ブログ

<<前へ次へ>>

弱さと後悔に向き合って[ラグビー部リレー日記]

 written by 池上 暁雄投稿日時:2024/12/27(金) 22:30

東大ラグビー部史上初の女性主務という大役を完璧に務め上げ、すでに来年度のオファーも届いていると噂の美浦瑶子からバトンをもらいました、今年度副将の池上暁雄です。瑶子は、忙しさに合わないフットワークの軽さと誰とでも仲良くなるコミュニケーション能力から、後輩に慕われご飯にも頻繁にいっています。こないだは、フラッと栃木までドライブに行っていました。

3年生のリレー日記で以前紹介した時には、既に幸せを手にしていた瑶子は、幸せのお裾分けとして変わらずプライベートの面倒を見てくれています。2回目の交流会は惨憺たる結果に終わりましたが、ぜひ次回をよろしくお願いします。食べ物は自分で調達するので、出会いをください。



以前のリレー日記で、ラグビー部総決算は最後の一回に、と宣言していました。乱文にはなりますが、最後までお付き合いください。



------



振り返ると、このシーズンは自分本来の精神的な弱さとの戦いだったと思う。



小学校を最後に受験から遠ざかり、のびのびとした競争の少ない環境の中で育った。自分の重ねた努力に対して、一定程度の成果は生まれる。部活動では、順番待ちをしていれば順当にレギュラーは回ってくる。中学野球では、自分の代になるとレギュラーで出ることができたし、高校で始めたラグビーも周りには同じ初心者しかおらず、体が大きく少し動けた自分はすぐスタメンになれた。そんな環境にいた中で、自然と適当な努力を覚えていった。一番上になるまでの努力はせずに、目に見える成果が出ただけで満足してしまっていた。



東大ラグビー部に入ってもそれは変わらなかった。小学校から続けていた野球に限界は見えていたし、それならばまだ活躍できそうなラグビー部で試合に出たい、と打算的に入部を決めた。実際に、人手不足のPRになることで、ラグビー理解度も強さも追いついていない自分ながら、ありがたいことにスイカの18番を着る機会を早くからいただけた。しかし、試合に出られる時間は限られており、決してパフォーマンスを出せたわけではなかった。振り返ると、4年生からポジションを奪うことの大変さに心のどこかで諦めを感じ、真の限界まで追い込んでいなかった。スイカを着ることに満足して、スイカの3番に向けて本気になりきれていなかった。



3年生になり、スイカの3番の順番は回ってきた。4年生の少ない代だったので、順当に行けば次の3番は自分だった。ただ、そこでもやりきれない根っからの弱さが出た。春シーズン前の体調管理フォームの提出数ワースト2位。当時HCの大西さんに呼ばれ、「規律を守れないと示しがつかない」と叱られた。情けなかった。チームを一番に考え、弱い自分と決別しようと心に誓った。



そして、春シーズンから試合に出続けさせてもらった。自分で掴み取ったと言い切れないスイカの3番だったが、身につけると責任や重みは、否が応でも感じた。自分の一個のスクラム・モールに、チームの勝利が懸かっていた。しかし、強い気持ちとは裏腹に、ありえない敗戦、怪我での離脱など、100%をチームに捧げることはできなかった。4年生に対して本当に申し訳なかったと同時に、自分の代ではこの思いをしたくなかった。



そして、ちょうど去年の今頃、副将に就任するにあたって同期の前で決意表明をしたのを覚えている。「ハードワークして、背中で引っ張る副将になる。」それまでの3年間、同期の中では多く試合に出ていたし、4年生になってFWとチームを引っ張っていきたい、と副将に立候補した。少し強引な決まり方だったけど、選ばれたからには全身全霊をかけて、口下手な自分がどうやってチームをリードするかを考えて、理想像を定めた。勝手ながら、2個上の副将だった松元さんをイメージしていた。



実際、1,2月はいいスタートだったと思う。体制が大きく変わった中でも、4年生を中心に全員で運営し、体づくりに取り組んだ。自分もチームに100%でコミットできていた。



ただ、春先に怪我をした。全てはこれから始まるはずだった。破竹の勢いの春シーズンも、タフながら成長する夏合宿も、入替戦出場を決める歴史的な対抗戦シーズンも。直後のリレー日記では明るく振る舞っていたが、正直心に来ていた。DLに入り、全てから取り残されたような感覚に落ちた。自分がスタート地点に戻ろうと必死な中、他の選手は新しいDEFシステムやピックゴーATTで、チームを作り上げていた。背中を見せて引っ張るはずの自分は、周りの背中を見ながら過ごす日々だった。



この頃の自分は感情がぐちゃぐちゃになっていた。



試合に勝つのは、共に喜びを分かち合う仲間に戻れたような気がして嬉しかったが、その喜びは一瞬だけ。しかも、純度100%ではなく、その一抹に寂しさや嫉妬や悔しさやらが入り乱れた、複雑な感情だった。とくに、試合前の円陣と試合後の片付けの時間に喜びはなく、辛さしかなかった。別に自分がいなくてもチームは回るし、問題なく勝つことができる。その事実を突きつけられていた。祝勝のご飯に行く同期たちに、何もしていない自分がついていくのは後ろめたかった。



一方で、やるべきことは明確だった。副将としての理性が、一度決めた理想像が、どうあるべきかを規定してくれていた。自分の出ない練習でも、チームの方針理解のためにビデオを見なければならなかった。自分の出ない試合でも、あくまで情報として入ってくるだけだったが、それぞれの動きを見て、評価を下さなければならなかった。



ただ、揺れ動く自分の感情にも向き合いきれない自分は、責務を完璧には果たせなかった。ビデオの大枠を見てわかった気になっていた部分もあった。試合の映像は擦り切れるまで見るべきだった。必要があれば、チームメイトに強く指摘しなくてはならなかった。やるべきことがわかっているのに、やり切らない自分に嫌気がさして、部内での自分がどんどん小さくなっていく様だった。最初の方は心掛けていた、メンバー選考の説明もどこか疎かにしてしまっていた。ミーティングでの発言も減っていった。自分が副将である意味を見失っていた。最後までやりきれない弱い自分は、ここでもまた顔を出してきた。ただ、投げ出すわけにもいかず、主将の寿太郎と練習長の奥山に大きく助けられながら、なんとか喰らいついていた。



幸いなことに、夏合宿の終わりに復帰の兆しが見えた。ただその頃は、山梨学院大学戦を完勝で終えていて、Aチームは自分を必要としていない様にも感じていた。そのため、周囲にAでの出場を納得させるためにも、パフォーマンスを出して自分の価値を証明しなくてはならなかった。結局、練習に復帰してからはそれまで以上に余裕がなくなっていた。



学習院戦。後半3試合を見据えてそこが復帰試合に決定した。この時点で、失っていた余裕を取り戻すことができたと思う。正直パフォーマンスを戻し切ったとは言い難いが、一聡さんからの勧めもあり17番での登録になった。このせいで、外れた本多には本当に申し訳なかったが、それまでで一番集中して試合に臨んだ。結果は概ね良かった、がまた怪我をした。結果は4週間安静。悲しみや自分への怒りもあまり感じられないほど、ショックだった。また、チームに置いていかれる。そんな恐怖感しかなかった。成蹊戦の復帰に向けてできることは全てをやったが、一度得た冷静さは、またどこかに消えていた。



それでもなんとか、個人としてもチームとしても成蹊戦はいいイメージで迎えられたと思う。しかし、結果は負け。ここから、何か歯車が噛み合わないまま進んでしまった様に、今振り返ると思う。チームともっと深く話し合うべきだった。自分が何を考えているのか、相手が何を思っているのか。弱い自分はそこから目を背けてしまった。本当の意味で一つになるチームを作り上げる、リーダーシップを発揮できなかった。



この文章を書きながら、数々の後悔が浮かんでくる。もし上位校に勝てていたら、もし怪我をしていなかったら、もし今年一年をやり直せるのなら、なんて陳腐な「もし」をずっと考え続けている。対抗戦が終わり、余裕ができたことで一人考える時間は増えて、その思いはどんどん強くなっていった。そんな折に、昨年度副将の安冨さんと話していて、胸を張って「昨シーズンに後悔なんて一個もない」と言われた時、深く刺さった。こんなに真っ直ぐ言い切れるほど、自分はこのシーズンをやり切れなかった。弱さと向き合いきれなかった。



後悔しかなかったので、入替戦も見に行けなかった。決して勝てない相手ではない成蹊や明学が熊谷で試合しているのを見ると、今までの自分が全く足りていないことを嫌でも理解してしまうから。4年間の日々で自分が弱さと向き合いきれずに成長できなかったと感じてしまうから。本来は、その苦さすら飲み込んで、入替戦に行くべきなのだろう。最後まで弱かった。



目標を達成できなかった自分たちは、おそらく一生消えない何かしらの後悔を背負ってこれから生きていくのだと思う。



ただ、それでも最後の思い出は、喜びに溢れた美しい記憶にしたい。

試合を終えたその瞬間くらい、いい4年間だったと胸を張って言いたい。

自分がやってきたことの証明を、歴史に刻みたい。



そのために。

最終、京大戦。

勝って泣こう。



---



駄文でしたが、赤裸々な自分の気持ちです。



最後になりますが、この4年間関わってくださった全ての方に深くお礼を申し上げます。皆様のサポートなしには、大学ラグビーをやりきることはできませんでした。本当にありがとうございました。



大西さん

大学ラグビーのイロハは、全て大西さんに教わりました。こんな情けない自分ですが、期待して早くから使ってくれたこと本当に感謝しています。菅平で復帰に苦しんでいた時も、焦って目標を見失うなよ、とお電話をくださったおかげで、気持ちが落ち着きました。



一聡さん

急で無茶なHCの依頼を受けてくださり、ありがとうございました。チーム戦略に一聡さんが適切なアドバイスをくださったことで、今年のチームが完成しました。菅平での牧場に連れていっていただいたこと、クレープを食べたこと、いい思い出です。



青山先生

怪我をした自分にもチームできることがあると毎週ミーティングのたびに励ましてくださったこと、復帰への大きな力になりました。ジャージ授与式の力強い握手も、試合前の励みになりました。



田崎先生、工藤さん、笠原さん、上岡先生

大きな怪我からの復帰の面倒を見てくださり、ありがとうございました。全てが順調というわけではなかったですが、細やかなサポートを受けられて、無事に復帰することができました。



