然と涙が零れてきました。みんながラグビーをしているところをずっと横目にみていた苦しい期間を乗り越え、仲間とラグビーができていることに感情を抑えることができず、皆に見えないようにするのが精一杯でした。そんな折、またしても怪我をして対抗戦に満足に出場することができませんでした。ドクターから「今シーズンは無理かな」と言われた時は絶望しかけましたが、ここでも立ち返ったのは「この仲間と最後までやり遂げたい、この仲間のためにできることをしたい」という気持ちでした。本当に小さなことしかできていませんが、それでも自分なりに仲間のためにできることをしてきました。自己満足に過ぎないかもしれませんが、それがチームに貢献できる唯一の方法でした。そして何よりも、皆が対抗戦で勝ってくれることがとても嬉しかったです。皆が躍動する姿は私の力になっていました。本当にありがとう。
成蹊戦・明学戦・武蔵戦では入替戦出場という夢を果たすことができず、そう簡単に立ち直れるものではありません。しかし、幸い私たちにはまだ名古屋戦と京大戦が残っています。夢破れた悔しさ、そしてこの一年間プレーでチームに貢献できなかった悔しさをこの2戦に全てぶつけたいと思います。2年前に笹俣さんと交わした約束を絶対に果たして、東大ラグビー部の一員としての意地を見せます。
この4年間で人間として成長させてくれたラグビー部とそのご支援をしてくださっている方々、そしてラグビーに挑戦することを後押ししてくれた両親には感謝してもしきれません。これから少しずつ恩返しをしていきたいと思います。
次は辻にバトンを渡します。彼もまたふざけたやつですが、なぜか憎めない存在です。なんだかんだで部内随一の愛されキャラだと思っています。そんな彼は、一年生の頃にトレーナーさんにいじめ倒され、最近もまた別のトレーナーさんにいじめ倒されています。でも、ぶつぶつ文句を言いながらも真面目にトレーニングをして成長した彼のそういうところだけは尊敬しています。
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投稿日時:2024/12/16(月) 18:41
今までのリレー日記はくだらない内容ばかりでしたが、最後くらいは少しは中身のある文章を書こうと思います。
自分がラグビー部の門を叩いたのは新歓の時期を過ぎた6月ごろだった。高校でラグビーをやり切った感があったし、ハードな練習はもうこりごりで何か新しいことを始めようと思っていた。しかしラグビーのない大学生活はつまらなかった。同じクラスの小野に話しかけて気づいたらラグビー部に入っていた。倉橋の日記を読んで、初日にCCをやったことを思い出した。あのときにはすでに入ることを決めていたし逆にフレッシュな気持ちで経験できて良かったのかもしれない。高校とは比べものにならない環境でラグビーをできることが幸せだった。人工芝の広いグラウンドでラグビーをするのが毎日楽しみだったし、愉快な同期と話すのも楽しかった。ラグビーのないつまらない日々をしっていたから辞めるという選択肢はなかった。
しかし、4年間で辛いこともたくさんあった。一年の最後に、コーチからHOへの転向を告げられたときは、高校からやっていたセンターで試合に出たいと思っていた自分にとってショックだった。FWの方が向いているかもしれないと思ってはいたが、一年の最初に決めたセンターで試合に出るという目標を変えるのが嫌だったのかもしれない。ジュニアコーチの松井さんと面談をしたときに、どのポジションでもいいわけではなくセンターとしてAの試合に出たいと話したのを覚えている。オフ期間で切り替えることができて2年からFWで試合に出れるように頑張ろうと思った。結果としてFWに転向して本当によかった。泥臭いプレーの方が自分に合っているし、何より楽しい。ユニットの練習はきつくて、周りの人間も少し臭いが大したことではない。
結局HOで試合に出ることはほとんどなくBRとして練習試合に出させてもらうことが多かった。2年の対抗戦で未経験の同期がスタメンに選ばれていたが自分はリザーブかメンバー外で試合に出ることはなかった。これが本当に悔しかった。早くスタメンに選ばれたいと思った。しかし、3年になった時のメンバー状況を考えたときに、来年も自分はスタメンには選ばれないかもしれないと思った。
