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体感時間[ラグビー部リレー日記]

 written by 川北 航平投稿日時:2017/06/13(火) 19:53

 髪型と名前のわりに甲高い声の佐藤から受け取りました3年の川北です。

 先日21歳の誕生日を迎えました。先輩方によく、20を過ぎたら一年一年あっという間だし年をとることがどうでもよく感じる、と言われます。確かに自分でも20歳の誕生日がごく最近のように感じるし来年以降ますますそうなる感じがします。

 一般的に年をとればとるほど一年が短く感じると言われます。子供の頃の一年より大人になってからの一年のほうが短いのです。生まれてから20歳までの時間と20歳から死ぬまでの時間は、体感的には等しく感じられるらしいです。

 ではなぜそうなるのでしょう。いろいろ理由はあると思いますが、インターネットで興味深い仮説を見つけました。1歳の人から見れば、一年は人生の全ての時間に該当します。しかし2歳の人から見れば、人生の半分の時間でしかありません。21歳の自分から見ればわずかに1/21です。このように考えると、n歳の人にとっての一年は、その人の人生の1/nに感じると考えることができます。

 上記の仮説ももとに検証しましょう。ここでは考えやすいようにn歳のひとは一年を1/n年ですごすと仮定します(これを体感時間と定義します)。自分が日本人男性の平均寿命、81歳まで生きると考えます。この時の死ぬまでの体感時間の総和は

1/1+1/2+1/3+……+1/80+1/81

 で表せます。これを計算すると約4.98年です。

 先ほどの説を検証します。ここで生まれてから20歳までの体感時間の総和は

1/1+1/2+1/3+……+1/19+1/20

 となります。これを計算すると約3.60年です。

 つまり20歳までで人生の半分どころか約72%も過ぎてしまっている計算になります。ちなみにこの考え方では6歳までの体感時間の総和が2.45年でだいたい80歳までの半分になります。小学校入学までに人生は半分過ぎているのです。もちろんこれはこう仮定した場合の話で実際はおそらく違うでしょう。しかし年をとるごとに一年が短くなるのは本当のようです。

 ところで、この考え方を東大ラグビー部に当てはめるとどうなるでしょう。一年生、入部してすぐの頃は練習についていくのも大変、定期戦や合宿も初めてのことばかりで戸惑ったり苦労したりも多いでしょう。一年やりきって京大戦が終わるころには長い一年だなと思うと思います。実際自分も一年生はめちゃめちゃ長く感じました。

 しかし二年生、三年生と過ぎていくとどうでしょう。練習も試合も未知のものは少ない。年の初めには学年があがった、後輩ができたことを意識していてもだんだん慣れて感じなくなってしまうかもしれません。

 自分にとってはまさに今年がそうです。昨年は初めて後輩ができ、初めてスイカを着て、定期戦も対抗戦もただ見ていただけのものに出場しました。正直人生で一番充実した一年だったかもしれません。九大戦が終わった時も対抗戦が終わった時も、一年生の時のような感覚を味わいました。

 しかし今年は、気づけばもう6月です。あと4週で春シーズンも終わってしまいます。ここまであっという間というか、去年と変わらない感じですごしてしまったという反省があります。昨年はフィジカルもスキルも劇的に成長したとよく試合で感じていたが、今年はそれもほぼない。三年生になったからといって二年生の頃と何か大きく変わったわけでもない。Mind change がまだまだ足りていないと思います。

 先の体感時間の論理にもあるように、体感的には今年は本当に短いでしょう。だからこそ濃い一年にしなければならない。気が付けば何もできないまま対抗戦が終わっていた、そんなことにならないように日々過ごそうと思います。

 拙い文章ですが最後までお読みいただきありがとうございます。次は名門筑紫丘高校出身の一年生、小田に回したいと思います。

人間関係[ラグビー部リレー日記]

 written by 佐藤 伶央投稿日時:2017/06/11(日) 21:44

 「面白い人」こと文さんからバトンを受けとりました佐藤伶央です。個人的には文さんの話は面白さに波があると思います。最近髪型をソフトドレッドヘアというものにして以降周囲の男性からの評価は高いものの、女性からの評価は留まるところを知らずに落ちていきます。