先輩方

自分に優しく指導していただいたこと、本当に感謝しています。特にフロントの先輩にはスクラムの細々したアドバイスをたくさんいただきました。そのおかげで、今の自分のスクラムがあります。京大戦、教わったスクラムで圧倒していきます。



後輩たち

頼りなく、ほとんどグラウンドにいない副将でしたが、復帰後暖かく迎え入れて、ついてきてくれたこと感謝しています。特に、DLにいる後輩たちへ。孤独や置いていかれる感覚を覚えることもあると思いますが、諦めないでください。ラグビーを楽しめるその瞬間は必ずきます。



同期たち

大好きです。この仲間で本気で入替戦出場を目指せたこと、4年間ラグビーに没頭できたこと、部室で喋ったこと、ご飯を競い合って詰め込んだこと、全てが幸せでした。あと80年くらいでしょうか、死ぬまで付き合ってください。



両親

二人のサポートなくして、ラグビーをすることはできませんでした。最後の方は怪我ばっかりで迷惑も多くかけました。試合を欠かさず応援してくれて、栄養満点のご飯を作ってくれて、時には厳しく叱ってくれて、ありがとう。まだ修士なので実家を出ていくことはありませんが、少しずつ恩返ししていきます。



次は、令和6年度東京大学ラグビー部主将、吉村寿太郎にバトンを渡します。寿太郎は文字通り大学生活全てをラグビーに捧げた、ストイックで頼りになる漢です。自分にも他人にも厳しい寿太郎がリーダーだったからこそ、今年のチームが出来上がったと思います。自分が怪我をしてチームを離れている間も、体の限界までチームを引っ張ってくれました。お疲れ様。

全てが終わって一息ついたら、また地下ライブにでも行きましょう。

文才が欲しかった[ラグビー部リレー日記]

 written by 美浦 瑶子投稿日時:2024/12/26(木) 20:00

雪竹からバトンを受け取りました、4年スタッフの美浦です。
雪竹は、未経験者ながら、怖いものない様子で相手に突っ込んでいく姿がとても頼もしく、同期の中でも早くからスイカを着ていました。
メンターとして関わる中で、怪我の安静期間やプロトコルを指示する機会が幾度となくありましたが、その度に悔しそうな顔をした雪竹に反発された気がします。まったく…と思いながら、命が大事だから…と思いながら、ラグビーをやりたいというひたむきさにいつも刺激を受けていました。
正直、2年生の終わりあたりまで、なんとなくチャラそうな印象が抜けなくて、奥で何を考えているのかわからず、少し怖いと思っていました。去年あたりから、表裏なくただただ面白いやつなんだとわかってきて、最近は抜けたことを言ってみんなに総ツッコミされている風景がたまらなく好きです。ただ、練習後にご飯に行く流れになる中いつも足早にバイトへと向かってしまうので、練習外で一緒にご飯に行けたことは少ない気がします。私もふと浮かぶのは2年生の時の下北での飲み会です。昨日、最後の朝練の後同期でお昼ご飯に行った時に雪竹がいて嬉しかったです。引退後もぜひ遊びましょう。度重なる頭への衝撃で将来がかなりかなり心配ですが、どうか長生きして荒稼ぎして暮らしていってください。

私は強く意志を持って考えを発信することは少ないし、悩んでいる時も特にそれを周りに話したくなかった。楽しければそれがベストって感じだし、そもそも寝たらマイナスな感情は割と忘れるタイプなので、それでいいと思っている。
でも、今回はせっかくの機会なので、私がこれまでに感じていたことを書いてみます。これを読んだ後輩が何を得られるのかわからないけれど、記録として残しておくので、読んでいただけると嬉しいです。

私がラグビーに出会ったのは小学生の時だった。
ラグビー経験者の父親の横で、ザ・ミーハーな感じで三洋電機を応援して、ルールなんてわからないので、点が入ると嬉しいと言う程度だった。
小学2年生のある日、父親に連れて行かれるがままにラグビースクールに行って、初日はタッチフットをした。タッチラインが何かわからない私は、外に大きくはみ出して走ってしまった。なのになんか褒められて、おだてられるままに、楽しい!と思って入会した。そこからは、3年生の時に「憧れの人」という作文でラグビー選手を取り上げたり、図工でラグビーボールを作ったりと異常にラグビー愛の強い珍しい子だった。

小学校高学年から中学生にかけては週に4回というなかなかしっかり目の頻度でラグビーを習っていた。
とにかく楽しくて、休みの日に父親と弟を巻き込んで家の前でラグビーボールを投げたり蹴ったり、テレビを見るときにプランクをしたり、一番熱中していた時期だと思う。ラグビースクールで単独で試合に出るための16人を揃えたくて、人を探したこともあった。セレクションを受けに遠くまで行ったこともあった。スクールのチームメイトにも恵まれて優しくて強い代だったので、楽しくて仕方なかった。
大学ラグビーで見るような複雑なプレーはなくて、基本的に本能で動いていたけれど、学校で一番好きな科目は体育というタイプだったので、体を動かすことがただただ楽しかった。

一つ壁があった。人見知りな性格と強く意見できない性格ゆえ、中学生の途中から入った女子チームで自己主張をできず、なんとなく心地よくなかった。
通っていた男女混合のラグビースクールは中学3年生で卒業となる。その後も本当はラグビーを続けたかった。でも、高校生になると本格的に女子チームに所属するしかなくて、楽しくやっていたい気持ちと、上手くなって本格的にもやってみたい気持ちと、人見知りな性格と、意見を言えない性格と、中途半端だったんだと思う。そこでラグビーはやめた。
恥ずかしくて、「中3でスクールは卒業なのでそのまま辞めちゃいました~」みたいに言っていたけれど、本当はこんな感じだった。
大学生になってオールスターを観戦に行った時に女子選抜の試合を見たり、日本代表に知っている子が選ばれていたりすると、心から「かっこいいな」と思った。まあ今となって、ラグビーを続けたかったとか考えないし、後悔もないし、スタッフ業務が楽しい。私がラグビー経験があることを知ると、周りの人は「プレーしたくならないの?」と聞いてくるけれど、とてもできないし覚悟も根性も足りないから。だから、大学で死に物狂いでラグビーに時間を捧げている選手たちを見ると、刺激をもらうし、生半可な気持ちでスタッフをやってられないなと思う。

高校生では、趣味の範囲でラグビー観戦をして、そして東大に入学した。

大学受験の時から、東大であれ他の大学であれラグビー部でスタッフをすると決めていた。大学ラグビーという、観客としてみていた世界に憧れがあった。新歓ではラグビー部以外には顔も出さずに即決した。どうせラグビー部に入るとはいえ、せっかくなら奢り飯とか行きたかったなというのが1つ目の心残りかもしれない。
ラグビー部に入ると、なんと昴と5年ぶりの再会を果たした。小中学生以来会っていなかったけれど、変わらないその屈託のない笑顔で「母性本能くすぐり王子」なんてあだ名をもらっちゃってた。ちなみに小学2年生で私がタッチラインを大幅に超えているタッチフットの写真には昴が写っていてなんだか感慨深い。

入りたての1年生では、ラグビーに関われることがとにかく嬉しかった。ドリンクの濃さを覚えて、荷物を覚えて、ビデオを撮って、テーピングを学んで、試合中の仕事を覚えて、とひとつひとつできることが増えるのが楽しかった。毎日ラグビーを見れた、ラグビー観戦を一緒にできる友達ができた、試合の運営に関われた、そんな日々が楽しくて、12月には憧れの秩父宮で試合をした。

部活で自分がやりたいことに手を伸ばしたり、先輩後輩と積極的にコミュニケーションを取ったりできるようになったのは2年生の頃かと思う。練習中もラグビーに間近で関わることが嬉しくて、部室でダラダラと雑談することも楽しくて、朝練終わりから夜まで部室にいたこともあった。同時に、本格的にメンターを持つなど、選手が何かあった時に私を頼って相談してくれるようになった。

2つ目の心残りは、上級生スタッフがいる間にもっと学ぶべきだったということ。先輩に「2年生は仲良すぎるからもっと競争があってもいいよ」と言われたことがある。楽しかったけれど、もっと貪欲に知識を追求していたら今頃スーパースタッフになれていたかなと思う。

3年生でスタッフ長になった。
この時、多くを要求され、怒られ、時に理不尽を感じてしまうこともあり、3年生でのスタッフ長という学年にも苦しみ、下級生が悩みを相談してくれた時に力になりきれず、言い訳だけどスタッフの人数も少なくて、とにかく苦しかった。
特にシーズンの前半、5月の合宿あたりがきつくて、合宿中はずっと怒られていて、練習の帰りに駅で幼なじみに泣きながら電話したり、ディズニーの帰りに現実に戻った京葉線で涙が出てきたり、家で理由なく涙が出てきたりした。寝たら忘れるタイプなのに、毎日キツさが更新されていた。
選手のラグビーが第一だし、そこにいちスタッフのやりづらさや弱さを影響させたくなかった。その考えはずっとあったけれど、きつすぎて正解がわからなくなっていた。今も、あの時どうすればよかったかはわからない。大変だったアピールはしたくないけれど、これが全てだった。

その後夏合宿に入り、そしてシーズン後半に試合も始まると、モヤモヤにも一区切りついて、とにかく勝つためにできることをしようと前向きに動いた。スタッフ長という立場になってから、指示待ちをせず全体に目を配れるようになり、先を先を考えて運営に徹した。先輩がやっていたことに手を加えながら、我ながらブラッシュアップされた仕事内容になっていったと思う。

ただその中で、結局シーズン前半に色々溜め込んでチームのために徹しきれなかったことがずっと心の中に残っていた。チームがマイナスの時だけでなく、プラスの時でも、4年生が引退のタイミングでも、寂しさや感謝の一方で、最後の1年なのに迷惑をかけてごめんなさい、と言う感情が大きくて重かった。

4年生で主務になった。主将の寿太郎、副将のあきおとの首脳陣として動き始めた。
体制が大きく変わり、とにかく考え続けないといけなかった。寿太郎とあきおの視野の広さ、自分にも他人にも厳しいところ、常に考えることをやめないところに多く触れた。コーチ・OB OGさん・スタッフへの要望、練習の組み立て、試合や合宿の計画、メンバー選考、下級生のフォロー体制、全部が常に的確だった。あらゆる方面から、意見や要求、時には不満もくる中で、周りに意見を募りつつ、大事なところを自分で決断し、その中でチーム強化という目的を見失わず、考えていた。首脳陣という組織は、確実に敵ができるものだと思う。そんな時に、いつでも周りに説明できるように理論立てていて、その上で厳しさを持って周りに指摘する姿、誰よりもオールアウトする姿をいつも目にした。私が2人にスタッフについて指摘されたときにも、アイディアを複数個とそれぞれについて懸念を提示してくれることが多かった。完璧な2人だった。