この頃から自分の選手としての価値を考えることが増えた。身長が高いわけでもなくセットプレーの核になれない自分は常に交換可能な選手であると思った。いなくなっても大して困らない選手から抜け出すには、フィールドプレーで結果を出すしかないと思った。そこで、ボールを持ったらとにかく前に、一歩でも多く前に出ようと思った。それが自分の価値につながると信じて頑張った。
3年の春は怪我人が多くスタメンで出させてもらうことが多かった。徐々に周りから信頼してもらえる選手になれたかと思ったが、秋の試合では結果を出せなかった。高校同期との最初で最後のマッチアップであった一橋戦で何もできないまま怪我をして退場したときは、本当に悔しかった。自分が退場してからチームのムードが上がっていき逆転したのを見たときは、素直に喜ぶことができなかった。今思うと、3年の一橋戦でスタメンで出るというとりあえずの目標は目線が低くそこで成長が止まってしまっていたのかもしれない。早く復帰しろという安冨さんの言葉は嬉しかった。明学戦から復帰することができたがこの年は自分が出た試合で勝つことはできなかった。3年までは自分がいかに活躍するかということしか考えていなかった。それが結果的にチームの勝利につながると考えていた。
4年になって、最高学年としてチームの目標が本当の意味で自分の目標になった。チームで絶対に勝ちたいと思い練習に取り組んだ。とにかく勝ちたいという思いが自分を成長させてくれたのかもしれない。春から勝利を重ねることができてチームの雰囲気は上がっていき自信がついていった。試合で大きくゲインすることやトライをとることが増え、これまでやってきたことが成果につながったと思った。
しかし、成蹊戦からの大事な3試合には勝つことができなかった。結局勝つか負けるかという試合では自分は大きなプレーをすることができなかった。
この結果はもう変えることができない。しかし、幸いなことにまだ2試合残っている。本当に恵まれていると思う。最後の2試合、自分の価値をもう一度証明したい。一歩でも多く前に出てチームを勝利に導きたい。
振り返ると4年間で小さな挫折が何度もあった。ダメダメだった試合の後はしばらくラグビーの試合をみることができなかった。怪我をするたびにモチベーションが下がってしまった。しかし、その度にまた前を向いて頑張れたのは同期のみんながいたからだ。初めて来たときから本当にストイックなやつが多いと思った。自分もそれに感化された。一年の6月という変なタイミングだったがラグビー部に入る決断をしてよかった。みんなに出会えたことがいちばんの財産かもしれない。あと2試合最後までやりきろう。また勝ってみんなと抱き合いたい。
後輩へ
日記なので伝えたいこととかは特に考えずに書きましたがこの文章を読んで何か感じてくれたら嬉しいです。今、悩んでいる人もたくさんいると思いますが、ラグビーをやめるという選択肢はとってほしくないです。
親へ
浪人してまで入った大学で勉強せずにラグビーばかりしていて申し訳ありませんでした。4年間支えてくれてありがとう。これから少しずつ恩返しをしていきます。
コーチ陣の皆様、ラグビー倶楽部の皆様、トレーナーの皆様、4年間支えてくださり本当にありがとうございました。最後の合宿で肩がまだダメだったときは対抗戦に間に合わないかもしれないと思いましたが、凜、トレーナーの皆様、田崎先生のおかげで試合に出ることができました。感謝しています。
次は塩谷にバトンを渡します。塩谷の第一印象はラグビー部にはいないようなキレイな人間というものでした。今でもその印象は変わっていません。塩谷とは一緒に帰ったりご飯を食べたりと一緒にいることが多かったともいますが、何を話したかよく覚えていません。考えてみると深い話をしたことは一度もないかもしれません。今度人生について話しましょう。普段は温厚で優しい人柄ですが、フィールド上では熱いラグビーをするやつです。3年の夏くらいの試合で相手のラフプレーにありえないくらいの声量で怒鳴っているのを見たときは塩谷は絶対におこらせてはいけないと思いました。4年間でいろんなことを経験した塩谷がどんなラストリレー日記を書くのか楽しみです。
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