ラグビー部リレー日記

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出会い

 written by 佐々木 凜 投稿日時:2024/12/15(日) 03:25

昴からバトンを受け取りました、佐々木です。昴はラグビーをするために東大を志望したという変わったやつで、彼のおかげでうちの同期は多くの仲間が集まり、1年生の頃から彼のラグビー愛がこの学年を引っ張ってきたように思います。私と昴は同じ新歓委員で、メディカルのメンターでもあり、この4年間で同期選手の中では一番長い時間を一緒に過ごしてきた気がします。今年もよくご飯に行って真面目な話もくだらない話もしましたが、昴は何も考えていないように見えて自分の信念と強い軸を持っている人なので、私が弱気になった時に背中を押してくれたこともありました。今までぶりっ子やら赤ちゃんやらといじってしまいましたが、今年は4年としての責任がにじみ頼もしく、赤ちゃんキャラもすっかり卒業のようです。後輩の前で私の顔真似をしてばかにしていたことは全然気にしていないので、安心して今後も仲良くしてください。



ついに自分もラストリレー日記を書く時期が来てしまいました。これまで自分の趣味や思想を語らせてもらってきましたが、ラグビーや部活についてはあまり書いてこなかったので、最後ということで自分のラグビーとの出会いから東大で過ごした4年間について書き残しておきたいと思います。最近同期にも後輩にも私は何を考えているのか分からない、とよく言われるので、自分の考えてきたことを率直に書いたつもりです。身勝手だと思われるかもしれないし、見苦しい部分もあるかと思いますが、どうぞお許しください。



私が初めてラグビーに出会ったのは小学校3年生くらいだったと思う。父がコーチをしていたタグラグビークラブに弟が行っていたので、私も一緒に参加するようになった。ここでのタグとの出会いが私の人生に大きな影響を与えることになる。私が小学校5年生までは週に1回の練習でタグラグビーを楽しむためにやっている感じだったが、小学校6年生になってから県内の強いスクールのチームと一緒に練習して触発されたことで、少人数での平日毎日の朝練がスタートした。それから次第に朝練に参加する人数が増えていって、チームは次第に勝利という目的達成のために一切の妥協を許さない超スパルタ集団へと変容していった。コーチは信じられないほど厳しく(今のコンプライアンス的には絶対にアウト)耐えられずにやめていく人もいたが、ラグビーのスキルや指導は的確で、チームはあっという間に強くなった。私がキャプテンだった年は東北大会に行くことができなかったが、卒業した後も毎日朝練に参加し、弟たちの練習相手になった。私が卒業した2年後に弟たちは全国で3位になり、数年後には後輩たちが全国優勝を成し遂げた。ここでの経験を通して私はただ楽しいだけではなく、本気で努力して上達することの楽しさを知り、スポーツや部活は和気藹々と楽しむ場所ではなく、勝つためにどんな時も真剣に集中した状態でやるものだという価値観が根付いた。同時に自分が表舞台に立てなくともそれをサポートすることに喜びを感じ、これがのちに私がマネージャー業に打ち込むことになる布石の一つだったのかもしれないと思う。



入学した高校のラグビー部の顧問が父の大学の部活の後輩だった、ということもあり、私はもはや必然的に高校のラグビー部のマネージャーとして入部した。しかし、私の高校は人数が少なく、毎年15人揃うかぎりぎりで、当然練習もまともにできないのでタッチフットやハンドリング練習などコンタクトのない練習は私も選手と一緒にやっていた。福島はラグビーの強豪校がないので、人数さえ集まればどのチームにも花園に行くチャンスがあると言えるが、なんせ人を集めるという行為が一番難しい。必死に勧誘して人を集めても、元々モチベーションが高い部員が集まっているわけではないので続けさせるのも至難の業だ。練習で徹底的に追い込まれ、ついていけないやつは切り捨てられていたタグの文化とのギャップは凄まじく、周りの部員との温度差があることは感じていた。それでも私は部員に愛着を感じていたし、なんとかしてこのチームを勝たせたいと思っていたが、3年の春にはコロナが直撃して1ヶ月は学校にも行けなくなり、同期の中には受験を理由に途中で退部を考えている人もいて、15人を集めるのがやっとという状況だった。みんなと一緒に練習するのは楽しかったし、結局同期全員で最後の花園予選までやり切れたことは本当に意味があったと思うが、私ばかりがやる気を出しても周りはついてこず、1人で空回りしている感は否めなかった3年間だったと思う。



大学に入学した当初、両親の影響で運動会の部活に入ることは決めていたが、ラグビー部のスタッフを続けるか、他の運動部に入って自分がプレーヤーとして活動するかは決めかねていた。でも、何回か新歓に行くうちに私はラグビー部の雰囲気が気に入り、気がついたら結局他の新歓もろくに行かずに早々にラグビー部への入部を決めてしまった。高校時代の不完全燃焼感を払拭したい、という気持ちもどこかにあったのかもしれない。



ラグビー部に入部して、高校までとは規模の違う大学の部活の環境や、専門的なスタッフ業務に感銘を受けたのはもちろんだが、今振り返ると私が一番幸運だったことはこの同期たちに出会ったことだと思う。半数近くが大学からラグビーというしんどい競技を始めることを選んだにも関わらず、藤井さんたちジュニアコーチの熱心な指導のおかげもあり、同期のみんなは瞬く間に大きくなり、成長し、彼らのモチベーションの高さやまっすぐさに驚いた。自分が働きかけたことに対して、それ以上の反応が返ってくることが多く、これは高校では一度もなかった経験で感激した。そして彼らとなら本気で頑張る意味がある、絶対にみんなと結果を出したいと強く思うようになった。初めての大学ラグビーの春シーズン、夏シーズン、対抗戦を迎え、自分自身も1年生の途中からレフリーを始めるなど、すべてが新鮮に感じられる中であっという間に一年が過ぎていった。



2年生になって、私はレフリー以外にもメディカルや広報の仕事も本格的に担当するようになり、スタッフとして自分ができることが増えていった。この年の4年生はスタッフも選手も人数が多く、期待がかなり高まっていた中で、成蹊戦は本当に勝てるんじゃないかと思える試合だった。しかし、対抗戦は結局4勝3敗で入替戦に進むことはできず、改めてこのチームが掲げている目標と現実との距離を実感した。元々1年生の頃から学年で立てた対抗戦Aで勝つという目標があまりに高すぎて現実味がないことに違和感を感じ続けていたので、この年スイカを着てすでに試合に出場していた同期と直接話もした。実際に試合に出て戦っている同期が自分たちの目標をどう感じているのか知りたかった。結局学年で話し合って自分たちの目標は毎年更新されていくわけだが、私の心の中には自分たちの代で歴史を変えるためにはどうすればいいのか、ということが常にあり、それが部活を頑張る最大のモチベーションだった。