そんな2人の横で、私はやるべきことをやりきれなかった。
主務になって仕事量が格段に増えた。で、夏あたりから、試合週じゃなかったり合宿の準備がひと段落したりすると、仕事に追われていない自分が不安になってしまった。todoリストが少ない状態にソワソワしていた。これは怪しいサインだったかもしれない。目的より手段とか形式になっていた。

人間的成長のために部活をする、というのは個人的に嫌いだった。1年生の時に聞かれた、4年生のときには人間的にどうなっていたいか?という問いが苦手だった。
なんのために、と言われたら、チームで勝つためだから。多分成長はした。今までなら手を上げなかったであろう主務に挑戦した。でも人間としての成長は結果的に得ていたらラッキーなものだと思っている。
こうやって思っているのに、大事な勝ちへの目的意識が足りなかった。

自己主張をあまりしない性格が、さらに自分の主張を考えすらしない性格となって、ここでも克服できなかったのと言えるかもしれない。

11月末、対抗戦が4勝3敗で終わった。
もう合宿の運営なんてやりたくないくらい大変だったし、遠征も対抗戦運営も全力投球して燃え尽きた。でも、武蔵戦が終わった時になって、それは別に足りないことがあったと最後に気づいてしまった。

チームの規律だった。
主務になった時に寿太郎と電話して、ようこが主務になる上で不安なのは仲間に厳しく規律を求められるか、と言われていた。1年間ずっとそれは頭にあった。でも甘かった、というより何もできなかった、しなかった。主務になったのならやらなければならないし、実務的な作業だけが好きなら主務の器ではなかった。円滑さと優しさと甘さは紙一重で、そしてそれは強さとは完全に別だった。
チームに対して心残りができてしまった。主務として、主将副将にはラグビー面に徹して欲しかったけれど、視野の広い2人によく指摘や要求を受けた。
結局、私は勝ちという目的をブレずに見続けることができていなかったのかもしれない。

この4年間を書き出してみて、どう総括していいかわからず、文才もないのでこんな書ききり方になってしまいました。
幸いあと1試合残っています。そこで、何かを残して締めくくれたらと思い、ここで終わりにします。


両親へ
ラグビーという競技に出会わせてくれてありがとう。
朝練の時、バタバタとあわてて出ていくだけなのに、毎日私と同じ時間に起きて玄関で見送ってくれてありがとう。毎週欠かさず試合を見に来てくれてありがとう。
ストレスで圧迫されていた時も、家に帰ると安心できました。部活ばかりの大学生活で、将来のことをろくに考えていないと心配ばかりかけました。引退したら少し考えてみます。

大西さんへ
成長のために部活をするのは嫌と言っておいてなんですが、大西さんと接する中で一番人として鍛えられたと思っています。力不足で、言われたことに応えきれないことも多かったかと思いますが、見捨てずスタッフ長を任せ続けてくださりありがとうございました。楽しいラグビー部生活でした。

一聡さんへ
本当にお世話になりました。部車を手配せず一聡さんの車に荷物乗せてくれませんか?とか帰り駅まで乗せてくれませんか?とか無茶なお願いをしてみたりと、選手のラグビー以外でもスタッフとしても好き勝手頼らせていただいていました。
私の思うかっこいい大人なので、一聡さんみたいな人になれるように、引退後精進していきます。

青山先生へ
役職のついた3年生あたりから、とりあえず青山先生に相談する、というような頼り方ばかりしていました。忙しい中で毎週ミーティングを開いてくださり、また、スタッフ組織をも気にかけてくださり、ありがとうございました。

部活を通じて出会ってくださった皆さんへ
特に主務になってからは、多くの人と接したかと思います。
コーチの皆さん、OB OGの皆さん、練習や試合でお世話になった他チームの皆さん、部活を通じて一番得られたことは人とのつながりだったな、と今感じています。本当にありがとうございました。

関わってくださった先輩へ
自分達が4年生になってから、先輩方の凄さを改めて感じました。2年生の頃の私のように、楽しい!と後輩が無我夢中で部活に没頭できる環境は簡単でないことや、そのキャパの大きさにも驚くばかりです。今年わからないことがあった時に、お仕事中であろう時間にもLINEを飛ばして失礼しました。ご飯に連れて行って激励してくださった先輩方本当にありがとうございました。引退飯も連れて行ってください。

後輩へ
ガツガツたかってくる後輩が多くて、なんだかんだ楽しいし嬉しかったです。
来年試合で活躍を見るのが楽しみです。たいそうなメッセージは残せませんが、みんなが最後のリレー日記で晴々とした内容を書く未来のを楽しみに、応援しています。

同期へ
みんなが同期で、そして一緒にいることが心の底から誇らしかったです。
3年生の時にとにかく辛かった、4年生の1年に心残りがあると言う書き方をしたけれど、こんな最高の同期とラグビーに関われることが幸せで、辞めたいと思ったことは一瞬もなかったです。自分でも不思議なくらいです。ありがとう。引退後も是非会ってください。


最後まで拙い文章で、「文才を得られた」にはなれませんでしたが、お読みいただきありがとうございました。

次は、我らが副将あきおにバトンを渡します。
大きい体に対して言動のギャップがあり、それを私は気に入って「かわいい」と形容していたのですが、お気に召さないようで、しょっちゅう睨まれていました。首脳陣仲間ということで誰よりも高頻度で会っていましたが、特に今年に入ってからは、そのイジられポテンシャルを存分に発揮していて、会う度にちょっかいをかけていた気がします。4年生の部分で書きましたが、いつでもチームのことを考え続けていた寿太郎とあきおのペアを私の中ではベスト首脳陣だったと思っています。本当に尊敬しています。
部内投票では「強い」「怖い」みたいなところでランクインしまくっていましたが、私は「かわいい」に票を入れておきました。これをいうとまた怒られそうです。
可愛さ溢れるあきおですが、グラウンドでの圧倒的実力だけでなく、今年は3月の大怪我直後でもチームのためにとグラウンド外でも動き続けていました。どこかでは弱音を吐けていればいいなと思いますが、少なくとも私の見えるところではずっと強いあきおでした。
私の性格上部員に悩み相談をしたことはほぼゼロですが、あきおには1回だけ「愚痴っていい?」と頼らせてもらったことがありました。その時もなんだかんだそれほどぶちまける勇気はなく終わったので覚えてないと思いますが。同じ授業をとっていたこともあり、課題を丸々教えてもらったのに、なぜか私が1点高かった件はありがとうございました。とにかく助けられまくりでした。
今度はあきおが悩んだ時ぶつかった時、サンドバッグとしてでも使ってください。あきおのご機嫌のためにありったけの食べ物を取り揃えて待ってます。

弱い虫[ラグビー部リレー日記]

 written by 雪竹 創太投稿日時:2024/12/24(火) 20:56

同期のモリゾーからバトンを受け取りました4年の雪竹です。
モリゾーには尊敬すべきことがたくさんあります。まず、頭がいいです。渋谷教育学園渋谷中学高等学校というエリート校を卒業し、部活をやりながらも勉強を極め、皆さんご存知進振りトップの医学部医学科に進みました。正真正銘のエリートです。憧れます。
そして何より強くて優しくてクールな心の持ち主です。本人は覚えてないかもしれませんが、昔「なんやかんや頑張ってると思うよ」と言われたのは嬉しかったです。なのにたまに真顔でズバッと心をえぐる一言を言ってくるクールすぎる一面もあります。
今、ラグビー部の唯一やなところは有る事無い事いろいろいじってくるところだと言っていたのでこれ以上はもう何も言いません。これからも是非仲良くしてください。


最後の日記なので4年間の正直な気持ちを振り返ってみました。暗く、情けない文章になってしまいましたが、温かい心で読んでください。

 

結局4年間で、自分は「ラガーマン」にはなれなかった。

ずっと憧れはあった。試合中、例え雰囲気が落ちても、下を向くことなく周囲を鼓舞し続け、自ら率先して泥臭くて痛くてきついプレーをしてチームを勝利に導くような、ラグビーを楽しむ戦闘民族。練習中だってそう。練習のフォーカスポイントを確認し、考え続けならがら練習に集中し、周囲にも目を配り続け、時には仲間に対して叱責し、チームがあらぬ方向へ行っていたり集中力が欠けているのに気づいたら、声を出して雰囲気を変え、同じ方向にチームを先導するカリスマ的なリーダー。そして、破壊的なキャリーや、青天タックルでチームや応援席の鬱憤とした雰囲気を一気に晴らしてくれるような、そんな誰もが憧れる正真正銘のラガーマン。かっこいいなと思っていた。なりたいなと思っていた。でも自分には到底なれそうもなかった。途中からなれないなと諦めてしまっていた。

 

ずっと、そういう性格だから、向いてないからと言い訳してきた。そして結局そのまま変わることなく、なんだかずっとチームにぶら下がりながら、駒の一つとしてセカセカと働いていただけだった。グラウンドに立ってはいても、どこか自分の心はここにあらずで、ミスしないこと、穴を開けないこと、試合後のミーティングで怒られないようにやり過ごすこと、とはいえ、何もしていないと言われるのも嫌だったからと少しくらいはプレーはしておかないとな、なんてことばかり考えていた。一人でラグビーをしていた。周りを巻き込んでチームの勝利に貢献しようとかなんて考える余裕もなかった。

 

努力してなかったわけじゃない。でもいつも、こんなもんでいいやと勝手に天井を作って辞めてしまっていた気もする。そんな自分に嫌悪感を抱きつつも、それでもどこか逃げてしまっていた気がする。そもそも4年間100%身も心もラグビーに捧げる覚悟があっただろうか。引退を前にして振り返ることが多くなった。

 

_________

 

