ブログ

<<前へ次へ>>

少年は戦士になる[ラグビー部リレー日記]

投稿日時:2022/12/15(木) 12:30

ゲームメイカー原くんからバトンを受け取りました岩下です。原くんと部活前にするラグビートークは色んな情報を教えてもらえて楽しかったし、レフリーって大変なんだなーって常々思ってました。トゥイッケナムで吹く原くんの姿を見るのが楽しみです。いつだったかのアウトレットでのTシャツの借りはいつか返します。
 

後輩に向けて書くのも恥ずかしいし追いコンで話せばいいし、とりあえず自分の13年間のラグビー人生を振り返る。お酒飲んだらモードに入ってしまったため、締め切りのだいぶ前(現在学習院戦翌朝)に書き始めてます。長くなりそうです。
 

小3の春休み、母に東芝のグラウンドへ連れていかれ楕円球と出会った。作られたコミュニティに入るのが苦手だった僕はとにかく辞めたくて仕方なかった。ラグビー自体も痛いしキツいし楽しくなかったし。変に気い使いな僕は親に辞めたいって伝え切れなくて、気づけば中学生になっていた。
中学も本当に嫌で嫌で仕方なかった。当時体が大きかった僕はそこそこ試合で動けてたけど、圧倒的なラグビーセンス、運動神経の差を感じてた。選抜でも全然活躍できなくて、置物のように扱われた。なのに3年でキャプテンに選ばれた。チームを引っ張るとか得意じゃないし、ラグビーも上手くないし、何で僕がキャプテンに選ばれたのかよく分からなかった。センスある子たちが割と揃ってたのに勝てなかった。勝たせることができなかった。選抜も結局骨折して最後のセレクションを受けられず(受けても受かんなかったと思うけど)、微妙な感じで中学ラグビーが終わった。相変わらずラグビーするのは嫌だったけど、ラグビーという競技の素晴らしさに気づき始めていたから、高校で続けることにした。
高校はなんか色々と辛かった。ストレスで白髪もめちゃくちゃ増えた。何度も部活をやめようと思ったし、実際に退部届を出したことも数回あった。高3の春に肩を脱臼し、大学でもラグビーを続けたかったから手術をした。気付けば僕のポジションで他のやつが活躍していて、勉強も成績がなかなか上がらず、一人で沢山抱え込んでしまった。僕のいないチームが数年ぶりに市大会で優勝したことで、僕を繋ぎ止めていた糸が完全に切れ、最後の夏合宿前に退部した。その後悔はずっと消えなくて、僕を引き留めてくれた同期が今でも夢に出てきたりする。プレーするのは楽しいと思えなかったけど競技自体は好きだったから、大学ではラグビーをしようと決めた。
 