3年生になって、スタッフは最高学年となり、選手も4年生が少ない中で、本格的に自分たちの代が中心とならなければいけない年になった。2年の京大戦の後にデイビスとあと2年間チャレンジできる環境に感謝して来年はこの代が中心になれるように頑張ろうと話したことを覚えている。しかし実際にシーズンが始まると想像以上に課題が多かった。春はスタッフの人数が半分以下になった中で今までの仕事量をどうまかなうか、新歓がうまくいかなかったらインカレ化も免れない、というくらいには追い込まれていたから、スタッフ新歓は2月から始動し死ぬ気でやれることをやった。幸運にも今の2年生がたくさん入部してくれたおかげでスタッフの人手不足は解消されたが、たくさんの新入生に仕事を教えながら少数の上級生で試合を回していたのでかなりカツカツだった。しかも、私自身はレフリーで外部の試合に行ってチームに帯同できないことも多く、なかなか試合運営に協力できず申し訳なさともどかしさを感じていた。1年間を通して、首脳陣とのコミュニケーションや、スタッフ内部の問題、チームとしても思うような結果が出せず、辞めそうな同期は引き止めなくてはいけない、など問題が次々と起こっていく中で、チームの雰囲気を変えるため、自分たちの代で結果を出すためにはどうしたらいいのかをずっと考え、たくさんの人と話し合った。私はこの一年のおそらく9割くらい、四六時中部活のことを考えては悩み、ほとんど全てのキャパを部活に割いていた気がするし、正直人生でもあまり経験したことがないくらいしんどい期間もあった。だからこそ、たくさん迷惑も心配もかけたけれど自分たちの決断を受け入れてくれた先輩後輩、周りのサポートしてくれている人たち、当時ぎりぎりまですり減っていた私を支えてくれた家族のためにも、何がなんでも来年結果を出さないといけない、という責任を感じるとともに強い覚悟を固めた一年だった。



そしてついにラストシーズンを迎えた。今までレフリーのために外部にも出してもらい、チームを離れることもあった自分がまさかスタッフの責任者になるなんて想像もしていなかったが、この一年でこの立場になったことで自分の中での「スタッフ」としての部活への向き合い方が大きく変化したように思う。今までは、自分が関与していない仕事でミスが起きてもそれは本人たちの責任だと心のどこかで思っていた節があったが、スタッフ長になって首脳陣や他の選手ともコミュニケーションをとっていくうちに、自分の役割は単に自分の仕事に対して責任を負うのではなく、スタッフ組織全員の仕事に対しての責任をとる、ということだと気づいた。それから、スタッフ内で起きるミスや問題は全て自分事として捉えて、ミスを防ぐために自分の働きかけに何が足りていなかったのかを考えるようになった。スタッフ組織全体を成長させるため、毎月の目標設定と上級生との面談、ミスを減らすための呼びかけや話し合い、本質ではないが手段としての罰則やルールづくり、できるだけ全員の意見を聞き、取り入れながらみんなで最適な体制を模索しようと試みた。選手とスタッフの垣根を越えて互いが要求し合えるような関係を作ることも目標の一つで、選手からの要望にはできるだけ向き合い、こちらからも選手に変えてほしいことは伝えてきたつもりだった。春シーズン、夏合宿としんどい練習を選手とスタッフみんなで乗り越え、確かな手応えと周りからの期待を背負った対抗戦が始まった。しかし、結果は4勝3敗で東大は対抗戦B4位となり、この代はまたも東大の歴史を変えることができなかった。できることはやり尽くしてきたつもりだったが、それでも入替戦という目標には届かなかった。この4年間、この同期たちと歴史を変えるということだけを目標にしてやってきたからこそ、明学戦後、武蔵戦後の悔しさと喪失感は言葉にできず、気持ちを切り替えることは非常に難しかった。正直今でも心の底から悔しいという気持ちを拭い去ることはできないし、これはもうこの結果が変わらない以上どうしようもないものだと思う。このままでは悔しくて終われない、もう一回、もう一年チャンスがあれば、と思わないこともないが、学生スポーツというのは4年間限りのもので、この限られたチャンスで挑戦することに意味があるとも思う。以前自分のリレー日記でも触れたが、毎年4年生のラストリレー日記を読むたびに自分は「目標は叶わなかったけれどなんだかんだ頑張ったので良かった」的なことは絶対に書きたくないと思っていたのに、結局同じような立場になってしまったことが本当に悔しい。



東大に入学してからの4年間を振り返ると、私も昴と同じく(というかこの部にはたくさんいると思うが)、東大まで来て勉強もせず、大学生らしい遊びをするわけでもなく、ほぼ部活しかしていなかった、変なやつだ。今思うと、東大ラグビー部も私の高校時代のラグビー部と規模が違うだけで本質は結局同じだった。普通入学する時に東大に入って部活に全てを捧げよう、なんて思っている奴はほとんどいない。そもそも最初からラグビーをやろうと思っている奴なんてほぼゼロに等しいし、それでもどうにか騙し騙しで入部させるが、そこから死ぬほどしんどい練習を乗り越えさせる、モチベーションを維持させるのは非常に難しい。どうしても途中で辞めてしまう人も出てくる。これはスポーツ推薦などなく、たとえ入りたくても受験でラグビー経験者がどんどんふるい落とされる東大では致し方ないことだろう。だから結局まずはとにかくこの部に入る母数を増やすこと、そしてしんどくて辞めそうなやつも必死に繋ぎ止めて残らせる、ということをやらないといけない。毎年必死に新歓して、辞めそうな同期や後輩を引き止めて、結局東大にきても高校の時と同じことをしていたなあ、と思う。私はあの頃の自分と比べて、何か変わったのだろうか。



この4年間の意味は今すぐには分からないだろうし、とにかく頑張ったからそれでよかった、というような薄っぺらい言葉では片付けたくない。でも今後の人生でこの経験や選択を正解にするのは自分自身だし、私はここを選んで正解だった、ということは自信をもって言える。引退間近の老害の戯言ながらに、今の、そして未来の後輩に伝えたいことは、とにかく人を、一緒に戦う仲間を集めろ、ということと、このラグビーという素晴らしいスポーツに出会い、東大ラグビー部に入る、という選択をしたあなたは絶対に間違っていないということだ。 



最後に私を4年間この部活に夢中にさせてくれた最高の同期たちに。みんなに出会って一緒に同じ目標を追うことができたことがこの4年間の一番の財産です。おっとりしていてゆるふわで、でもラグビーに対しては真面目で大学生とは思えないくらい純粋で素直なみんなとだったからこそ、私もここまで頑張ることができました。本当にこの代でよかったと心から思います。引退してもずっと大事な仲間でいましょう。