 人との仲や信頼関係について最近思ったことを書いてみようと思います。

 ラグビーのみならず、集団で何かを成し遂げようとするならば個々人の間に適切な関係を結ぶことは必須である。これは円滑なコミュニケーションであったり、信頼関係であったり、相手の行動規範を理解することであったりする。日々の練習や生活を通して、友情を介することでこれらの適切な関係を獲得しようとするのが一般的かつ有用な方法だろう。同じ釜の飯を食うことで互いに気心の知れた関係を作る、ということである。こう言った関係に対して私が最近気づかされたことがある。
 私は今まで、友情というものはしかるべきところには自然に発生すると思っていた。同じ時間に同じ目標で同じ活動をしていればいやでもそこには個人間の密な関係が生まれるだろうと思い込んでいたのだ。ある程度の真理を含んではいても、この考えはかならずしも正しいとは言えないということをこれまでの生活で思い知らされた。当然のような話でもあるが、消極的な、あるだけの関係では不十分な場合があり、積極的にコミュニケーションをとったりそのための場を作ったりして、しかるべき努力を払う必要があるということに今更ながら気付かされるだけのことがあった。
 現在東大ラグビー部ではスモールブラザーズといった制度を含め、部内でのコミュニケーションを強化する流れができている。この内省が十分に生かされるよう積極的に周りの人と働きかけていきたい。

 完結していない上に抽象的な内容になってしまいましたが、お読みいただきありがとうございました。次は「ぶってる」キャラが一貫している3年の川北さんにバトンを渡したいと思います。

"合理的"[ラグビー部リレー日記]

 written by 文 剛英投稿日時:2017/06/07(水) 23:04

いつもグラウンドで爽やかな笑顔を振りまく一年の倉上からバトンを受け取りました3年の文です。先週所属する経済学部の試験を終え再びラグビーに集中できるようになりました。

そこで経済学を勉強するなかで思ったことを書こうと思います。経済学が想定している人間、主たるプレーヤーは合理的な人間です。ここでいう"合理的"とは
"人間は利己的であり、自分の効用や利潤を最大化しようとする"ということを言います。
ではこの"合理性"をラグビーに当てはめるとどうなるでしょうか?

普通人間は前からボールを持った大男が相当なスピードを持って走ってきたらどうするでしょう。普通の"合理的な"人間ならば怪我をするリスクや当たった時に感じるであろう痛みその他様々な不利益を考慮して何もせず傍観するのが最適な選択となるでしょう。しかし、ラガーマンはタックルに入ります。何故でしょうか?トライを取られたくないからです。トライを取られたら試合に負けてしまうからです。ラガーマンにとっては試合に負けることが自分の効用や利潤に反し、それによって得られる不利益はタックルに入らなかった時に得られるであろうそれを上回るからです。すなわちタックルに入り試合の勝利に貢献することが最適な選択となるのです。

ここから考えるとラグビーを行う上で重要なことはチームの勝つことを自分の効用となるように内部化し、その為に最適な選択とし続ける合理的なプレーヤーとなることなのです。

こんなことは考えなくても当たり前の話なのですが、少し普段と違った側面から
ラグビーについて考えてみました。
自分が自分の効用を最大化し、"最適な選択"をし続けられているかどうか日々、自身に問い続けようと思います。

まとまりのない拙文を最後までお読みいただきありがとうございました。次はドレッドヘアーがなんとも似合う2年の佐藤に回そうと思います。

ラグビー部[ラグビー部リレー日記]

 written by 倉上 僚太郎投稿日時:2017/06/04(日) 12:12

「ラグビー部」

 

新歓代表として自分たち一年生を東大ラグビー部へと導いてくださった森下さんからバトンを受け取りました、新入生の倉上です。出身高校は國學院久我山高校です。この早いタイミングでいきなりリレー日記を書かせていただくということで、とても光栄である反面、学年のイメージがこれで決まってしまうかと思うと恐ろしくもあります。拙い文章ですがどうかお付き合いください。

 

入部してから1ヶ月半が経ち、東大でラグビーをするということにも段々と慣れてきた今日このごろですが、この新たな環境において、ここで一度自己紹介も兼ねまして、自分にとってのラグビー部というものが何であるかということを、見直してみたいと思います。