大学の4年間もやっぱり辛かった。はじめの3年間も自分やチームのことで思うことがあって勝手に一人で悩んでたけど、今年が4年間で一番堪える一年だった。
去年の京大戦後コーチに呼び出され、プロップへのポジション変更の打診(という名の宣告)をされた。まあ身長高い人がロックやるのがいいだろうと感じてたし、新シーズン頑張ろうと思った。オフシーズンは他大学のプロップと会ったときにコツとか聞いたり、疲労骨折で鈍った下半身の強化に取り組んだ。
あれはいつだったか、慶応合同練の前な気がするし2月の終わりぐらいか。松元に、「後輩が育つまではロックやってもらうけど、対抗戦はプロップの控えで行くから」みたいなことを言われた。衝撃的すぎてなんと言われたか飛んでしまった。シーズン本格化前に対抗戦リザーブが決定。結局4年間ずっと同じ立ち位置、一回も対抗戦でスタメン入ることなかったな。どんなに練習してアピールしても結果が決まっていると思うと、急にモチベーションがなくなった。真面目だからBBCも筋トレもなんとかやってたけど、部の雰囲気の気持ち悪さとか就活のストレスとか色々あって3月の終わりに数年ぶりに体調崩して、4年間で初めて部活を休んだ。高校と同じ後悔をするのが嫌って気持ちだけで続けてたけど、トレーニングしたって意味ないしなってあの時期は正直思ってた。
転機は京王線沿い某強豪大学との練習試合。色々あってその日はスタートのロックで出場した。本当にダメダメで、これで僕のロック人生終わりそうだなと思いながら帰った。しかし翌練習のミーティング、コーチから珍しく褒められた。その試合から導入されたGPSのデータが良かったらしい。いつも通りのプレーだったのに急に評価が変わり、なんで今まで評価してくれなかったんだよとは思ったけど、一筋の光が見えたような気がして嬉しかった。
そこからは安定して試合に出るようになったが、チームは勝てなかった。山梨合宿で自信をつけて東京に戻ったが、直後の明大戦は1トライもできずに大敗、早稲田戦でも敵陣入ってもトライ取り切れずに結局惨敗。FWからビッグプレーが生まれなくて、いかに今まで松元に頼りきってたかを痛感した。僕がその状況を変えることはできず、自分がチームにとってプラスにならないことに焦りや不甲斐なさを感じた。コロナで国公立大会を棄権した時には、このまま春シーズン勝てないんじゃないか、暗いシーズンを送ってしまうんじゃないかと考えて怖かった。だから防衛に勝った時は本当に嬉しかったし、そこからしっかりと勝ち続けてチームの雰囲気も悪くならなくてホッと一安心だった。
夏オフが明けてからは不安との戦いだった。チームとしても個人としても不安要素は挙げればキリがないほど出てきた。一次合宿の合同練習は割といいイメージがあったけど慶應戦でFWの力不足体力不足が露呈。二次合宿は合同練習でも結構やられるシーンが目立ち、立教との試合もスクラムとモールが崩壊して何もできなかった。残りの合宿期間で修正したかったが一週間ほどの日程を残して合宿は中断。東京に戻ってからの練習は何だか気が抜けてて、自分もパフォーマンスが上がらなかった。自分の4年間の価値が決まると思うと、本当に怖くて、上智戦前は気持ち悪くて仕方なかった。
迎えた対抗戦。一橋に負けた。ターゲットにしていた成蹊戦、明学戦も勝てなかった。あっという間に3ヶ月が過ぎていき、学習院に締まらない試合をして最後の対抗戦が終わった。4勝3敗。東大ラグビー部の新たな歴史を作ることはできなかった。僕たちがプレーに集中できるようスタッフや首脳陣のみんなは動いてて、彼彼女らに申し訳ないし、これだけお膳立てされても結果を残せなかった自分が情けない。
 

大学の4年間でラグビー楽しくなるかなと思ってたけど、結局最後まで(あと2試合残っているが)楽しんでラグビーやることはできなかった。試合中に考えるのは、自分のミスに対する怖さとか試合の結果に対する怖さとかネガティブなことばかりで、目の前の勝負に対するワクワクとか強い相手に挑める高揚感とかそういったことは微塵も感じられなかった。自分が一番活躍してやる!みたいなことも一度も思ったことがない。モールとかスクラムで押してFWみんなで抱き合う時とか、ジャッカルが決まって部員の声が聞こえる時とか、試合中に喜びを感じられる瞬間はあった。でもそれは自分の恐怖が少し消えるから嬉しいだけであって、心の奥底からワクワクして楽しんだ試合はこの4年間で一度もなかった。

人生のどの局面も勝利をもたらすのは、遺伝的要素よりも闘争心と戦う能力であることの方が大きい。戦う能力を備え持つものもいれば、後に手に入るものもいる。そのスポーツを愛してやまなければいずれ必要なものは整うのである。

春合宿のMTGで大西さんが言った言葉だが、この言葉がずっと頭から離れない。
生来の戦士でない僕は、なんとかして戦士にならないとダメだった。逃げ癖や頑張りきれないという自分の性格は高校ラグビーや受験を通して分かっていたし、一つ一つの勝負に熱くなれないことにもラグビー部で過ごす中で気がついた。そんな自分の弱さを4年間で変えることは出来なかった。もちろんこの4年間は真剣にラグビーと向き合ったと思う。高校までとは比べものにならないくらい体づくりにこだわり、戦術的なこともしっかりと勉強するようになった。だけど、もっと根本の部分、戦う人間としての気持ちを変えることができなかった。だから最後まで目の前の勝負に対するワクワクを感じられなかったし、この程度のラグビー選手で終わってしまったんだろう。結局ラグビーは「気持ち」のスポーツだった。
僕は弱いラガーマンだったし、そもそも弱い人間なんだと思う。幸いなことにラグビー人生はまだ2試合残っている。最後くらいは自分の弱さと向き合い、自分に勝ってラグビー人生に一区切りつけたい。
 