次は見事面白さランキングNo.1の座に輝いた清和にバトンを渡します。清和は普段は人の話を100倍は盛ってみんなに広めるし、いつも本気なのかネタなのか分からないトーンで絶妙に失礼なことを言ってくるふざけたやつですが、彼の部活に対する熱意や意識の高さは紛れもない本物で、練習中と練習外のオンオフがきっちりしているところはとても尊敬しています。今シーズンも清和のパワフルなプレーに何度も会場が沸いていたし、肩が万全ではない中、チームを引っ張ってくれてありがとう。私は清和独特の笑いのセンスが好きで、私生活でいくらだらしなくても清和節で誤魔化されるとなぜか許してしまう部分があるのが悔しいです。そういえば今思い出しましたが、何年も前に貸したエアビ代もまだ返ってきていないような気がします。来年は私と同じく彼も留年暇組なのでみんなで旅行でも行きましょう、北朝鮮とルワンダはさすがになしです。



 

心の命ずるままに

 written by 桑田 昴 投稿日時:2024/12/13(金) 16:51

小学校2年生で初めて会った時から中身はおろか体の大きさも一切変わっていないのをひげで誤魔化している倉橋からバトンを受け取りました、桑田昴です。新歓期に倉橋を一人で練習に行かせたこととか覚えてないけど申し訳ない。お世話すると言っていますが、これまで私が回収してきたすべての言動を忘れてしまったのでしょうか。来年は大学4年生としての心構えを教えてあげようと思います。大学院の授業、一緒に受けてくれてもいいですよ。 

 

 

4年間、そしてラグビーを始めてからは15年間、ラグビーには本当にお世話になった。 

ラグビーが好きだった。でも、うまくなれなかった。本当はラグビーで高校に行けるくらい、大学に行けるくらい、うまくなりたかった。でも、なれなかった。いや、なれたのかもしれない。頑張れば。自分はこれまで最大限の努力をしてきたと思っていたけど、果たして本当にそうなのか。自分で勝手に限界を作っていなかったか。たぶん、作ってしまっていた。人生のすべてをラグビーにささげることはできていなかった。時間があれば自主練をしたり、筋トレをしたり、試合の動画を見たり、できなかった。でも、だからと言って、ラグビー以外に自分に何かあるかといわれると、ない。中途半端だったかもしれないけど、自分が割けるリソースのほとんどをラグビーに割いていたと思う。ラグビーに、自分なりに自分のすべてをかけてきたんじゃないかと思う。でも本当は強豪校でラグビーをしたかった。高3の自分はその挑戦をしなかった。ラグビーだけじゃ生きていけないと分かっていた。じゃあどうすればいいか、どうすれば自分を正当化できるかと考えた時、思い浮かんだのは勉強を頑張ることだった。幸い自分はある程度勉強はできた。ラグビーは下手だから、せめて勉強は頑張ろう、そう思っていた節があったと思う。東大でラグビーをすることは、ラグビーから離れられなかった自分への言い訳だったかもしれない。 

 

でも、結局、大学4年間で自分が一番時間を割いたのは、ラグビーだった。今では、東大でラグビーをすることの価値が明確にわかる。”tackle the elite”の精神も自分の支えとなった。ラグビーエリートでない自分が泥臭くラグビーをすることは明確に価値がある、はたから見たら勉強しかやってこなかったような集団が、強豪校に勝つことには明確な価値があるとわかる。だから今では、東大でラグビーをしてよかった、と心から思える。 

 

東大ラグビー部は自分を成長させてくれた。コーチ、先輩、同期、後輩の一言一言が、財産になった。 

きつい練習、ウェイト、理不尽な量の食事など、いやなことにも何とか耐えられるようになった。精神的な苦しみにはそこそこ強くても(これもラグビーのおかげ)、肉体的なものはだいぶきつかった。それでもなんとかやれたのは、自分より強い憧れの先輩、絶対に負けたくない同期、なんだかんだかっこ悪いところは見せられない後輩の存在があったからだと思う。 

また、最後の1年でようやく、タックルができるようになった。これは自分の中で自信になった。これまで、本当にタックルができなかった。高校生の時は、経験者が自分しかいないチームなのに、一番タックルができないからDFのときだけFBをしていたほどだ。ラガーマンとしては本当に幼稚な成長だけど、自分にとっては大きな一歩だった。ようやくラガーマンになれたような気がした。去年、國枝さんにずっとタックル練習を付き合って頂いた。あまりに成長しなくて絶望したと思いますが、根気良く付き合ってくれて本当に感謝しています。あのとき「相手に勝つ気持ちでいるか」と言われたのが印象に残っている。自分でもどこかでタックルしたくないというオーラが出ていたんだと思う。それを見抜かれていた。 今は、相手をトライラインまでドライブして青天させるつもりでタックルしている。去年安富さんに、「本当に優しいやつは相手を殺す。自分の仲間が大切だから」と言われた。そのときは変われなかったけど、ようやく理解できたかもしれない。最近は安富さんだけがしつこく「桑田はフィジカルの選手だ」と言ってくる。別にそんなことはないです。 

試合への臨み方など、メンタル面でも多く学ばせていただいた。 

1年の時、原さんが「勝ちたい」と言っていたのに震えた。自分は23番に入っているのに、もっとふわふわした気持ちでプレーしていた。試合に出ない原さんの当事者意識に驚いた。今考えたら勝ちたいと思うのは当然だが、当時の自分には新鮮だった。 

1年の成蹊戦の後、深津さんが「勝てる」じゃなく「勝つ」んだとおっしゃった。また震えた。勝ちたい、じゃダメなんだ、勝つんだ、そう信じないやつに勝利はない。ほかにも深津さんには、全力で練習に臨む姿勢、レフリーへの態度、スタッフへの感謝など、勉強させていただいた。ありがとうございました。 

そして、大西さんの言葉は、戦う者としての覚悟、進むべき道を示してくれた。「試合が終わって笑って帰る姿を想像するな、五体満足で帰れると思うな」。今年になってからは、これを考えて臨めていると思う。 

 

 

東大では、だいぶ自由にやらせてもらった。自由すぎて去年などはチームに迷惑をかけてしまったこともある。今考えたら力になれず大変申し訳ない。本来であれば、経験があり、試合にも前から出ていたので、もう少し発言したほうが良かったのかもしれない。同期に頼ってしまった部分も多くあった。いまでも新しいポジションで、やりたいことをやらせてもらっている。最後の1か月でも挑戦させてくれることに、感謝しかない。そのおかげで、今でも毎日、グラウンドに行くのが楽しみと思えている。残りの短いラグビー人生も全力で楽しみたい。 

 

引退を前にして思い出すことはいくつもあるが、試合では、1年生の時の京大戦が印象に残っている。小さいころからの夢、憧れであった秩父宮プレーできたというのももちろん印象的である。ただ、それよりも、あの試合のチームの雰囲気が忘れられない。キックオフの瞬間から、負ける気がしなかった。一切怖くなかった。逆転トライをとられて、キャプテンの杉浦さんが負傷退場したとき、ムードは最悪になってもおかしくないのに、怖くなかった。1年の俺が負ける気がしなかったんだから、みんなもそうだったんだと思う。正直観戦していたら、あれほどヒヤヒヤする試合はないと思う。引退試合のラストワンプレーで逆転なんて、普通に聞いたら劇的も劇的過ぎる。でも、あの瞬間ピッチに立っていた時、この勝利は必然だと思った。もう一度、あの感覚を味わいたい。この4年間を証明するような、魂を震わせる試合をしよう。 