長い4年間だった。終わってみたら短く感じると聞いていたけど、自分にとってはとても苦しくて長い4年間だった。僕は誰よりも心が弱かったので、何度も本気で辞めようと思ったし、辛いことがほとんどだった。選手としても鳴かず飛ばず。病気や怪我で部には迷惑をかけ続け、4年間練習前や試合前は吐き気でご飯は食べられなかった。知らない人がやってるラグビー自体にそこまで興味がわかず、試合も見ないので結局プロ選手の名前すらも全然覚えられなかった。4年間ラグビーをやり切れたこと自体、軟弱な自分にとっては奇跡に近いことだった。

 

思えば入部理由も希薄だった。新歓の時期、6年間続けた空手を大学でも続けようとルンルン気分で空手部へ行くと、流派も雰囲気も違ってとても落ち込んだのを覚えている。仕方なく空手は道場で続けることにして、何かしらコミュニティには入りたかったから行くあてもなくパンフレットをパラパラ見ていた。すると、たまたま家から近い駒場で週4朝練のみの健康そうな部活を発見し、これなら夕方の空手にも行けるしいいかもと思った。それがラグビー部との出会いだった。その時はラグビーのラの字も知らないし、受験期で知らないスポーツをわざわざテレビで見る習慣もなかったのでワールドカップで盛り上がってたことも知らなかった。

 

何となく新歓に行って、何となくご飯を奢ってもらって、何となく入部届けにサインした。長年の夢だったでかい体が手に入るという甘い誘い文句にフラフラとついて行っただけだったと思う。ラグビー目的ではなく筋トレ環境目的だったかもしれない。サークルと部活の違いも大して理解してなかったので、ラグビー熱だとかスポーツ熱だとかに触発されて入部してるみんなとは違い、覚悟とか決意とかは全くなかった。

 

そんなとんでもなく薄っぺらい理由で入部したため、入って1ヶ月くらいで入部を後悔した。ラグビーというスポーツがどんなものかよく分かってなかったので、なんでこんなきつくて痛いくて苦しいスポーツを選んでしまったのかと自分を恨んだ。しかも自分にはボールを投げるセンスが全くなかったので強度の低いパス練すらも下手くそで恥ずかしかったので嫌だった。経験者はもちろん未経験者でメキメキと上達する同期にずっと劣等感も覚えていたし、ルールを覚えたり、練習について行ったり、他の人のトークを理解するのだけで本当に精一杯だった。すぐ辞めるかもなとも思っていたし、心からラグビーを楽しんでいる同期を見て凄く羨ましかった。

 

最初の頃は楽しいことも多かった。初めてやる筋トレは新鮮でやっぱり楽しかったし、毎日吐くまで米を詰め込む生活はすごく辛かったけど、みんなで2時間以上店に居座っておかわりの量を競争したり、自転車でご飯屋さんを開拓する日々は楽しかった。どんどんとでかくなる体にも達成感を覚えていた。

 

みんなと過ごす日々はたのしくて笑顔でいることが多かったけど、ラグビー自体なかなか好きになれていなかったと思う。沈んだ気持ちで練習に向かう日々が続き、いつしか練習前には嫌すぎて吐き気が止まらなくなった。試合なんて80分もあることを知った時は絶望していたし、練習も週4なんて真っ赤な嘘で、練習週5・筋トレ週3-4と、ほとんどの時間をラグビーに費やすことになり、空手もやめざるを得なくなった。年が明けてから始まったBBCの時期なんて毎日が地獄だった。死ぬほどきつくて毎日朝が来ないことを祈りながら寝て、悪夢をみて、朝が来たことに絶望する日々を送っていた。”HEADS UP”とは名ばかり、青いタックルダミーを下を向きながら押す日々にモチベーションも続かず、何をやっているのかわからなくなって、真剣に同期に辞める相談をしたのもこのときだったと思う。つらかった。BBCが終わったあとのパス練だって、下手くそな自分にとっては恥晒しの時間で苦痛だった。かと言ってパスを上手くなってやろうと意気込んで練習するほどの気持ちの強さや向上心もなかった。疲れすぎて一秒でも早くグラウンドから出たかった。

 

競技的にもラグビー向いていないかもなと、ずーと思いながら過ごしてきた。元々一人でぼんやりと考えながら行動するのが好きだった。というか集団の中で声を掛け合って行動するのが苦手だった。子供の時から色んなスポーツをかじっていたけど、やっぱり続いたのは一人でやる個人競技だった。みんなに対して意見を発信したり、喋ったりすることが苦手で、そもそも頭の回転が遅いので、ラグビー理解度が皆無だったのも相まって何か喋ってもトンチンカンなこと言ってしまう。というよりラグビーやってる時は、目の前の巨体を止めることに必死で喋ることなんて思い浮かばなかった。考えても分からないし。ずっと違和感を抱えつつも、合わないからと投げ出すのもダサいなと思う自分もどこかにはいて、ダラダラとしがみついていた。

 

ただ、そんな感じで感情を殺して惰性で部活をやっていたくせに、2年生になって試合に出ることもぼちぼち増えるにつれ、不思議なもので悔しいという感情を強く感じることは多くなっていった。周りが活躍する中で試合で何もできなかった時は、誰とも喋りたくなくて早めに帰って1人でめちゃくちゃ落ち込んでいたし、メンバーから外された時は、家で泣くほど悔しがっていた。試合に出始めた頃は何とかスタメンからは落ちないようにと、せっかくの期待になんとか応えようと、ビデオを見返しノートとかもいっちょまえに書いてたりもして必死になっていた。ラグビーは嫌なくせに結果だけは欲しがった。ラグビーが好きなのか嫌いなのか、やりたいのかやりたくないのか、自分でもよくわかっていなかった時期だった。

 

でもやっぱりその代わりと言っていいのか、嬉しいことも増えていった。パスを投げようとすれば明後日の方向に飛ばすし、ステップで相手をかわそうとすれば滑ってこけ、タックルも飛び込むだけでずっと外していたりと散々だったので、大西さんにはずっと怒られていた。それでも(というかだからこそ)たまに褒められるとめちゃくちゃ嬉しかったし、今まで怒られていたことはすっかり忘れて、次はもっと頑張って褒めてもらおーとアホみたいに思っていた。半年に1回くらいでる「ナイスや雪竹」の言葉を聞く為だけに必死に頑張っていた気もする。國枝さんの代の先輩達にも練習中はいつも怒られていた気がするけど、なんやかんや期待してくれていたり、ごたつさんや垣内さんにプレーの後にたまに頭叩いてほめてもらえるのはすごく嬉しかった。

 

たまにだけどラグビーが楽しいと思う瞬間も増えていった。特にこの代の最後の京大戦はほんとに楽しかった。負けてしまったけど、國枝さんの50:22からデイビスモールを決めてみんなで抱き合った瞬間は今でも鮮明に覚えている。すごく集中していたから時間が過ぎるのもあっという間だったし、後半は一気に巻き返せたので絶対勝てると思っていた。だから負けたのはほんとに悔しかったし一緒にやってきた大好きな4年の先輩たちがこれでいなくなるのもすごく寂しかった。

 

今まであんまり考えたこと無かったけど、なんでラグビーをやっているのかと聞かれたら、こういう瞬間のためだった。チームの勝利だとか、チームの連携だとかは自分のキャパシティで考えることは全く出来なくて、自分のことでせいいっぱいだったけど、やっぱり練習を積み重ねたことが成果に表れてみんなで喜び合う瞬間はたまらなく嬉しいもんだった。苦しい練習が報われた瞬間はラグビーやっててよかったなと思えた。

 

ただ、よく考えてみると、この時期もただ先輩にぶら下がっていただけで、やっぱり心は成長していなかった気がする。グラウンドではファイティングスピリットを常に持ち、声を張り続ける。グラウンド外でも全てラグビーに捧げ、睡眠、食事、ケアを徹底して、怪我をしない強靭な体を作り、隙間時間は試合も見てラグビーIQを高める。そんなことはできていなかった。

 

3年生はそれが顕著だったと思う。春のBBCは、1年前と違って練習の最後にADがあったから結構毎日楽しくて、去年よりかはいい滑り出しだと思っていた。でもいつからか体調不良を繰り返すようになって、試合は出ず、山中湖合宿や夏合宿はほとんど参加せず、合宿を壊すことにもなってしまった。対抗戦が始まっても脳震盪を繰り返し、全然参加出来ていなかった。気持ちがどんどん落ちていき、パフォーマンスもダメダメだったので安富さんにもずっと怒られていた気がする。本当に迷惑をかけた1年だったし、自分自身もほとんど成長していなかった。

 

だから、4年生になったら今度こそはしっかりと上級生として活躍できるように頑張らないといけない、と思っていた。大西さんはいなくなってしまったけど、心から入替戦に行けると思っていたし、それに少しでも役に経たなければと思っていた。でも空回りすることが多かった気がする。シーズン初っ端に捻挫してから、またしても脳震盪を繰り返し、怪我でちょくちょく休むことが多くなっていった。確かに春はたくさん試合に勝ててチーム全体の自信にはつながった。けど、試合でいいプレーをしたいとは思いつつも、ミスが怖くなって積極的にボールを貰いに行けなくなったりして縮こまってしまうことが多かったし、タックルは今でも飛び込むだけで結局あまり成長できなかった。そんな感じで小さくなっている割にはカードを貰うような試合を壊すプレーをしてしまうこともあったりと上手くいかなかった。たまにいいプレーができてもそれをずっと続けることも出来ず、大事な試合で何も出来ないことが多かった。

 

それでもチーム全体として見れば成長していて、入替戦に行けると心から信じていたから、成蹊、明学、武蔵に負けたのはすごく辛かった。しかもその中で何ら仕事をなしとげていない自分にももっと嫌気がさしていた。ラグビーやる資格ないなって思ってしまってずっと落ち込んでいた。ほんとはみんなみたいに上手くなりたかった。バック5のみんなや、スクラムを最前列で組むフロント達は心から尊敬していた。清和や西久保さんのキャリーも石澤のタックルもすごいもんだった。みんなみたいにはなれなかったなぁ。というかそもそもなろうと全部捧げて努力しようとしていたのかすら怪しい。本気で全て捧げた人だけが結果を求める資格があるのに、自分はなんてわがままだろうか。悔しいと言う資格すらないのではないか。結局対抗戦が終わった後もしょうもない怪我をしてしまい、シーズンは終わりを迎えようとしている。

 

_________

 