23人の同期のみんな。あんま普段言えないけど、本当に大好きです。みんなと一緒にラグビーできたこと、ラグビー部で過ごした4年間は一生の宝物です。4年間ありがとう。
僕と同じチームになった全ての方々。一緒にラグビーができて楽しかったです。体をぶつけ楕円球を追った日々は大切な思い出です。
 

ここまでの13年間で僕を指導してくださった全ての皆様。本当にありがとうございました。この4年間だけでも青山監督、深津さん、大西さんをはじめ、本当に多くの監督・コーチに出会いました。ラグビーで学んだこと、みなさんからかけていただいた言葉を胸にこの先の人生を歩んでいきたいと思います。
 

ママが支えてくれなかったらここまでラグビーだけに集中した4年間、13年間は過ごせなかったです。本当にありがとう。パパもいつも試合の結果を気にしてくれて嬉しかったです。いつか僕のプレーを見せれる日が来たら嬉しいです。
 

13年間の中で僕のことを支えてくださった全ての人に感謝申し上げます。結果で恩返しできなくて本当に申し訳ないです。
 


追記 2022/12/14
高校までの僕はとにかく自分が嫌いで幸せなんて感じられないやつだった。大学の4年間も弱い自分を変えることができず後悔ばかりが残る。だけど、そんな自分をほんの少しだけど受け入れられるようになって、出来ないことだけじゃなく自分が出来ることにも目を向けられるようになった。色んな人とと出会い過ごしたこの4年間、ほとんど結果を残せなかったけど少しはチームに貢献できたこの4年間、負けて泣いて勝って抱き合ったこの4年間、本当に幸せな時間だった。幸せを知らず自分のことが嫌いだった僕が少しだけど変われたっていうだけで、ラグビー部での4年間は僕にとっては大きな意味を持つんだと思う。東大ラグビー部に入って良かったです。



13年間を振り返ると辛いことがほとんどだったし後悔ばかりの日々だった。楽しんでラグビーするなんて一回もできなかった。だけどラグビーというスポーツに出会えて本当に良かったと心から思える。これから先の人生、少しずつラグビーに恩返しをしていきたい。
 

次はマネジメント方面で部を支えてくれたゆきちゃんにバトンを回します。ゆきちゃんとは会報委員やインターンで一緒に作業することが多く、彼女の優秀さを間近に感じていました。日本を変えてくださるとのことなので、楽しみに待ってます。

10+α[ラグビー部リレー日記]

投稿日時:2022/12/14(水) 13:00

えのきからバトンを受け取りました原です。この部の広報は4年前から大きく変化した部分の一つだと思いますが、その立役者は間違いなくえのきです。この部にいてこの部の良さを改めて実感できました。ありがとう。そんなえのき自身も今年は歌手デビューにMVデビュー、ラジオデビューとかなり体を張ってこの部のために頑張っていました。100周年記念ドキュメンタリービデオと併せてぜひご覧ください。去年のスモブラできていなかった気がするので引退したらやりましょう。

最後のリレー日記となりました。中学生で始めた時から今までのラグビー人生を振り返ろうかとも思いましたが、これからも僕のラグビー人生は続く(気がする)ので終わるときに改めて振り返ろうと思います。現時点で一つ言えることはラグビーに関わることができてよかったと心から思えることです。ラグビーは1人では絶対にできないし、プレーヤー以外も多くの方々の支えがあって初めてできるスポーツなので周りの人に感謝です。

4回目の対抗戦が終わった今、大学ラグビーについて思うことを。

勝ってたくさんいい思いをさせて貰えました。順位も4年間で右肩上がりに上がり、自分も多くの貴重な経験をさせてもらいました。1年生のときの最終戦・一橋戦での終盤のハラハラした時間帯を凌いであげた熊谷での勝利、コロナ禍で少ない試合ながらもあの年のラグビーを完成させた2年前の名古屋戦、去年の秩父宮での京大戦の劇的な逆転勝利、今年の対抗戦での4勝。