 

 

さて、礒崎と倉橋のリレー日記で、「桑田に連れられてラグビー部に来た」という話を読みました。塩谷を加えた3人は、何を隠そう、自分がラグビー部に連れてきたメンバーです。彼らのリレー日記にもあった通り、塩谷と礒崎はアメフトの新歓で、倉橋はオンライン授業で発見しました。正直多少強引なところもあったかもしれないので、4年間続くか心配になったこともありました。そんな心配が杞憂に終わってよかったです。塩谷がやめると言い出した時はさすがに焦りましたが、最近、ようやく「野球よりラグビーのほうがやりたいかも」と言ってくれるようになりました。あと3週間でラグビーから逃れられなくしてやります。 

 

 

小学校2年生でラグビーに出会ったときから、人生が変わりました。もう、ラグビーなしの自分は想像できません。ラグビーが自分を形作っている、そう強く感じます。引退したらプレーはしなくなりますが、ラグビーに関わり続けて、ラグビーに恩返ししたいです。ラグビーが与えてくれたすべての出会いに感謝して、このリレー日記を終わります。感謝の言葉は直接お伝えしたいです。 

 

 

次は、ラグビーへの情熱が半端ないりんにバトンを渡します。新歓委員では私が委員長なのにかなりの仕事をりんにやってもらった気がします。テーピングもいつもありがとうございます。まあにんげん持ちつ持たれつですね。りんと違って僕は話しかけやすい人間なので、話したい後輩がいたら教えてください。仲介します。 

同期紹介

 written by 倉橋 直希 投稿日時:2024/12/11(水) 18:44

デイビスからバトンを受け取りました、倉橋です。彼は選手としても人としても素晴らしい人間です。今年の春に一緒にハーフ団を組んでいたときは慣れないポジションでプレーする僕のことを引っ張ってくれました。そのおかげでハーフとしてプレーする時にいつも緊張ばかりしていたのがとても楽しめるようになったので本当に感謝しています。彼との一番の思い出はデルとゆうしと一緒にシックスネーションズの試合を見たことです。来年は豚の足こそ無いかもですが、ウェールズが勝てるように僕も一緒に応援します!


さて、時は戻って4年前。東大に入学した僕はやったことのない何かを始めたいと思っていた。そんなわけでラグビー部は僕の選択肢にはなかったのだが、そこに桑田が現れた。現れたといっても物理的に現れたわけではなく、食の科学という授業の参加者一覧に彼の名前があった(当時はすべてオンライン授業)。まさかと思ったが、実際に彼からラインが来て、さらに偶然7号館の下で再会したのだ。ここまで彼のことを以前から知っているかのように書いたが、彼はなんと小学校3年から4年間クラスが一緒だった。しかも出席番号も隣。よくつるんでいた。そんなわけで久しぶりに会ったついでにラグビー部の新歓に行った。しかし「俺もいるから」と言われたから行ったのに彼は授業を抜けられないと理由で来なかった。

その初めての新歓練習で覚えていることはあまりないが、本多の存在だけは覚えている。旧友にドタキャンされた先にいた同クラは心強い。彼はその時から既に100kgあったが、いざウエイトをしてみると荷重の筋トレをしたことない僕には信じられないくらい強かった。そして今もみんなとの差を保ったままさらに強くなっている。某うどんチェーンの特盛うどんを二口で食べるし試験もちょっと勉強しただけでいい成績をとるし、僕にないものをすべて持っているあたり、ずっと尊敬していた。

新歓練習の後には新歓飯に行った。コロナ禍ということもあって部からお金を出してもらって一年生だけで飯に行った。なんとも奇妙な時代である。そこの席には同時に辻とりんと授業終わりの桑田がいた。
辻の第一印象は声が大きい、笑い声はもっと大きい、変わったやつ、というものだった。これは別に今も変わらない。強いて言うならこれらが強調されたくらいだ。言わずと知れた目立ちたがり屋だが良い方に目立てるようにせいぜい頑張ってほしいものだ。

りんの第一印象は特にない。多分僕の注意は全部辻に持って行かれたのだろう。りんは筋力が強いし、気も強いし、何を考えているのかもよくわからないことも多いが、天然で面白いという話も聞いたことがある。去年笑いの哲学という授業を履修したときに漫才のネタを書いたことは知っているのでそれは本当に見せてほしいです。そして、そんな面白いに決まっているネタをあきおに実演してもらうことは僕の夢の一つだ。

塩谷とはまだお互いに入部する前に二人で飯に行った。新歓飯という体だったが、なぜかまだ入ってない二人で食べたこの時の記憶が鮮明にある。なんなら話した内容まで細かく覚えている。デカくなりたいと言っていたがすぐにデカくなった。そしてスタッフになることも考えていたが、今となってはその世界線は考えられないほどだ。某強豪校との練習試合で105分出たときは特にすごかった。

清和は一年生が本格的に部活を始めて少し経った後の6月にいきなり現れて、初回でCC(コーディネーションサーキット)を一緒にやった強者だった。いきなりこんなにきついことをやって入部してくれるのかなと思ったが杞憂だった。清和はそんなレベルの人間ではなかった。清和はどんな人間かというと核心を突いたことをストレートに言う人間だ。際どいことでも言い方が上手だからこれがまたとても面白い。

1年や2年の時に多く時間を共にした人に雪竹を挙げたい。これは自分もそうなのだがとにかく食べるのに時間がかかった。練習後には永遠と感じられるような長い時間をかけてご飯を食べていた。最近はバイトや金欠とやらですぐ家に帰って食べているそうだがもっと雪竹の素晴らしい人生の話を聞きたいものである。雪竹とバイトといえば1年生の時に朝練の前に某牛丼屋で深夜シフトに入っていたのを太田さんに怒られていたのが印象的だ。

一木はラグビーという激しいスポーツをやっているが、ラグビー以外では驚くほど温厚なインドア派だ。ギャップ萌えでも狙ってるのか。2年生はこの4年間で最も練習がハードだった一年だった記憶があるが、そんななか息抜きで彼とさしで寿司食べたりサッカー見に行ったりできたのは今でもうれしい思い出である。まわりにサッカー見る人が少ないので卒部した後も家から出たくなくてもたまには一緒に行きましょう。