こうやって4年間を振り返った時、自分があんまり成長してないことに気づいた。この4年間で得たことはなんだろうか。この日記を書くにあたって考えた。

一つ言えるとしたら物事はたいてい思った通りには行かないという教訓を得たこと。よく、ラグビー部に入っていなかったらどんな大学生活を送っていたかなと考えていた。入学前は当然空手部に入ると思っていたし、せっかく東大に入ったからには意識高めのサークルに入って英語もペラペラになって経済とかにも詳しくなってやるとかなんとか意気込んでいた。バドミントンサークルとかにも入っちゃったりして、ワイワイ楽しく過ごしてやろうとか思っていた。でも、そんな夢はすぐに崩れた。空手部が思ってたのとなんか違って、バドミントンサークルもあんまり馴染めなかった。意識高めのサークルにも行ってみたけど難しい話はすぐに眠くなるし、英会話の本も買ったのに目次しか開かなかった。やっぱり人生は思い通りに行かない。浪人してた時に、大学でやりたいことを数十個まとめて書いていた。今見返したら、筋トレとバイトの2個ぐらいしか達成していなかった。

そして、ラグビー部での経験もそう。入替戦も行けなかったし、かっこいいプレーヤーにもなれなかった。憧れているだけじゃダメだった。身も心も全部捧げないとだめだった。

 

 

寿太郎がシーズン最初に書いたvoiceがある。勝つためには「アスリート」にならなければならない、と書いてあった。正直これを読んだ時はよく意味がわかっていなかったが、今でははっきりと分かる。自分にはラグビーを楽しんで貪欲に勝利を求める純粋さがなかった。寿太郎のいう「趣味でラグビーをやっている人」だったのかもしれない。「ラガーマン」には程遠い。ラグビーが楽しいと思った瞬間をかけがえのないものとしてもっと大切にするべきだった。基本的にラグビーがきついスポーツであるのは当たり前なんだから、そんなことで気を揉むんじゃなくて、もっと楽しいこと、嬉しいことに目を向けるべきだった。そうすれば自分ももっとラグビーを愛して、ラグビーに集中して、「ラガーマン」に少しでも近づけたかもしれない。だから後輩には、特に今もがき苦しんでいる後輩には、ラグビー楽しい、と思った瞬間を思い出して大切にして、後悔のないように全力で取り組んでほしいなと思います。もしそんな瞬間がなかったとしてもきっと来るはずです。こんな自分でもきたので。応援しています。

 

こんな暗いこと言っているけど、もちろん楽しいこと、嬉しいことはたくさんありました。ラグビー外の時間はすごく楽しかったし試合に勝った時はやっぱりすごく気持ちよかった。泣いても笑っても残り1週間。そして残り1試合、京大戦が残っている。なんであろうと最後の京大戦は本当に勝ちたい。出場機会が与えられた時は、全力で走って、最後は勝って、ラグビーやっぱり楽しいなと思いたい。

 

最後になりますが、しょーもない人生しか過ごせていなかった自分にとって、ラグビー部に巡り会い、色んな人と過ごし、ラグビーをしてきた4年間は良くも悪くも本当にいい経験でした。ありがとうございました。

後輩へ
こんな感じの先輩だったので、舐めたことしか言ってこないふざけた奴ばかりだったけどなんやかんや憎めない可愛い存在でした。試合は必ず応援に来ます。頑張ってください。ご飯も頑張って奢ります。

先輩・コーチ陣へ
こんなフニャけた自分を優しく指導してくださってありがとうございます。ジュニコの藤井さんや杉浦さん、國枝さん、西久保さんの代の先輩方も本当にお世話になりました。毎年どんどんいなくなっていき寂しかったです。また遊んでください。そして大西さんには感謝しきれません。いろいろありましたが、この場を借りて感謝申し上げたいと思います。いっそうさん、1年間でしたが、お世話になりました。いっそうさんの独特な雰囲気が好きでした。ありがとうございました。

親へ
迷惑かけっぱなしでした。ご飯食べないといけないから、といつなんどきでもご飯を作らせた割には、もう食べきれないと子供のように残して、後で食べるからとラップして冷蔵庫で腐らせた大学生活でした。本当にごめんなさい。もうこれからはそんなに食べないので、皿洗い頑張ります。

同期へ
いつもおちゃらけた話しかしてないけど、みんなのことはラグビーの面でも勉強面でも人間性の面でも本当に尊敬しています。アホな自分を優しく迎え入れてくれてありがとう。みんなと過ごす時間はかけがえのないものでした。これからもよろしくお願いします。


次は我らが主務の美浦瑶子さんにバトンを渡します。ヨーコはいつでも笑顔で明るい人で、こっちがいくらふざけたことや、適当なことを言っても必ず笑って許してくれる優しいお姉ちゃんみたいな人でした。メンターでもあったので、ずっとお世話になっていましたが、その優しさにずっと甘えていた気もします。世話を焼かせてしまってすみませんでした。主務で忙しいはずなのに、忙しい素振りも一切見せず、いつも笑顔で部に献身してくれました。そんなよーこが4年間何を思い、何を感じたのか、次の日記が楽しみです。
あと、ようこと何かした記憶を探してみましたが、2年生の時、下北で1回だけ先輩たち含めて飲み会をした事しか探し出せなかったです。なんか悲しいのでいつか遊びましょう。

 

いらすとや final[ラグビー部リレー日記]

 written by 森田 明日香投稿日時:2024/12/23(月) 22:30

本多からバトンをもらいました森田です。



溢れんばかりの文才を見せつけられ、次が非常に書きにくいです。

子どもの頃から天才だったとかつてのスモブラで聞きましたが、どうやら本当だったようです。



1年生の頃から先輩たちにその才能を買われてあらゆるセクションに引き抜かれ、特に広報では馬車馬のように働かされてヒーヒー言っていました。



一方、会報は大学生になった彼にとっての梅干しだったのかもしれません。

珍しく手伝ってくれたかと思えば、普段温厚でめったに怒らない本多が細かいパソコン作業に辟易して発狂、後輩スタッフを慄かせる意外な姿も見せてくれました。



日常的に会えなくなるのは寂しいけど、忙しい中でもたまに会ってください。



——



同期のみんなのリレー日記を読み、ラグビーや部活動に対する熱い想いを語れてすごいなぁと一歩引いてみてしまう自分がいます。



この数週間、「もりぞーリレー日記どうするの?何書くの?」といろいろな人に聞かれました。

おそらく私が普段何を考えているか分からず、ラグビー部のことも好きではなさそうだと思われているからだと思います。



あながち間違ってはいません。

正直、自分でもなぜこの部活を4年間続けられたのか不思議です。





私は弱いので部員の誰にも打ち明けられませんでしたが、何度も辞めたいと思ったことがありました。

辞めたいという気持ちを隠して(見透かされていたかもしれませんが)平然と過ごしていたことについては罪悪感を覚えています。申し訳ないです。



辞めたいと思った理由は時期によってさまざまで、ここに書くのも憚られるので、なぜ辞めなかったか、辞められなかったのかを中心に振り返りたいと思います。



——



「辞める勇気がなかった」というのが、1番しっくりくる率直な理由です。



4年間で1番辞めたくなったのは、ちょうど1年前くらいでした。このあたりの記憶がほぼなくなってしまい、何が原因だったのかはよく覚えていません。

でも、1,2年のときは高かった部活へのモチベーションや当事者意識が様々な要因で薄れていき、このときにはほぼ消えかけていたのはたしかです。そして、このときのラグビー部のことはきらいでした。



どうやって辞めることを部員に伝えようか、LINEならどんな文面にしようかと考えるくらいには心が決まっていました。でも、ちょうど代替わりの時期で、色々と忙しそうな同期とチームを前に、話を切り出すタイミングを逃しました。

意外と空気を読んでしまう節があるので、なかなか言い出せず、タイミングを窺っているうちに気がついたら数ヶ月が経っていました。そしてその頃にはもう今年のチームが始動していて、辞めるに辞められない状況になっていました。



いつ辞めようか考えている間、会報のことが浮かびました。



当時スタッフで唯一の会報委員で、1人で大方の仕事を抱えていた中辞めるのはさすがに無責任すぎると思ったし、1度も会報を作ったことがない1年生に丸投げすることになる申し訳なさもとても大きく、辞めるという大きな一歩を踏み出せませんでした。

会報に限らず、他のセクションについても同じような気持ちを抱いていました。



責任感が強いとかそういう綺麗な話ではなく、ただ大胆な決断をする勇気がなかっただけでした。



——



でも、もし100%辞めたい、ラグビー部がきらいだと思っていたら、タイミングを窺うことなどなく、すぐに辞めてしまっていたと思います。

そうならなかったのは、1年の頃にJrコーチが開いてくれたミーティングのおかげだと思っています。


そのミーティングでは、1年生みんなで、学年としての目標と、個人として4年間部活をする"目的"を考えました。目的は、もし万が一目標を達成できなかったとしても、4年間を意味のあるものにするために決める、軸となるものという位置付けでした。



~~

私は昔から飽きっぽい性格で、何かに継続して打ち込んだことがありませんでした。



子どもの頃は、ピアノ、水泳、そろばんなど、今思えば東大生定番の習い事を一通りかじり、それに加えてフィギュアスケート、速読などちょっと特殊な習い事もさせてもらっていました。

でも、どれもそれなりにできるようになった頃には飽きてしまい、飽きたら辞めてまた新しい習い事を始めていました。贅沢な子どもだったと思います。



中学校では、そこそこ足が速くて運動会のリレーが大好きだったことから、陸上部に入りました。

普段はアップを兼ねて学校から代々木公園まで走っていき、公園内やフィールドで軽く練習をし、部活後には先輩にアイスを奢ってもらうなど楽しい時間を過ごしていました。

でも、入部から2ヶ月後の夏合宿で、200mを15本連続で走ることになりました。休めるのは400mトラックの残り200mを歩いて戻る間だけで、3kmをほぼ全力で走るのは本当にきつかったです。

周りが足を痛めたと言って抜けていく中、幸か不幸か怪我をせず、サボる勇気もなかった私は泣きそうになりながら走り続け、限界を迎えました。

そして夏合宿から帰ってきてすぐ、幽霊部員になりました。幽霊部員のまま5年が経ち、そのまま卒業しました。

顧問の先生に退部届をもらいに行くのが気まずいからという情けない理由で、きっぱり部活を辞めることすらできませんでした。

~~



大学では、飽きたらやめる自分、きついことがあると逃げてしまう弱い自分と決別したかったので、私がラグビー部で活動する目的は、もし嫌なことやつらいことがあっても置かれた環境から逃げない自分になること=辞めずに4年間続けること、だと思いました。