でも思い出すのは勝った試合よりも負けた試合です。

1点差の敗戦。2点差の敗戦。記憶は美化されるはずなのに、苦い思い出として留まり続けています。「ラグビー部にいる理由」なんてことはこの4年間で何度も聞かれたけど、「勝っていい思いをする」これ以上でも以下でもないと思うんです。なのに、思い出すのは負けた試合後のお通夜のようなチームの雰囲気と整理のつかないあの感情。

東大ラグビー部に入部した時と比べて自分の中で大きく変化したのは試合に「勝ちたい」から「勝ってほしい」に変わったことです。語弊があるかもしれませんが、これが今の自分の偽らざる感情です。2年生の対抗戦が転機でした。自分が頑張ってもチームの結果に直結しない。むしろ頑張れば頑張るほどチームにとって良くないんじゃないかといった錯覚に陥りました。結局、プレーヤーが中心です。どこまで行っても試合の主役はプレーヤーだし、そうあるべきだと思います。

とはいっても、やれることはやったという自負はあります。レフリングのトレンドは対抗戦Bグループ最速で伝えてきました。外のラグビーもかなり勉強しました。レフリーとして様々な経験をすることがチームへの一番の貢献と考え、チームに還元することを一番に考えて4年間過ごしてきたつもりです。やってきたことは間違いではなかったと胸を張って言えます。だからこそ負けたときは責任を感じたし、反省もしました。

勝敗は選手のものというある種の諦念と自責を果たしたという自負からくるある種の期待。ほかのどのチームに対しても抱かない感情でこのチームに携われて幸せでした。

今年は、中学・高校・大学と様々なカテゴリーでラストゲームをマッチオフィシャルとして担当させていただく機会に恵まれました。大学ラグビーは中学・高校に比べると得点差と実力差の乖離が小さい、つまり、実力が得点や失点となってよくあらわれると僕は考えています。これはスクラムのルールやフィジカルの違いが大きな原因です。だからこそ、大学ラグビーはいい準備をできたかどうかが勝敗のカギを握ると思います。いい準備というのは前日など直前のことだけではなくその年の春シーズンや前のシーズンも関係してきます。ひいては選手個人の人生も試合を決める重要な要素となります。そうしたバックグラウンドにスポットライトを当ててみるとまた違った面白さが楽しめる。しかもそれだけではなくラストゲームには思いも上乗せされる。印象的なゲームになることが多いです。だからこそ大学ラグビーは多くのファンがいるのかもしれません。

このチームのラストゲームはあと10日後です。


お読みいただきありがとうございました。
最後になりますが、レフリー活動を快く送り出していただいたチームの皆さんありがとうございました。大学入学時には想像もしなかった景色を見ることができました。家族も遠くから応援しているのが伝わってきてうれしかったです。ありがとう。
目の前のことを楽しむ人生をこれからも歩みたいと思います。

次は、ラグビー中もラグビー外でもワークレートの高い岩下に回します。
今年の対抗戦は岩下抜きには考えられないほど深いラグビー理解と強靭なフィジカルで大活躍でした。グラウンド外でも分析やプログラミングで大活躍でした。後輩思いな一面もある素晴らしい4年生だと思います。
そういえばこの代で最初に僕がLINEを追加したのは岩下でした。僕の高校時代のチームメートが岩下とつながっていたためです。ラグビー界ってやっぱり狭いですよね。

わたしの置かれた場所[ラグビー部リレー日記]

投稿日時:2022/12/13(火) 17:00

修蔵からバトンを受け取りました、4年スタッフの榎園琴音です。修蔵とは、1年生の秋にほぼ喋ったことがない中、2人で試合の偵察に送り込まれたことが懐かしいです。お互いのことを知らなすぎて逆に話すことしかなかったというのもありますが、1日を通して居心地の悪さや気まずさを感じることが全くなく、意外な嬉しさを感じたことを覚えています。その後、部活で話す頻度はさほど高くなかったものの、修蔵も言っているように今年はちょくちょく遊ぶ機会に恵まれ、毎度楽しい時間を過ごさせていただきました。修蔵に対してなぜかいつも必要以上に自己開示してしまうのですが、よければまた色々と話を聞いてください。
 