最初の2年ほどは小野がどんなラグビー選手なのか、はたまたどんな人間かさえもよくわからなかった。怪我や手術を繰り返していたので仕方なしといったところか。彼が復帰した時のラグビー中のプレーや雰囲気はアイランダーぽかった。そんな小野は合宿の隙間時間でずとラグビー見たり、筋トレするために最終試験を切ったり、少しでもパフォーマンスが上がるようにアメリカからいろんなサプリ(本人いわく安全らしい)を取り寄せたりするほど学年一ラグビーが好きなやつだ。またラグビーの深い話を一緒にしたいと思わせてくれる。

小野とは対照的に幸いにも僕は4年間大きな怪我に見舞われなかった。しっかり体に気を遣っているからなのか体質なのか単に運が良かっただけなのかはわからないが、これは自分の最大の武器となった。出場機会が少なくてもいつ自分の出番が来てもいいように準備することの大切さも心得たので、最後の3週間もこれまでのように頑張りたい。
そんなわけでメンターのよーこにお世話になることは少なかった。よーこは今年主務をやっていたはずなのにそんなに忙しそうにしている姿は見なかった。今日も部室でこの日記を書いていたが、隣でぐっすり眠っていた。ここによーこのすごさがある。要領がとても良いのである。しかも後輩と仲良くご飯に行くところもよく見かける。この二つの才能を持ち合わせれば怖いことは何もないんじゃないかと思えて羨ましい。

2年生の終わりに僕は留年して人生に絶望していた(大袈裟かもしれないが精神的にきつかったのは事実だった)が、その時に救ってくれたのは礒崎だった。些細なことだったし本人にその自覚はないだろうが、彼のおかげで僕は気が晴れて前を向けた。何があったかはちょっと僕が恥ずかしくなってしまうので書かないが、そこに関してはめちゃくちゃに感謝しています。またつらいことあったら頼らせていただきます。

もう一人僕に前を向かせてくれた人がいたとすればもりぞーだ。似たような経験をした彼女からかけられた言葉は助けになったし、実際最近少しずつそのことを感じ始めている。中高時代を合わせたら相当な年月を同じ空間で過ごしているが、ようやくもりぞーがどんな人間か分かってきた気がする。最も僕はというと単純な人間なのでとっくにすべて見透かされているだろうが。日常的に会えなくなるのは寂しいけど、忙しい中でもたまに会ってください。

3年の後半から4年にかけて東大ラグビー部には多くの留学生が来て一緒にプレーをした。これに間違いなく貢献していたのはデルだった。コミュ力があって五カ国語できてラグビーも上手い。試合中は何かに取り憑かれてるのではないかと思うほどの狂気が垣間見えることもあるが普段は優しさに溢れているやつだ。最近は会えていなくて寂しいが、京大戦の時に来てくれるとのことなので、特別なビールを用意して待ってます。

奥山は口数があまり多くないが、背中で多くを語るやつだった。去年は毎試合動けなくなるまで闘っていた姿は見ているだけでもアツさが伝わってきた。今年は試合の最後まで闘い続けているのを見ると彼の弛まぬ努力が分かる。背中で多く語ると言ったが、奥山は表情からも感情がよく伝わってくる。顔で喋るといえば礒崎だが、奥山も負けてはいない。顔全体で表現しているというよりも感情が抑え切れてない感じがまた良い。

あきおはやよい軒でお米を11杯食べるような大食漢である。いつかわんこそばに行って何杯食べられるか横で観察してみたい。寝起きと腹が減っている時は機嫌が悪くて要注意だが、基本的にみんなを笑顔にしてくれる、ほぼパンダだ。実際僕のラインではあきおの名前は「X-Factorパンダ」だ。これはあきおがパンダ界に入った場合にスクラムの強さや動ける度合いも含めてX-Factor並みのすごさを持っているだろうという敬意を込めている。これは本当にいじってません。

話は戻しまして、初めて行った新歓の数日後、また桑田に誘われて新歓練習のために駒場に行った。と思ったらそれは新歓練習ではなく一年生は一人もいなかった。桑田がシニアの練習に参加してみたかっただけのようだ。なんてひどいやつだ。しかし、ここで僕は初めて寿太郎に会った。アメフト部とラグビー部の両方に入って迷っていたが、話を聞いてみたら彼はラグビー部に入ると思った。結局ラグビー部に入ったわけだが、そこからは共に過ごす時間が多くなった。そしてそこで寿太郎のラグビーにかける情熱やその面白いトークに惹かれていった。この4年間チームメイトとして、そして今年はキャプテンとして一緒にラグビーができて本当によかった。


最後に、この場を借りて4年間支えてくださった人たちに感謝の意を述べたいと思います。まず両親へ、入部当初から数多くの心配をかけたかもしれませんが、一番近くで一番たくさん応援してくれてありがとうございました。倶楽部、監督、コーチの皆様へ、僕たちのことを信じてともに戦っていただきありがとうございました。先輩、後輩へ、みんなとラグビーができて光栄でした、これからも応援しています。同期へ、卒部した後もずっと仲良くやっていきましょう。
最後まで楽しく、かつ真剣にラグビーに取り組み、人間としても成長できたのはみなさんのおかげでした。本当にありがとうございました。これからの2試合もノーサイドのホイッスルが鳴るまで成長していきます。


次は小学校の時からはちょっとでかくなっただけで中身も外見も何も変わっていない桑田にバトンを渡します。彼のおかげでラグビー部に入れたと言うとなんだか負けた気がして嫌ですが、ラグビー部に入るきっかけをくれたことには感謝しています。これからもお世話するのでよろしく。
 

Passion

 written by 木村デイビス 泰志 投稿日時:2024/12/10(火) 11:30

チームの中で最も運動能力の高い小野からバトンを受け取りました、木村デイビス泰志です。2021年10月にこの部に入部したとき、PEAKの先輩であるデルから新しいチームメイトを紹介してもらいました。その中に、小野がいました。当時、小野は「いつもカップラーメンを食べていて、肩を怪我していた人」と説明されていました。初めの印象は、彼の気さくな性格と食生活に基づいていました。

しかし、入部してから1か月ほど経って、小野が単なるチームメイト以上の存在であることに気付きました。 実は彼は、大学入学前に東京都代表チームに選ばれるほどの才能ある選手でした。怪我から復帰した彼のプレーを見て、その卓越した運動能力と技術に驚かされました。僕の初期の誤解は完全に覆され、小野のボールハンドリング技術にすっかり魅了されました。 彼は創造力、スピード、そしてパワーを兼ね備え、どんな場面でも得点チャンスに変える力を持つ素晴らしい選手です。

僕がチームメイトとして小野を最も尊敬するのは、彼のオープンでダイナミックなラグビースタイルへの情熱です。バックスとして一緒にフィールドに立つときは、いつもクリエイティブなサインを使い、ボールを大きく展開するような自由で華やかなプレーについて話し合ってきました。彼のこのスタイルへの熱意は僕にとって大きな刺激となり、シーズンが終わるまでにこのビジョンを実現させたいと思っています。


 