ラグビー部で辞めたくなるほどつらいことがあったときは、毎回このことが頭をよぎりました。このまま辞めたら、結局また逃げてしまった、過去の弱い自分から成長できなかったという負い目を感じ続けるんだろうと思いました。



本気で辞めようとしていた1年前も、最後に私を引き留めてくれたのは、この自分の決心だったと思います。



というわけで、ミーティングを企画してくださった藤井さんの代の皆さんには本当に感謝しています。あの時間がなければ、私は今ここにいないと思います。ありがとうございました。



——



また、4年間で何度か出会えた心を揺さぶられるような試合は、やっぱり辞めなくてよかった、この選択は正解だった、と思える瞬間でした。



特に、3年前の対抗戦初戦、上智大学戦は今でも鮮明に覚えています。

試合終了間際に逆転されたあと、ノータイムで國枝さんが再逆転トライを決め、選手たちが抱き合ってよろこんでいるのを目の前で見たとき、ラグビー部に入ってよかったと心から思えました。



ちょうど大学での初めての学期が終わって、部活と医進がおそらく両立しないであろうという厳しい現実に直面し、すこし弱気になっていたときでした。



夏休み前の試験期間中、朝練後に勉強をするため駒場の図書館に向かうと、すでに多くの学生が机に向かっていました。夜練の前に図書館を去るときも、まだほとんどの学生が居残って勉強を続けていました。医進した先輩の体験記には、楽しそうに遊んで過ごすクラスメイトを横目に、一日中図書館にこもって勉強した、と書いてありました。



それに比べて自分は…と思わずにはいられませんでした。

誇張ではなく、キャンパス内の人全員がライバルに見え、内心かなり焦っていました。



でもあの上智戦の劇的なトライは、私のちっぽけな悩みを吹き飛ばすのには十分過ぎるものでした。どんな試合を見ても滅多に動かなかった私の心を、強く掴んでくれました。





これ以降、勉強を理由に部活を辞めたいと思うことは1度もなくなりました。

むしろ、部活という逆境が、限られた時間で効率よく勉強するための原動力にすらなりました。

それに、もし医進できなかったら、周囲からは「部活が忙しいから仕方ない」と同情されることが容易に想像でき、それだけは本当に嫌でした。

部活も勉強も言い訳せずにやってやる、と決意しました。



…と、2年の秋頃まではこのちょっと熱い気持ちのおかげで部活をがんばれていましたが、医進してからの現実はそれほど甘くありませんでした。



授業が全て必修になり、部活に行ける日が少なくなりました。

2年のSセメは、授業抜けをするような履修を組んではいけないという暗黙の了解のもと、全ての練習に参加できていました。部活に行くことが日々の楽しみでした。

それなのに、夏休み後からは授業で朝練を欠席、夜練にも遅刻することになり、部活との距離が急激に広がりました。これを補う努力が足りなかったせいで、どんどん当事者意識が薄れていきました。



そしてこのあとの1年半、部内外で本当にいろいろな経験をし、いろいろな感情を抱きました。



その結果、本気で辞めてしまいたいと思うようになり、身の引き方まで考えるに至りました。



でも、結局辞める勇気がなかったり、4年間辞めずに続けるんだという初心を思い出せたりしたおかげで、なんとか今日を迎えることができました。



特に後半の2年間あまり部に貢献できなかった自分にこんな権利があるのか分かりませんが、京大戦では、またあの上智戦のような景色を見てみたいです。



同期が魂が震えるような試合をしているところを見られるのは、どんなにしあわせなことだろうかと思います。表情に出なくても、ちゃんとこういう気持ちはあります。

ラグビー部のことは、今はすきです。



——



さて、前置きが長くなりすぎましたが、4年間たくさんの思い出をくれた同期のみんなに、感謝を込めていくつかイラストを贈り、最後のリレー日記としたいと思います。



 

あきお



副将のほかSEセクション長の顔も持つあきお。

去年からスタッフ内のプログラミングの仕事をたくさん手伝ってくれて、知識0の私にもいろいろ教えてくれました。ありがとう。

私はあまり被害を被っていませんが、ちょっと汗がくさくていびきがうるさいらしいです。(オブラートに包めませんでした。ごめんね)





 



デル

類まれな言語力とコミュニケーション能力で、たくさんのPEAK生や留学生をラグビー部に連れて来てくれたデル。

デルの明るさには何度も助けられました。ありがとう。

同期で1番ビールが似合う男でもあります。京大戦楽しみにしてるよ!また飲もうね。





 





礒崎

こぼれ球を逃さずトライに繋げる仕事人、礒崎。

1年の時のスモブラでの500円プレゼント企画で、「実用的でないもの」というテーマだったのに1人だけ勘違いして超実用的なマスクをくれたのが今でも忘れられません。

こんなエピソードしかなくてごめん。そこにいるだけでなんか和みました。ありがとう。



 

 



一木

最初は寡黙な感じだったのに、今やすっかり寝坊いじられキャラになってしまった一木。

彼女とのドライブデートの話をうれしそうに教えてくれたのが印象的です。

いつも自然体で、とっても話しやすかったです。ありがとう。







 



おっくん(奥山)

さすがの規律正しさで、将来大物になりそうランキング1位のおっくん。

テーピングをすると、毎回試合後に律儀にありがとうと言ってくれました。

特に今年は試合にも出続けられて、おっくんの素顔もたくさん見られて楽しかったです。ありきたりな言葉だけどやりがいを感じさせてくれました。ありがとう。

穴のあいた靴下を履き続けちゃうギャップもいいと思うよ。







 



小野ちゃん

いつものほほんとしているオールスター小野ちゃん。

スーツの着こなしに貫禄があります。

最初はお互い静かだったけど、今年は色々と本音(たぶん)を話してくれて楽しかったです。ありがとう。

定期を何度も落とすなど、うっかりしているところもまたよかったです。はやくApple Pay試してね。



  



 



デイビス

よく部員の髪を切ってあげている、お兄ちゃん気質のデイビス。

初めて練習に来た日に張り切りすぎて脳振盪になり、くらくらしていたのが遠い昔のことのようです。

当時は英語でラインを送っていたのに、今は都合の悪いときだけ日本語が分からないフリをできるまでに成長し、地頭の良さを感じずにはいられません。

素直なデイビスと話すと心が浄化されました。ありがとう。

レイラちゃんとも末長くお幸せに。









くらら(倉橋)

雨の日に傘をささず、曇りの日にサングラスをかける逆張りくらら。

アメリカ生活の方が長いのに、なぜかイギリス訛りの英語で英国紳士っぷりを見せつけてきます。

くららは部活の同期ではなく友達と思える唯一の存在でした。ありがとう。

日常的に会えなくなるのは寂しいですが、忙しい中でもたまには会ってあげます。







 



スバル

母性本能をくすぐることを自覚し武器にすらしているスバル。

テイクフリーに目がないケチ倹約家で、テーピング節約術のプロ。

ガハハというスバルの豪快な笑い声を聞くといつも元気になれました。ありがとう。

こんなに素直な子がどうやったら育つのか、子育ての秘訣を知りたいとずっと思っていました。







 



りん

部活への熱意に溢れ、新歓力で右に出る者はいないりん。

部のためにレフリーを始め、今年はスタッフ長も引き受けてくれました。

りんのサバサバさには4年間で何度も救われました。ありがとう。

バレンタインやお誕生日会で毎年売り物レベルのお菓子を振る舞ってくれる姿からは想像できないりんの荒々しい言葉遣いは、何度聞いても突っ込まずにはいられませんでした。







 



塩谷

自他共に認める真面目キャラの塩谷。

1年生の頃はザ・優男という感じで非常に話しにくかったですが、意外と人間らしい一面もさらけ出してくれるまでになりました。そんな塩谷と愚痴を言い合うと、なんだか心が軽くなりました。ありがとう。

今年は厄年だったみたいなので、来年は幸あらんことをお祈りしております。









清和

部内の噂をすぐに広める拡声器、清和。

話の面白さはピカイチで、何度も笑わせてもらいました。ありがとう。

ひとの恋愛をネタにするわりに、自分のデートの前にはエピソードトークをたくさん用意しオチまでの構成を練りに練っておく一途な面もあります。

先の自分語りパートでは、清和のアドバイス通り"原体験"を入れてみました。合格ですか?











よーた

私が東大ラグビー部に入るきっかけをくれたよーた。

よーたとは小学校のロボットクラブで出会いました。

それから高校で再会して一緒に花園予選を観に行き、全ての始まりをつくってくれました。ありがとう。

これからも夢に向かってがんばってね。







 





言わずと知れた人気者の辻。

ネトスト力と妄想力は誰にも負けません。あと返信が早くて助かりました。ありがとう。

ところで入部前から熱中していたスタンプラリーは終わりましたか?そろそろ次の台紙に移る頃かな。









にの(二宮)

ラグビー部1の変わり者、にの。

大正時代を思わせるセットアップを着こなすおしゃれな面もありました。

にのはいつも何も言わずにスタッフの片付けや荷物運びを手伝ってくれました。ありがとう。

最近姿を見かけませんが、元気でいてくれたらうれしいです。







 



本多

うどんを2口で食べるプーさん本多。

どんなときも温かく見守ってくれる、大人な本多が同期にいてくれてよかったです。ありがとう。

本多は、そんな成熟した一面に、部室内外を裸でうろつくインモラルさも共存する、バランスのとれたすごい人でした。









よーこ

ラグビー部への愛が人一倍強く、私生活も愛に溢れるよーこ。

去年はスタッフ長、今年は主務として献身的に部をサポートしてくれました。ありがとう。

忙しいはずなのに、いつ来ても部室ですやすや眠っている姿が印象的です。部員とも仲良しで、先輩後輩問わずみんなに慕われていました。

甘々教官とのエピソードまた聞かせてね。







 



雪竹

イケメンなのにどこか抜けたところがある雪竹。

学歴厨を極めており、私が医進したとき1番よろこんでくれたのはなぜか雪竹でした。ありがとう。

年上なのにいつも奢ってとせびられていた気がしますが、来年からは高給取りになるみたいで羨ましいです。

あと、少食のせいでいつも苦しそうに食事をしているので、卒部したら楽しくご飯を食べてほしいです。







 



じゅたろう

アツいという言葉が似合いすぎるキャプテンじゅたろう。

いつの日だったか、2人で歩いていたとき、何気なく「(医学部に行っても)ぜったい辞めるなよ!」と言ってくれたのは本当にうれしかったです。4年間がんばってくれてありがとう。