来年の春に社会に出る予定ですが、別段記者になるわけでもなく、期限に迫られて一般に発信する長い文章を書く機会は今後当分なさそうです。入部当初から今日に至るまで、ラグビー部のリレー日記という文化がわたしにとってとても愛おしく、大切なものでした。最後までお読みいただけますと幸いです。
 

結局のところ、ラグビー部のスタッフって、わたしには難しかったなあ。

そんなことを考えながら、残り数回となった部活に日々足を運んでいます。

思えば、生まれてから大学に入学するまでの間、わたしの人生にはラグビーのラの字もあったことがなく、ラグビー選手にスクラムを組む人とそうでない人がいることすら知りませんでした。

入学直前の3月末。テント列の出口でフロントのプレイヤーの巨体に進路を絶たれ、その誘いに根負けして奢り飯に連れて行かれた。そこから全てが始まりました。

新歓期間の自分なりの葛藤を経ていざラグビー部という場所に身を置いてみれば、程度の差こそあれラグビーとの深い関わりの中で生きてきた人との出会いが数多くあって、世の中には物心ついた頃からラグビーがある環境でしか生きてこなかった人すらいることを知りました。

そうした人たちとの出会いを新鮮に感じ、彼らとの関わりが自分の人生に生まれ、同志になる機会を与えられたことを喜ばしく思っていたあの春から4年経ち振り返る今思うのは、彼らと同じ魂を抱いて過ごせた日々では必ずしもなかったということです。

ラグビーというスポーツへの理解は最後まで追いつかなかったし、理解する姿勢も足りませんでした。ラグビー部のスタッフをしていると、わたしが「ラグビーが大好き」であるという、当たり前のような前提をもって話を振られることが多くありますが、そう形容される自分はあまりしっくり来ませんでした。

他者の勝敗を自分のものとして捉えるということがどうしてもうまくできませんでした。私が勝利を全身全霊で望んでいた時、結局その感情は「勝ちたい」ではなく「勝ってほしい」に過ぎませんでした。その対象も、自分になんらかの還元をもたらしてくれて、個人的に強い信頼や敬愛の念を覚えた数名に過ぎませんでした。

巷で話題の東京大学の女子学生率よりもさらに低い数値、15%前後の女子部員率には最後まで順応できませんでした。そんなの入る前からわかっていたことじゃないかと言われたらそれまでなのですが、女子校を卒業した後、全く新しい環境に飛び込んでみたくもあったし、なんとなくうまくやっていけそうな気もしたのです。結局、仲が良いと自信を持って言えるプレイヤーは数えるほどしかできなかったし、部室にいると今でもたまに疎外感を感じます。

苦しみは自分自身の個人的な事象にだけではなくて、構造自体に対しても存在しました。男性のみから成る選手と、女性大多数のスタッフ。大学に入り、授業で性役割分業や女性がこれまで歩んだ歴史を改めて学ぶと、自身が選んだこのスタッフという役割にもそれらの産物たる側面があると思わずにはいられませんでした。同時に、そうした構造の構築に加担している自分への嫌悪感も4年間うっすらと抱え続けていました。ラグビー部に限った話ではないですが、どんな要因があるにせよこのスタッフの男女比というものは異常かつ何かしらの弊害を伴っているのではないかと思っており、今書いている卒論もそんなことをテーマに設定しています。

元々の自分の性格に上記のような感情も相まって、「他者を支える」という、スタッフをしているとどこかで必ず要求される役回りがとても嫌いだったし、自分の中でうまく噛み砕くことができませんでした。性格のみならず、自分の特性のことを考えてみても、人のことを考えて動くといったことは全くもって向いていませんでした。

様々な視点の中に、簡単には形容できないそれぞれの苦しみや悲しみ、怒り、悔しさ、やるせなさ、違和感、劣等感など様々な感情があり、じゃあそれらはわたしの人生における自己成長のために絶対に必要なものだったのかと言われると、素直には頷けないものも多いです。