 

私は久我山中学に入学してから、友達の誘いと、親戚が久我山でラグビーをしていたということもあってラグビーを始めました。元々人とぶつかること、戦うことが苦手な少年でした。できることなら戦いたくない。できることなら一人でのんびり過ごしていたい。失敗したくない。傷つきたくない。そういう弱気な人間でした。今だってそう思います。久我山は中学では約70人、高校では約100人の、大所帯のラグビー部であり、試合に出ることそのものが難しいことでした。レギュラーになれない痛みを常に抱きながらのラグビー生活でした。そういった、勝たなければいけないチームならではの悩みや不安が沢山あったなと、今振り返ると思います。しかしそんな中でもラグビーを続けてこれたのは、ラグビー部の人々が大好きだからです。久我山でも東大でも、ラグビー部の人々は個性的で、熱くて、信念があって、共に一つのものを目指したいと思わせてくれます。ラグビーという競技の特性からでしょうか、体を張って笑いを取りにいく人が多いです。みんないかつく見た目は怖いですが、驚くほどとても優しいです。こうやって挙げていくと、ラグビー愛以上にラグビー部愛が強いことに気づきます。僕の好きなラグビー部の雰囲気が東大の先輩方から感じられたのが、ラグビーを大学でも続けることを決めた決め手でした。


要するに僕にとってのラグビー部とは、どんなに環境が変化したとしても帰るべき場所です。伝統ある東大ラグビー部をそのような場所にすることができてとても嬉しいですし、ラグビーをやりつつもちゃんと勉強をしてきて本当に良かったと思います。


また、入部間もないですが、同期もそういう雰囲気だなと早くも感じています。暑苦しくて臭くて、でもとても楽しく有意義なラグビー生活がこの先待っていると確信しています。先輩方、同期、OBの方々、そして東大ラグビー部を応援してくれるすべての方々、これからよろしくお願い致します。

 

まとまりのない文章失礼しました。次は、お笑いサークルにも所属している「面白い人」、3年の文さんにバトンを回したいと思います。

生きるということ[ラグビー部リレー日記]

 written by 森下 幸志朗投稿日時:2017/06/02(金) 23:48

農学部の後輩になると思っていた藤平からバトンを受け取った、四年の森下幸志朗です。

テストも就職活動も一段落し、ひとまず安堵しているところです。

就職活動をしていると、普段からお世話になっているOBの方だけでなく、あまりお会いすることのないようなOBの方々からも様々なご支援をいただいていることが実感でき、感謝に堪えません。この場をお借りして御礼申し上げます。

 

就職活動は、自分の人生、生きるということに真剣に向き合い、今までとこれからについて熟慮するいい機会だったと思います。

私の好きな詩の中に、谷川俊太郎さんの「生きる」という詩があります。有名なドラマで取り上げられたり、小学校の国語の教科書に載っていたりするので、ご存じの方も多いのではなかろうかと思います。

その中の一節に、

 

人は愛するということ
あなたの手のぬくみ
いのちということ

 

というものがあります。人が生きているということは、他の誰かのことを想い、繋がっているということだと私なりに解釈しました。これを自分に落とし込むと、私という存在は、家族や友達、ラグビー関係者など今まで関わってきた全ての人の想いやつながりによって生かされているということだと思います。

今生きるということは、そのようなつながりを実感しながら、ラグビーに若さを燃やすことだろうと思います。本気でラグビーに取り組み、秋に勝って泣くためです。そのためには、仲間と真剣にぶつかって、勝ちに対して貪欲になる必要があります。私は生来、人と軋轢を生むのが嫌いで、相手が不機嫌にならないよう言葉を選んで遠慮しながら発言していました。しかしながら、本気で勝ちたいならば、グラウンドでは妥協を許さず、嫌われる存在でなければなりません。後悔しないように、自分にも周りにも厳しくありたいと思います。遠慮せず、本音をぶつけ合えるような仲間になることが、想いやつながりを太くし、濃く生きることになるのではないかと思います。

 

長文駄文をお読みいただきありがとうございました。次は、イケメンでラグビーも上手な期待の新人、国学院久我山高校出身の倉上にバトンを回そうと思います。

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2025年10月

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