この日記を書くにあたり、ラグビー部での自分の道のりを振り返っています。入部した瞬間から、今こうして卒業を迎える準備をしている自分に至るまで、この経験は僕を想像以上に成長させてくれました。そして、これまで支えてくれた全ての人々に心から感謝の気持ちを伝えたいと思います。

大学に入学する準備をしていた頃、ラグビーなしの人生は考えられませんでした。まるでこの部に入る運命だったかのようでした。最初の体験練習では、自分を証明しようとしすぎていたのを今でも覚えています。フォワードのコンタクトゲート練習に飛び込んで、ボールを持って4回も全力でゲートに突っ込みました。4回目のキャリーを終えた頃には、目が回ってフラフラしながらフィールドを離れ、トイレで何度も吐いてしまいました。その後、完全に朦朧とした状態で地面に倒れ込み、心配したチームメイトたちに囲まれながら声をかけてもらいました。今振り返ると、あれは僕が経験した最悪の脳震盪だったかもしれません。正直、なんてバカな初印象の作り方をしたんだろうと思います。

回復してから再び練習に戻りましたが、チームはすでに対抗戦の準備を進めていたため、僕は主にジュニアコーチの拓郎さん、虎さん、松井さん、寶島さんと過ごす時間が多くなりました。彼らとの会話は本当に貴重でした。クラブの歴史や文化についてたくさん教えてもらい、このチームの一員であることの意味を深く理解することができました。夜の練習後には、よく北野さん、虎さん、永山さんとラップバトルに加わることがありました。それは予想外の経験でしたが、忘れられない思い出です。彼らが今でも繋がりを保っていることを願っています。


 

國枝時代は、僕にとって非常に大きな時期でした。この時初めてスイカジャージを着て、クラブの重要な一員として本当に感じることができました。國枝さんがキャプテンに選ばれたとき、彼が大学以前にはあまり経験がなかったこともあり、少し心配していた自分もいました。しかし、シーズンが進むにつれて、フィールドでの努力を見て、さらにフィールド外でチーム運営に多くの時間を割いていることを聞いて、國枝さんへの尊敬の念はリーダーとしても選手としても急速に高まりました。彼の成長とリーダーシップは、僕が自信を持ってついていけるものでした。彼は僕がこれまでプレーしてきた中で最高のキャプテンです。

この年、僕は初めてロックとしてプレーすることになりました。それは僕にとって新しい挑戦でした。マレーシアでプレーしていたとき、僕はスキルはあるものの、フィジカルではそこまで目立たないスタンドオフでした。しかし、2022年のシーズンを通して、ロックの役割の重要性を理解し始めました。スクラムでは頭や耳に大きな負担がかかりましたが、ラインアウトが大好きになりました。ラインアウトサインを作成し、状況に応じて指示を出し、モールで多くの成功を収めたことは非常にやりがいのある経験でした。特に、最後の京都戦でトライを決めたときに成功したサインが僕の名前で呼ばれるようになったのは大きな名誉でした。

その後、バックローに移ったことで、耳や顎への負担が軽減されました。この時期に僕はスクラム後ろからのピックゴーのスキルを磨きました。バックローとしての自由さ、特にオープンプレーでの自由さはとても楽しく、自分のプレースタイルや「アウトポッド」の構造にも合っていました。

この時期、僕はよくスタメンに入っている先輩たちを見上げていました。ジャージ授与式での先輩たちのスピーチは僕の心に深く響き、強い印象を残しました。その言葉はチームのために全力を尽くしたいという気持ちを駆り立て、フィールドで全てを出し切る原動力となりました。その中で学んだのは、ラグビーの多くのフィジカルな戦いは、コンタクトで優位に立とうとする意志やゲインラインを突破しようとする気持ちで勝敗が決まるということです。この気づきは、ラグビーが「全ての体型の人のためのスポーツ」と呼ばれる理由を再認識させてくれました。それは単なるフィジカルだけではなく、心と決意のスポーツだからです。


 

2023年のシーズンは、僕にとって複雑な一年でした。入部してから25kg増えたことで、ついにその影響が体に現れ、股関節の疲労骨折を引き起こしました。僕はバトルベースドサーキット(BBC) の競争心な雰囲気が大好きでしたが、ついには痛みなく歩くことさえできない状態になってしまいました。そこから始まったのは、長くて過酷なリハビリの道のりでした。この怪我は突然の劇的な出来事ではなかったため、最初は怪我という実感がなく、自分の体がなぜ走るという単純な動作に耐えられないのか理解できませんでした。

3か月にわたるリハビリを経て、明治大学との復帰戦に出場する機会を得ました。しかし、残念ながら僕の復帰はわずか20秒で終わりました。キックオフキャッチの際に足首を捻挫してしまった。それも通常とは異なるタイプの捻挫で、さらに3か月間ラグビーをできなくなった。この怪我のせいで、楽しみにしていた釜石での夏合宿練習に参加できなかった。シーズンのほとんどを怪我で過ごしたことで、チームから少し距離を感じ、自分が本当にその一員なのか疑問に思うこともあった。

復帰できたのは対校戦が始まる直前で、一部の試合ではスタンドオフとして、他の試合ではバックローとして出場しました。英語には「Too many cooks spoil the broth(料理人が多すぎるとスープが台無しになる)」ということわざがありますが、これは10番ポジションにぴったり当てはまります。フィールド上でのプレーメーカーであり意思決定者である10番には、コーチやチームメイトからの信頼が必要で、その自由をもってチームをリードし、判断を下す役割があります。しかし、この役割が複数の選手の間でローテーションされると、誰もそのポジションに慣れることができず、チームを導くために必要なリーダーシップを出すことが困難になります。僕自身、怪我の影響で出場機会が限られたため、このポジションに完全に慣れることができませんでした。この不安定さは、フィールド上で試合を効果的にコントロールする能力にも影響を与えました。

それでも、このシーズンには喜びの瞬間もありました。ラグビーワールドカップが対校戦の時期と重なり、最高レベルの試合を観戦しながら自分もプレーできることは楽しかった。それは、どんなに困難な時でも、なぜ僕がラグビーを愛しているのかを再確認させてくれるものでした。

 

2024:最後のシーズン。

対校戦が始まると、これが僕にとってラグビーをプレーする最後の機会になるかもしれない、という実感が湧いた。その思いから、ラグビーに夢中になりすぎそうでした。 この4か月間、僕の時間の約90%がラグビーに費やされていました。家では、2024年のオータムインターナショナルの全試合を観戦し、過去の国際試合の名勝負を振り返り、5つの異なるラグビーポッドキャストを繰り返し聴いていました。また、毎週のチーム練習に加えて、週に2回、1時間半のゴールキック練習を一人で続けていました。