今のわたしには、この東大ラグビー部という組織との出会いを「運命」などという単純で甘美な言葉では片付けられません。

なぜこの組織に吸い寄せられたかも、4年間自分がこの組織にいるべきだったのかどうかも、今のこのぐちゃぐちゃな感情では到底達観して説明できないです。ただ一つだけ言えるのは、今4年前に戻れるなら、絶対に東大ラグビー部には入部しないということです。
 

じゃあお前にとってラグビー部での4年間は無駄だったのか、と言われるとそうは言い切れないから今こんなにも感情がぐちゃぐちゃになっているのです。

これは自慢のように響くかもしれないし、正直な話いくらかその意味合いもあるのだけれど、あるOBの方に先日「あなたは今年の広報をよくやったと思っている」と言っていただき、ああこれでよかったのだと、安堵に似た感情を抱きました。

これでよかったのだ。

全部最初からやり直せるとしたらそうはしていないかもしれないけれど、目の前にある今この瞬間を最大限一生懸命に生きたからこそ辿りついた境地や感覚というものが、これまで部活を続けて来る上で幾度もありました。そしてそれを作り出してくれたのは、大体の場合広報でした。

ラグビー部の広報には常に、わたしのやりたい何か、わたしをワクワクさせる何か、わたしを突き動かす何かがありました。それらにひとつひとつ取り組んでいるうちに4年間が終わろうとしています。

取り組んだ個々のものをここで振り返ることにあまり意味は感じないし、書き連ねたものをジットリと眺めていたら、なんだか1人で自己満足に陥ってしまいそうでやめておきます。それではそれらの取り組みの動機は何だったのかというと、人様に胸を張って言える美しいものから、この部に自分が存在する意義をなんとか作り出さなくてはいけないという焦りや、自分が作り上げたものを人に肯定されて自尊心を保ちたいという虚栄心など、利己的なものまで様々でした。

けれど、動機はなんであれ、一つ一つの取り組みにはこの部にとって何かしらの価値があったのではないかと思うし、何よりやっている自分がいちばん強く価値を感じていました。

初めは、2学年上の先輩スタッフであり、この部の広報の創設者であるともかさんの主体的な仕事ぶりを見て「なんだか楽しそう」と思っていただけでした。

当時、広報は部にとって「最悪なくても良いもの」であり、その中で目的意識を持って価値を発揮することが大切だというようなことが言われていました。広報がなくてもラグビー部という組織はなくならずに動いていくし、ラグビー部でラグビーをすることはできる。
わたしも確かにそうだと思ったし、でも1年生の終わり頃から実際に広報の仕事をやってみて、そこにあるものをあるがままに言葉にする作業や、新しい何かを企画して形にする作業はとても自分に合っていたしやはり楽しかったから、なくても良いものに取り組むのもなかなか悪くないぞなどと思っていました。

気持ちが変わり始めたのは3年生になってからだったでしょうか。
1つ上にスタッフがいなかったから、3年生から2年間も広報責任者を務めさせていただきました。元来行きあたりばったりな性格のわたしには、最も決定力のある立場で過ごせたこの2シーズンという時間はとてもありがたく、焦ることなくああでもないこうでもないと色々考えることができたし、その中で立場や考えも少しずつ変化していきました。

OBOGの方、保護者の方、ファンの方など外部の方との関わりが増え、昨年は創部100周年を受けた記念事業にも関わらせていただきました。その中で感じたのは、楽しさよりも、自分のつまらないプライドよりも「使命感」でした。

自分が直接関わっている訳ではないものにお金を払い、支援しようと思うこと。時間を割いて試合を見に行こうと思うこと。決して当たり前だと思ってはいけないことではないかと思いました。東大は強豪ではないからそうした方の数もある程度限られてはいて、けれどだからこそ大切にしたいし、そしてその人たちがこのラグビー部という組織の現状に関心を持っているのなら、その需要に応えるべく情報発信を行っていく義務があると思いました。

そして、100年の歴史やその中でこの組織が培ってきたアイデンティティを振り返った時、これは必ずや受け継いでいくべきものだと思いました。
この歴史が、歩みが埋もれないよう、そして先人たちに恥じぬように組織の力をさらに高め、広げ、次に繋げる努力をするのが、歴史ある組織に属す者の任務だと。