部活外では赤ちゃん動画のファン仲間でしたが、街にいる子どもたちを遠くからじっと見つめて怪しい視線を送るのだけはやめた方がいいです。

いつか虫嫌いも克服し、楽しみにしていた子育てをできる日が来ることを願っています。

プロテインを飲む人のイラスト









次は雪竹にバトンを渡します。

みんなからいじられ放題の雪竹ですが、たくさんいいところがあります。



まず、アイドルのような顔立ち、スタイルの雪竹は、髪型にもしっかり気を遣っています。おでこが後退していることなんて誰も気付かないようなかわいいヘアスタイル、とても似合っています。



また、練習やウェイトで忙しい中、バイトもがんばっていました。運搬業、週6の家庭教師、隙間時間の単発バイトなど多岐にわたる仕事をしていたそうです。

私をはじめとする多くの部員と違って、親の脛をかじらず自立した生活を送っていているところ、尊敬しています。



ラグビー面では、未経験ながらスイカのスタメンに定着し、自分の頭を犠牲にした猪突猛進タックルを何度もかまして大活躍でした。将来が心配なのでどうぞお大事に。



そして何より、雪竹の1番の魅力は心が綺麗なところだと思います。

名古屋のAMFでリレー日記について話していたら、「紹介は長ければ長いほどうれしいなぁ、できれば人間性を褒めてほしいかなぁ」と言っていたので、ちょっと長めに書いてみました。



この素直さがみんなに愛される秘訣なのでしょう。


 

 



 

Bench Press[ラグビー部リレー日記]

 written by 本多 直人投稿日時:2024/12/21(土) 18:18

辻からバトンを受け取りました、4年の本多です。3年前の京大C戦で1番と3番としてデビューしてから、辻とは多くのスクラムを共に組んできました。先輩たちから、自分たちは「辻の代」だといじられるほど、常に話題の中心にいた辻に、なんやかんやでいつも楽しませてもらった気がします。彼の最後のリレー日記を読んで、こいつ大丈夫なのかと心配になった人もいるかも知れませんが、安心してください。母に買ってもらったアルマーニで全身を包み、怖がりでジェットコースターに乗れず、酔っ払うといつも以上に面倒くさくなる。彼はそんなかわいらしい人間です。誰よりも涙もろく、そして実は誰よりも仲間思いな辻の最後の勇姿を、暖かく見守ってくださると幸いです。





ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー





幼稚園のころ、母が作ってくれるお弁当にはいつも梅干しが入っていた。

とても小さくてカリカリとしたその梅干しは、幼稚園生が食べるにはあまりにも酸っぱく、自分はどうしてもそれを食べることができなかった。昔から食べることが大好きで、「好きな食べ物は?」と聞かれたら、「全部!」と答えるような子供だったけれど、唯一梅干しだけは今も苦手なままだ。

幼稚園では、食べ終わった人は先生のところに弁当箱を見せにいき、空っぽであることを確認してもらうことになっていた。母はいつも「これは殺菌用に入れてるだけだから食べなくていいよ」と言っていたけれど、先生にはそんな言い訳は通用しない。

そこで自分はいつも梅干しを弁当箱の隅に押し込み、他のゴミで蓋をして、隠して先生に見せていた。なぜなら、誰よりも早く弁当を食べ終わることに必死だったからだ。1番になるためには、苦手な梅干しと格闘している時間などなかったのだ。



小さい頃の自分は、なんでもかんでも1番にならないと気が済まなかった。テストの点数はもちろん、楽器の演奏や図画工作だって誰よりもよい評価を貰いたかったし、実際頑張ればある程度そつなくこなすことができた。毎日誰よりも早く給食を食べ終わっていたことは言うまでもない。中学校に入っても、負けず嫌いで出たがりの性格は変わらず、3年間学級委員をやり続け、生徒会にも入った。成績は常に学年トップだったし、国語の課題でやった弁論で学校代表に選ばれたり、美術で作った彫刻が市民ミュージアムに展示されたりしたこともあった。



高校に進学する際にも当然、3年間勉強だけをして終わる気はさらさらなかった。そこで自分が目をつけたのがスポーツだった。中学校でも部活には入っていたが、本気で勝ちにこだわる環境に身を置いたことはまだなかった。偏差値よりも、「文武両道」を掲げる校風に惹かれて川和高校へと進学した。



選んだのは中学校でも入っていたハンドボール部。全国的にも有名な鬼監督の指導のもと、公立高校で未経験者も多い中、毎年県の上位に食い込んでいくチームだった。監督のコネで全国レベルの強豪校とも試合や練習ができる環境が整っており、ここならスポーツでも上を目指すことができると思った。



しかし現実はそう甘くは無かった。



待っていたのは今までに体験したことのない世界。5時に起きて朝練をして、午前中の授業の合間に早弁をして、昼休みに練習して、放課後も夜まで練習して。年末年始の休みは31日と1日だけ。当然授業も寝てばかり。常に監督の怒号が飛び交う中で、自分はただ練習についていくだけで精一杯だった。なかなか試合に出ることもできず、気づけば同期の中で、最も多くの時間をベンチで過ごした選手になっていた。



普通に頑張るだけじゃどうにもならない「スポーツ」という世界。どんなことでも1番になれると思っていた自分に突きつけられた負け組の現実。そんな自分を認めたくない防衛本能からか、悔しい、負けたくないという感情をだんだんと失っていった。そして、ただ日々の練習をこなすことそのものに価値を感じるようになっていった。つらい練習を乗り越えた仲間と馬鹿話をして笑い合う。そんな日常に救いを求めた。あれだけ負けず嫌いだった自分はもうどこにもいなかった。試合に出られなくて感じるのは、悔しさではなく、みんなと同じ場にいられないことに対する、疎外感や寂しさといった諦めにも似た感情だった。



東京大学運動会ラグビー部。

最後の学生生活でもう一度スポーツに打ち込みたい。

新しいことに挑戦し、何かを成し遂げたい。



自分はそんな熱い思いを持って入部を決めたわけでは決してなかった。



高校で部活を引退した時には、つらい練習や惨めな思いはもう懲り懲りだと思っていた。大学ではチャラチャラしたサークルにでも入って、いわゆる「普通」の大学生活を送ろうと考えていた。ただ一方で、「部活」という空間自体は好きだったし、長い時間を共に過ごした仲間と一緒にいることはとても居心地が良かった。結局大学でもそんな環境が恋しくなり、部活に入ることに決めた。ラグビーを選んだのにも大した理由はなく、怠惰な浪人生活でまるまると肥えた身体を見た先輩たちに、才能があるとおだてられたからに過ぎなかった。ラグビー部が強いなんてそれまで聞いたこともなかったし、東大の部活なんて大したことないだろう、自分でもついていけるだろう、そう高を括っていた。



入部してからの生活は楽しかった。常に監督の目を気にしていた高校時代とは違って、のびのびと練習することができた。早食いを極めていた自分にとって、体重を増やすことは苦でもなんでもなかった。個性豊かで面白い同期に恵まれ、充実した日々を過ごしていた。その一方で、いつかまわりに置いて行かれてしまうのではないかという不安もあった。OB、OGによる手厚い支援、美しい人工芝のグラウンド、プロのコーチによる指導。そして、高い志を持った部員たち。入部前に想像していたのとは違い、東大ラグビー部には高い目標を目指すことのできる環境がしっかりと整っていた。そしてなにより、試合に出ることが怖かった。どんな相手にも負けたくない、誰よりも上手くなって活躍したい、そんな気持ちを持たずに入部した自分にとって、重い身体を引きずって走り続けなければいけないラグビーの試合は、ただただ苦しいだけの作業だった。早くスイカを着て試合に出たいと息巻く同期たちの中で、自分は内心、ずっとジュニアの気楽な生活が続いてくれればいいのにと思っていた。



2年生の夏、左膝の前十字靭帯を断裂した。コロナにかかってしまったこともあって手術が遅れ、そこからまるまる1年間DLとしてリハビリ生活を送ることになった。診断結果を伝えられた時のことは今でもはっきりと覚えている。自分の周りだけ時が止まり、音がなくなってしまったような、あの奇妙な感覚を忘れることは、これから先もきっとないだろう。そこからの1年間、DLとしてみんなと異なるタイムラインで部活に参加する中で、自然と、練習後の談笑に混ざったり、一緒に昼飯に行ったりすることが少なくなっていった。ラグビー部の中で、自分の居場所がなくなってしまうのではないかと恐怖を感じた。練習のたびに誰かが怪我をすることを期待している自分がいた。新しくDLに誰かが入るたびに、表面上は心配しながら、心の中では一緒にトレーニングできることを喜んだ。その間は、がむしゃらにバトルロープやワットバイクに打ち込んだ。まわりはそれを見て、頑張ってるなと声をかけてくれたが、むしろ何もせずに練習を見ていることの方が辛かった。少なくとも身体的に自分を追い込んでいる間は余計なことを忘れられたし、一時的な達成感を得ることができた。



その一方で、どこかで安心してしまっている自分もいた。少なくともDLの間は試合に出てしんどい思いをしなくて済んだ。そして怪我をしたことで、逃げるための口実を作ってしまった。未経験者で入部したのに、1年間も遅れをとってしまったら、スイカを着れずに終わってしまっても仕方がないだろう、と。自分の中で、諦めるための大義名分ができてしまっていた。



そんな中でモチベーションになっていたのは、ウエイトトレーニングだった。ラグビーやハンドボールと違って、ウエイトは頑張れば頑張るだけ成長し、すぐに結果として帰ってきた。特にベンチプレスに関しては才能があった。人よりも腕が短い歪んだ骨格はベンチプレスに適しており、2年生の時点ですでに部内で一番の強さになっていた。もしベンチプレスがなかったら、もし膝ではなく上半身の大怪我をしていたら、今の自分はいなかったと思う。対抗戦Bにおいて、そして100年を超える東大ラグビー部の歴史において、自分よりもベンチプレスが強い人間は存在しないだろう。そのことは大きな自信につながった。