 ラグビーを愛することと、実際にプレーすることは全く別物です。早稲田戦で肋骨を折り、さらにその時に咳をしていたことで、咳をするたびに激痛が走る苦しい状態を経験しました。その中で試合に向けて自分を精神的に整えることがどれだけ難しいかを痛感しました。この課題は今でも僕にとって大きな壁です。 気づいている人はほとんどいませんが、試合前日のミーティングが一番つらい瞬間です。これから訪れる試合への緊張と不安で、体が自然と震えてしまいます。 それでも、シーズン残りの試合では、ラグビーに必要な攻撃的な精神状態に自分を持っていくために全力を尽くします。そして、残り2試合を悔いのない形で終えるつもりです。

長い間、入れ替え戦出場という目標を達成できなければ、この4年間が無駄になったように感じるのではないか、という思いを抱えていました。しかし、明学に敗れ、出場のチャンスを逃した後、僕は別の気づきを得ました。ラグビーをすることは、ただ目標を達成することだけが全てではなかった。それは、このチーム、クラブ、さらにスポーツの一員であることから得られる全ての経験に意味があることを分かった。

 

To Mum and Dad,

Thank you for your dedication and support. I am so grateful that I was given all the opportunity and support to pursue this sport that I love so much. Although I have grown up from crying and sulking whenever Wales were defeated by England, I have kept that same intense passion for rugby that I inherited from you. Even though you haven’t been able to watch all my games in person, I’ve always felt your presence and support through the live streams. Every time, I’m reminded of the cheers of encouragement and Mum’s unmistakably loud voice on the sidelines that shaped my love for this game from the very beginning. I hope that, in some way, I can repay you for all the joy and fulfillment you have made possible for me.

To Layla,

Thank you for always being my number one supporter. Your understanding of my dedication to rugby and the unwavering support you have given me has meant a lot. From cheering me on at games to taking me to the hospital after injuries and even coordinating your own life around the demanding schedule of this busy club, you’ve been there every step of the way over the past three years. Now, I’m incredibly excited to explore regular university life with you in the time we have left as students—and beyond.

同期へ:

入れ替え戦には進めなかったけれど、この最高の仲間たちと一緒にラグビーができたことに感謝しています。本当にありがとう。残りの2試合、全力で勝ち切って、最後は思い切り楽しもう!

後輩へ:

僕たちが果たせなかった目標を、ぜひ君たちの手で実現してください。入れ替え戦では観客席から君たちを全力で応援します。そして、弟のことも頼むよ。

このシーズンで改めてラグビーへの情熱を取り戻したことで、ラグビーを新しい視点で見ることができるようになりました。東京大学ラグビー部での時間が、僕のラグビー人生の終わりではないと自信を持って言えます。これからの人生にはまだ多くの不確定要素や決めなければならないことがありますが、一つだけ確かなのは、どこに行ってもラグビーとの繋がりを持ち続けるということです。

 

次は倉橋にバトンを回します。倉橋はフレンドリーで優しい人で、本当に話しやすい存在です。ラグビー選手としても彼のプレーは見ていてワクワクします。ディフェンスを切り裂くようなステップは、彼のスキルとクリエイティビティの証そのものです。最近ではリーダーシップも光っていて、その姿勢には感心させられます。

僕たちはラグビーの話をすることが多いですが、それだけに留まらず、旅行や国際文化への彼の興味のおかげで幅広い話題で語り合うことができました。この4年間、僕は倉橋に本当にたくさん頼ってきました。日本語から英語への翻訳をお願いしたり、日本の文化や隠れた名所について教えてもらったりしました。今は僕たちの卒業旅行の計画を彼が率先して進めてくれていますが、きっと素晴らしい旅行になると確信しています。部活での限られた時間の中でも、彼は旅慣れていてこの仕事にはぴったりの人です。

倉橋と一緒にラグビーができたことは本当に楽しい思い出ですし、これからもずっと連絡を取り合う仲でいられると信じています。

エリート意識を脱ぎ捨てた先にあった本当のラグビー

 written by 小野 光毅 投稿日時:2024/12/09(月) 12:28

奥山からバトンをもらいました、4年の小野です。愛情を込めておっくんと呼ばせてもらいます。おっくんは今年通じてグラウンドに立ち続け、多くの試合でゲームキャプテンとしてチームを支えてくれました。おっくんがいたから今年のチームがあると言っても過言ではないです。個人的にもキツイ時おっくんのクサいくらいのアツさに何度も支えられました。ありがとう。防衛戦のトライ後に湊を一緒に潰れるくらい抱きしめたのは忘れられません。
これからも日本を背負って立つおっくんを陰ながら応援しています。

初めに、本リレー日記ではラストということで本音で4年間について語ろうと思いますが、この日記を読んで不愉快な思いをされる方がいるかもしれません。それについては本当にごめんなさい。未熟だった自分を許してください。
代わりに、成長した姿を残り2戦で見せられるように頑張ります。

もうすぐ10年以上にわたるラグビー人生が終わろうとしている。特に東大ラグビー部で過ごした4年間は非常に濃密で、選手としても、そして人間としても大きく成長できたと自信を持って言える。ちっぽけなプライドを胸に秘めて入部した自分が、自分の中のエリートとしてのくだらない意識と、不器用で泥臭い東大ラグビー部のメンバーであるという事実の狭間で悩み続けた4年間だった。同時にそれは、自分自身が組織の中でどう在るべきか、自分がこれまで積み上げてきたアイデンティティを破り捨て、新たな自分に生まれ変わるきっかけでもあった。

ラグマガカップ優勝キャプテン、U16、U18とラグビー街道を歩んできた自分が、泥臭い練習に満ちた環境で何度も壁にぶち当たるとは入部当初思いもしなかった。

幼少期からラグビーを続けてきた自分は、ラグビーエリートとして大学ラグビー部でも当然のようにすぐ活躍できると確信していた。それが強豪校でラグビーを続ける旧友たちに並ぶという自己価値の儚い証明になるのだと思い込んでもいた。
だが、現実はそううまくはいかなかった。入部してすぐに右肩の怪我、手術、リハビリ半年。復帰してすぐ逆肩怪我、手術、リハビリ半年。練習中のアクシデントで右膝半月板損傷。この時の心境はリレー日記に記してあった。プレーできないからこそラグビーへの期待が自分を部に留めていたのだと記憶している。しかし2年生の秋ごろになってようやく待ち望んだラグビーができると希望に胸を膨らませ復帰した自分を待っていたのは、思うようなプレーができない自分、泥臭く地味なプレーにこだわるチームスタイルに全く馴染めない現状だった。過去の経験から、「なぜ自分がこんな環境で…」という思いに苛まれることが多かった。パスもキャッチもまだ満足にできない選手たちの中に入れられ、基礎練習を強いられる日々に嫌気がさした。試合では仲間との連携不足で、自分のやりたいプレーが全くできず一勝もできなかった。仲間のミスのリカバリーをしているのは自分なのに、「小野何やってるんだ」と言われた。自分の中の「活躍する自分、誇りあるラガーマン」像が崩れ始めた。FW中心のチームの戦術にも納得がいかなかった。自分の中に湧き上がる否定的な感情を誰かに打ち明けることもできず、孤独感を覚えずにはいられなかった。だから積極的に練習に参加することはせず、それがチームのあり方との壁になっていた。「自分のラグビー」と「チームのラグビー」の間で揺れる日々の始まりだった。