自分にしかできない仕事などこの世にいくらも存在しないと思っているので、上記が「わたしでなければできなかった」などと言うつもりは毛頭ありません。けれど、去年今年と、それを先頭に立って遂行する立場にあったのは他でもないわたしで、わたしはその遂行に意義を感じていました。

だから、投げ出すことなくここまでやって来られたのだと思います。

特に、3年生の9月~4年生の3月にかけて、広報セクション総出で半年がかりで作成した100周年記念ドキュメンタリービデオは、この部のスタッフとしては珍しく、部活を理由に現役での就活を諦めそうになるほどの時間と労力と胆力を要するものでしたが、同時に、部活を理由に就活を諦めても後悔しないと当時本気で思えたほど、大きな価値を感じながら真剣に取り組めたものでした。きっと、わたしにとって一生の誇りです。

同時に、広報に取り組む上では取り組んだ分だけの美しい景色を見させていただきました。

コロナの影響を受け2年生の時にグラウンドから消え失せた観客を、4年生になって、やっと再び制限なしで迎えることができるようになりました。わたしが作ったグッズで緑色に染まる観客席。

対抗戦初戦の上智戦では、長きにわたって東大ラグビー部をみつめ続けた、東京大学ラグビー倶楽部 山田会長に、「駒場史上最も多い観客だった」とのお言葉をいただきました。

そしてA戦では、愛に溢れた差し入れを両手で抱えきれないほどいただくようになりました。

他にも感動はそこかしこにありました。
それは、メールやSNSでの文字上で、電話での音声で、そして試合会場で。
普段から会っているわけではなく、ひょっとすると名前と顔が一致することもなく終わる関係性。それがわたしの活力でした。

日本の躍進に大盛り上がりし、現在大詰めを迎えているサッカーワールドカップでは、スペイン戦での逆転シュートが決まった直後、拳を天に突き上げ男泣きに泣くサポーターが「涙腺ニキ」として話題になりました。その映像を見て、気づけばわたしも泣いていました。

理由をうまく説明することはできないのだけれど、何かを応援するという感情に触れることがわたしはどうしようもなく好きで、それができるのがこの部の広報でした。

ただそれだけではなくて、所属する組織にあるものをあるがままに、しかし魅力的に伝えるという作業への興味、もっとできるようになりたいという想いは尽きず、将来社会のどこかで企業広報に携わるという夢もできました。

部活がどうしようもなくしんどくなった時、何かに失望して東大ラグビー部を嫌いだと思った時、もうこんなことはやめて他の組織の広報がしたいな、と思ったこともあります。実際、この部活である必要はどこにもなかったのでしょう。1年生に戻ったら入る気はないのだし。もしかしたら広報である必要もなかったのかもしれないです。良いようなことばかり書いてきましたが、広報に付随する、人とこまめにコミュニケーションを取ったり地道な確認を行ったりといった作業は別に最後まで苦しかったし、できることならいつでも逃げ出したいものでした。

けれど、東京大学で過ごした4年という年月の間わたしがいたのはやはり東大ラグビー部で、そこでわたしが向き合っていたのも東大ラグビー部を応援する人たちでした。

新歓期に葛藤を経て入部したと冒頭で述べましたが、今思えば当時のわたしはこのラグビー部という組織をあまりに狭い視野で捉えており、一人前に葛藤しているようで実はほぼ何も考えられていなかったのではないか、と折に触れて思います。

けれど、その過程が何であれ、わたしは確かに1年生の春に東大ラグビー部に入部しました。何に導かれたにせよ、正しいと信じたその判断がたとえどれほど愚かで後悔を伴うものだったとしても、わたしが選んだのは他のどの組織でもなく、東大ラグビー部でした。

結局、わたしには東大ラグビー部しかなかったのです。

「置かれた場所で咲きなさい」という言葉があります。

東京大学で与えられたこの土壌での4年間で、豪華絢爛ではないかもしれないし、満開でもないかもしれないけれど、わたしなりの色の花を開花させられたのではないかと思います。