3年生の夏、練習に復帰した。当時チームは新ルールに対応するためにシングルタックルを導入しているところで、ブランクのある状態でもすんなりと合流することができた。なにより、久しぶりにみんなと練習ができることが嬉しかった。もう少しだけ頑張ってみるか、そう思った矢先に足首を捻挫した。復帰してから2週間かそこらの出来事だったと思う。それほど重い怪我ではなかったが、その後の夏合宿では1日も練習に参加することができなかった。合宿後に復帰した時には、Bチームにすら自分の名前はなかった。みんながADをしている中、自分はグラウンドの端で1年生とコンタクトの基礎練習をしていた。



対抗戦に向け、それぞれが気持ちを作っている中で、誰にも相談することはできなかったが、当時の自分はプレイヤーを辞めることを真剣に考えていた。S&Cのスタッフになって、4年生になったら主務でもやろうと思っていた。自分にとって試合に出て活躍することなどどうでもよかった。ただこの部活に居場所が欲しかった。プレイヤーではなく、違う道でチームから認められるようになろうと思った。



対抗戦第3戦、成城大学戦。思いがけず転機が訪れた。前節の一橋戦での不運なレッドカードによってあきおが出場停止になり、自分がリザーブに入ることになった。16ヶ月ぶりの復帰試合が、まさかの対抗戦デビュー戦。そんな自分がメンバー入りしなければならないほど、チームのフロントロー不足は深刻だった。5分にも満たない出場時間だったが、5回連続してタックルに入って、プレーに参加することができた。初めてラグビーの試合が楽しいと思った。チームメイトや応援に来てくれていた先輩たちが、おめでとうと声をかけてくれた。初めてもっと試合に出たいと思った。



結果的にこの年は残りの対抗戦全てでメンバー入りをして、日体大戦、武蔵戦ではスタメンとして試合に出ることができた。決して実力で勝ち取ったポジションではなかったし、ついていくのに必死でチームのことを考える余裕などなかったけれど、今できることは全てやろうと思うようになった。もう2度と怪我をしないように、身体のケアを徹底した。睡眠の質を高めるために、1時間前から電子機器を断ち、ストレッチとマッサージの時間にあてるようになった。ラグビー理解力を高めるために、隙間時間で試合を見るようになった。最後の京大戦では、スイカを着て80分間通して出場し、長い部活人生の中で初めて、自分が出た試合で涙を流した。こんな自分を信じてくれたチームに恩返しがしたかった。先輩たちを勝利で送り出したかった。それができない自分が不甲斐なかった。



4年生になって、S&Cセクションの長に就任した。チームの中で自分の明確な役割ができたのは嬉しいことだった。相変わらず試合ではしんどい思いがほとんどだったけれど、スクラムは楽しかった。ウエイトと同じで、スクラムも組めば組むだけ成長し、強くなっていくことを実感できた。大きな怪我もなく、春シーズンは全ての試合にスイカを着て出場することができた。今年のチームならば必ず入替戦に行けると信じていたし、その目標達成のために貢献したいと思っていた。あきおがアキレス腱を断裂した時、自分がその代わりにならなければと思った。せめてあきおが戻ってくるまでの間だけでも、東大の3番を守り続けることが4年生としての責任だと思った。



そんな中で、自分の足を引っ張ったのは、他でもない自分自身だった。今年1年はとにかく自分との戦いだった。



まわりについていくことだけに必死だった去年とは違い、今年は、冷静に自分自身を見つめ直すことのできる時間が増えた。そしてそのことが逆に、現状に満足している自分がいることを気づかせてしまった。高校時代の長いベンチ生活。そして、1年間のDL生活。その時に感じた、疎外感、無力感。もうそんな惨めな思いはしたくない、周りに置いて行かれたくない。それが自分の原動力だった。それは常に、マイナスからゼロを目指す作業だった。負けず嫌いだったあの頃のギラギラした自分は、もう戻ってこなかった。いいプレーをして、チームを勝利に導く。試合に出たその先にある、ゼロからプラスを生み出す行動。そのためのモチベーションの作り方を、自分は思い出すことができなかった。



それまでの部活人生で得たものといえば、自分を納得させるための言い訳作りが上手くなったことだけだった。現実を知り、諦めることを覚え、悪い意味で大人になってしまった。



頭で考える理想に、心がついていかなかった。常に自分の中に、矛盾を抱えていた。今日はいまいち練習に身が入らなかったな、今日はこなすだけのウエイトをしてしまったな、そんなことを思う日が去年よりも多くなった。本当に入替戦にいきたいと思っているのか分からなくなる時があった。鵜木に3番を奪われた時も、やっぱりダメだったかという諦めの気持ちが先行した。チーム状況的に、メンバーから外されることがないことは分かっていた。試合に出ることができるなら、スタメンでもリザーブでもどっちでもいいと思っている自分がいた。



今シーズン、試合に負けて、何度も涙を流した。1点差で敗れた国公立大会決勝の学芸大戦。ターゲットマッチに定めていた山中湖での慶應戦。そして、成蹊戦、明学戦。その度に、チームの勝利に貢献できなかったことへの、不甲斐なさ、申し訳なさでいっぱいになった。怪我で苦しみながらも、試合後にみんなの前に出て言葉を紡ぐ寿太郎の姿を見て、心が引き裂かれそうになった。自分の中のくだらない感情に振り回され、純粋に勝利だけを追い求め続けられないことで、激しい自己嫌悪に陥った。もしかしたら、これらも一種の悔しさと呼ぶことができるのかもしれない。けれど自分はそれをエネルギーに変え、行動に移すことができなかった。そこから目を背け、それまでと変わらない日々に戻るほうが、はるかに楽で簡単だった。





ーーーーーーーーーー





村を一歩出た瞬間からもう捨てたはずだ”平穏”や”安全”なんて・・・!!

毎日命はって生きてるからあいつらは本当に楽しそうに笑うんだ!!

だからおれは海へ出ようと決意した!!

あいつらみたいにめェいっぱい笑いたくて!!

今ここで全力で戦わなかったおれにあいつらと同じ船に乗る資格なんてあるはずもねェ!!!

あいつらと本気で笑い合っていいはずがねェ!!!





漫画ONE PIECEにおける主要キャラの1人、ウソップのあるワンシーンです。



臆病で見栄っ張りで、いつもは逃げてばかりのウソップだけど、仲間がピンチの時には、どんな強大な敵にも立ち向かいます。高校時代に、一度は諦めたスポーツの世界だったけれど、この4年間で、昔の負けず嫌いだった自分を取り戻し、挑戦する楽しさを思い出すことができました。ラグビーの試合は怖かったけれど、仲間のことを思うと、どんな相手にも向かっていくことができました。明学戦で、スクラムペナルティからモールでトライを取って逆転したことは、僕の人生で最高の思い出です。歴史に残る入替戦出場を果たした代の一員になれたことを、とても嬉しく思います。ルフィやゾロにはなれなかったけど、ウソップくらいにはなれたかな。



最後はそんなリレー日記を書くつもりだった。



そんなリレー日記が書きたかった。



けど書けなかった。



すでに最後のリレー日記を書き終えた4年生、そしてこれから書く4年生もきっと、それぞれ形は違えど、ラグビーという競技と、今年の東大ラグビー部というチームに真剣に向き合っていた。自分はいったいどうだっただろうか。



3年末の学年ミーティングで、皆が思いを語る中、それをどこか他人事のように聞いている自分がいなかっただろうか。怪我をすることの苦しさ、試合に出られないつらさを、人一倍知っていたはずなのに、同期や後輩が苦しんでいる時、何か手を差し伸べることができていただろうか。本当の意味でのチームの一員、本当の意味での「仲間」になることができただろうか。そこそこ練習して、ちょろっと試合に出て、あとはみんなとわいわいやってるだけで満足の、ただ自分が傷つかず、楽しければそれでいい、ちっぽげなオナニー野郎にすぎなかったのではないだろうか。



最後の対抗戦になった武蔵戦。入って1本目のスクラムで、自分がコラプシングをして、チームの勢いを止めてしまった。なぜか終わった時には、一滴も涙は流れなかった。その日からずっと、自分に問いかけを繰り返す日々が続いている。



残されたのはあと2戦。このまま引退を迎えてしまえば、これから先も、何も成し遂げることのない、つまらない人生で終わってしまうことだろう。この4年間は、いったい何のための4年間だったのか。その答えの欠片を掴み取るために、走り、当たり、闘う。





ーーーーーーーーーー



 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。思えばこのリレー日記というコンテンツも、4年間の楽しみのひとつでした。自分が書く下品なリレー日記を、少なくともプレイヤーの皆さんには楽しんでいただけたようで嬉しかったです。みんなリレー日記を読むことは好きなのに、書く方になると腰が引けて、ありきたりな文章を書いてしまいがちな傾向があるように思います。自分が書くのはこれで最後になりますが、ぜひこれからも、リレー日記の文化を盛り上げていって欲しいと願っています。



加えてこの場をお借りして、お礼の言葉を述べさせていただきたいと思います。怪我から復帰した自分を厳しく指導してくださった大西さん。どんな試合の後でも固い握手を交わしてくれた一聡さん。いつも熱い檄を飛ばしてくれた青山先生。ウエイトと身体作りの楽しさを教えてくれた太田さん。選手の目線でサポートし続けてくれた原さん。怪我のたびにプレーするための方法を教えてくれた工藤さん。こんな自分を可愛がってくれた先輩方。こんな自分を慕ってくれた後輩たち。応援し続けてくれた家族。とてもここに名前を書き切ることはできませんが、4年間自分に関わってくれた全ての人に、心からの感謝を伝えたいです。本当にありがとうございました。



そして愛すべき同期たち。いつもは照れ臭くて言えないけれど、大好きです。これからも死ぬまで仲良くしてください。



次は我らがスタッフ三銃士の1人、もりぞーにバトンを渡します。会報セクション内で「改革女」の異名を取るもりぞーは、財務やメディカルでもその敏腕を轟かして東大ラグビー部を陰から牛耳っており、その仕事ぶりはOB・OGの方々からも一目置かれていたようです。派手な髪色がトレードマークな見た目とのギャップに、心を撃ち抜かれた部員も少なくないとか。日常的に会えなくなるのは寂しいけど、忙しい中でもたまに会ってください。

 

<<前へ次へ>>

2025年6月

<<前月翌月>>
2025/06/17(火) 17:09
玉ねぎ
2025/06/16(月) 18:00
同期
2025/06/12(木) 02:59
救いたい
2025/06/07(土) 15:15
きらきらスイーツ チルチルライフ
2025/06/07(土) 14:40
免許をとった話
2025/06/03(火) 18:29
おすすめの小説

アーカイブ

ブログ最新記事