3年生になっても状況は変わらず、チームが追求する哲学とは距離を置き、練習にも身が入らなかった。もう3年だし、そこそこやっておけば試合に出してくれるだろうという甘い考えのもと、最低限怒られないレベルでやっていた。そんな姿勢を当時のコーチは見逃さず、徹底して自分を試合メンバーに入れなかった。真面目に練習もせず大したプレーもできない、そんな選手を使ってくれるわけはない。自分と違い同期のほとんどは試合に出ている、そんな現状に直面しても、チームのスタイルに迎合することへの強い抵抗感から自分の姿勢を改めることはできなかった。
それに追い打ちをかけるように、足首や膝の状態が悪化していった。無茶な増量を行った結果、足の痛みが増大し、自分の強みであるステップやランができなくなってしまった。減量は認められず、試合に出ても全く良いプレーができない。自身の想像もできないパフォーマンスの低下にショックを受けた。
活躍していた過去の自分と、チームとの関係や怪我に悩む今の自分の間に広がる深い溝が見え、耐えられなくなり一旦ラグビーから離れた。自分の中のラグビーへの誇りやプライドは完全に打ち砕かれた。能力の限界を思い知り、ラグビーへの情熱は冷め、もうプレイヤーとしての未来を見ることはできなかった。同期の説得には、「スタッフとしてならもしかしたら」と返していた。「このまま辞めるべきなのか。」そう問いかける自分の声に、答えを見つけられなかった。それでも、ラグビー部を完全に忘れることはできなかった。結局自分がラグビー部に戻ってきて、ラグビーを続けるという決断をしたのは仲間との絆以外に理由はなかった。部から離れて普通の生活を送る中で、ラグビー部が単なるスポーツの場ではなく、自分にとってかけがえのない「仲間との居場所」だと気がついた。授業で顔を合わせるのとは違う、ラグビーと真剣に向き合い、共に汗を流し続けることでしか、この素晴らしい仲間たちとは本当の意味で繋がれないと思った。
あの時僕のことを見捨てず声をかけ、話をしてくれた人達には本当に感謝している。

復帰してからも厳しい状況は続いたが、次第に自分のラグビー観やチームへの関わり方が変化していった。練習で何度も失敗し、それでも諦めず顔がゴムチップまみれになっている同期の姿を見てふと考えた。この人たちのために自分にできることはなにか。自分はこの人たちのために何をするべきなのか。ラグビーがかつての「自己価値を証明する手段」ではなく、「仲間と共に築き上げるもの」に変わりつつあると感じた。自分のエリートとしてのプライドに固執するのではなく、チームの勝利を第一に優先し、仲間と協力して練習するようになっていった。
それから自分がチームのために何ができるのかを考えることが増えた。かつての「自分のため」意識から脱却し、「仲間と共に勝利を目指す」意識への変化が生まれた。苦しい時期の自分を支え、変えてくれたのはラグビー部の人々との絆だった。仲間たちと勝って喜びたい、トライをとって抱き合いたい、しんどい練習を乗り切って笑い合いたい、その思いだけで残りの1年余りやってこれた。
あの日の自分に伝えたい。休部は終わりではなく、始まりだった。仲間が再び自分を必要としてくれたこと、そしてその仲間と共に歩む道が、自分を再びラグビーへと引き戻してくれた。その絆がなければ、もう二度と汗と泥に塗れる喜びを知ることもなかっただろう。

くだらないこだわりを捨て去り、チームの一員として臨んだ4年目のシーズンは、これまでのラグビー人生とは比較しようがないほど素晴らしいものになった。一点差まで迫った国公立大会決勝、劇的勝利を飾った防衛戦、対抗戦初戦勝利など、色々な思い出がある。どれも忘れることのできない鮮やかな記憶だ。その一瞬一瞬には仲間達と共に味わった喜び、悔しさ、緊張感が切り離せないほどに強く染み付いている。自分が成長し、本当のラグビーを見つけるまで3年という時間が必要だったが、最後の一年にこれほど濃密で楽しい経験ができたのなら、それもそれでいい。

4年間を振り返り、最大の学びは、自分の限界を知り「エリートとしてのプライド」を捨て、「チームの一員」としての責任を受け入れたことだと感じる。今年のチームは多くの方に期待されながら、例年通りの成績しか残せず、入替戦出場という目標は果たせなかったが、それ以上に大切なものを得た。それは、仲間と共に命をかけて一緒に戦う喜びだった。
ラグビーは1人で輝くスポーツではない。仲間を信じ、仲間のために戦うことにラグビーの本質がある。苦しい時に支え合える仲間がいて、その中で自分ができる最善を尽くすからこそ、本当の意味での成長がある。残した結果ではなく、チームへの愛がなければ乗り越えられなかった4年間が私にとって何よりの財産だ。

最後になりましたが、この場をお借りして今まで関わってくださった全ての方に御礼申し上げます。
江東RSのコーチたち、飛田コーチ、吉川さんの言葉は僕のバイブルです。人数が少ないながらも工夫して指導してくださった九段の藤田先生、先輩方、合同のみんな。わざわざ試合まで足を運んでくださったOBの皆様、MLOの皆様。4年生の試行錯誤についてきてくれた後輩たち、優しく、明るく最高な先輩方、自分を甘やかさず厳しく接してくれた大西さん。あの経験がなければ僕はあそこから成長できませんでした。下手くそな僕らに様々なことを教えてくれた一聡さん始めコーチの皆様。トレーナーやドクターの皆様、メンターのかわはるさん、森田さん。怪我ばかりの自分が今こうしてラグビーできているのは皆様のご尽力の賜物です。そして、二度の手術や度重なる怪我で迷惑をかけた両親。試合中の声援は本当に力になりました、試合の勝利を通じて少しでも、息子がラグビーやっててよかったと思えてもらえたら嬉しいです。
本当にありがとうございました。面と向かって言える機会があれば直接伝えるつもりです。
同期の皆と過ごした時間は宝物です。これからもよろしく。

次はデイビスにバトンを渡します。確かデイビスが入部してきたのは一年の冬あたりで、ウェールズから上手いやつが来た!と嬉しかった記憶があります。FWに行った時はびっくりしましたが、今年はBKに戻ってきてくれて、一緒にセンターコンビを組めて楽しかったです。デイビスは、何も言わずともいいところでいいパスをくれる個人的部内NO.1パサーです。デイビスからのパスを受けられるのもあと少しと思うと寂しいです。
ラグビー以外でも、いろんな相談に乗ってくれました。特に今年の夏合宿は色々お話しして、おすすめのトイレを教えてくれたりしたのもいい思い出です。
3年前の秩父宮での京大戦のリベンジ絶対果たそう。
 
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