これでよかったのだ。

何かを残し、得られたという確信を持って、この部を卒業したいと思います。
 

感謝を伝えたい方がたくさんいます。

OBOGの皆様、保護者の皆様、ラグビー部を応援してくださる全ての皆様
日頃より厚いご支援を賜り、心より感謝申し上げます。
皆様と関われる時間がとても好きでした。時たま日頃の業務への感謝をお伝えいただく機会に恵まれましたが、私の方こそいつも皆様に支えられていましたし、皆様の存在がなければどこかで潰れていたかもしれません。
4年という長い時間の中で思いがけない出会いと繋がりをいくつもいただき、引退したら個人的に報告したい方が何人もいます。入部した時には想像すらできなかったことです。幸せなことです。

特に執行部会の皆様には本当にお世話になりました。3年生の後半から100周年事業絡みでコンタクトを取ることが増えましたが、私に常識が欠けていても、何だか詰めが甘くまとまりのないことを言っていても、常に温かくご指導いただき、助けていただきました。
来春から社会人になる身として、こうありたいと思う一面をお持ちの方がたくさんいらっしゃいます。

青山先生、大西さん、深津さん、コーチ陣の皆様
何度失敗しても、期待に応えられなくても、必ず現役の味方であり続けてくださりありがとうございました。学生主体とはいっても結局最後は大人の力に頼らざるをえない存在でしたが、未熟な私達をご指導くださりありがとうございました。

先輩、同期、後輩の皆様
わたしにとってこの東大ラグビー部という場所は、今まで過ごしてきたどの環境とも違う非常に特異な環境でしたが、その中で常に色々な刺激があり、飽きることがありませんでした。時間をかけて向き合っていただいた方もたくさんいらっしゃいます。大変お世話になりました。

特にスタッフの皆様
この部のスタッフは皆真っ直ぐで、より良い何かをしたいという想いに溢れていると思います。学年を問わずどの人にも、尊敬できる何かがありました。
後輩の皆さんは来年大きな変化に直面すると思いますが、好きなように仕事を進められる喜びは格別です。伸び伸びと前向きに乗り越えていってください。

ともかさん
先日、ともかさんの最後のリレー日記を改めて読み直して胸が締め付けられました。
低学年の頃から一から積み上げてきた広報の集大成である最後の1年が、2020年というコロナとの闘いの1年に重なり、どれほど悔しかったでしょうか。
けれどこの2年間で、ともかさんが種を蒔き水を遣ってきたものが花開いていくという感覚を幾度も持ちました。
ともかさんの「この部に広報の体制を構築したい」という想い。コロナ禍でも常に前向きに、今できる最大限の、そして最も新しい広報を続けた姿。あまりにへなちょこなわたしを忍耐強くご指導くださった日々。2年生で部活をやめようとしていた私へかけてくださった「琴音ちゃんがいなくなったらこの部の広報は終わる」という言葉。全てがあってこその、その後のわたしの2年間でした。本当にありがとうございました。来年以降は、頼れる後輩たちが広報を受け継ぎ、さらに広げてくれます。

家族へ
受験期の闘いを経て、大学入学後はゆっくりできると思いきやこんなことになり、さぞかし驚いたことと思います。
当初は反対もされましたし、おっしゃる通りスタッフは向いていませんでした。とんでもない早朝に起きてはゴソゴソ、日付を超えた遅くに帰ってきてはゴソゴソと終始ご迷惑をおかけしましたが、というか現在進行形でご迷惑をおかけしていますが、見守ってくれてありがとうございます。来春に家を出ることに免じてあと2週間ご容赦ください。ぴょるちゃん(犬)も、春休みはたくさんお散歩に行きましょう。

そして、わたしに寄り添ってくださった全ての皆様
4年間を通して、様々な方がわたしを支えてくださいました。時に泣き喚き、時に言葉もなく気落ちし、時に怒り狂うわたしをなだめ、前向きな言葉で後押しをしてくださいました。ありがとうございました。まだまだ半人前な存在ではありますが、少しずつ誰かに何かをお返しできるような優しい人間になりたいです。

これほどまでにたくさんの方の力を感じた経験は未だかつてありません。本当にありがとうございました。
 

次は、東大ラグビー部の生き字引たる学生レフリー、そしてスタッフの原くんにバトンを渡します。入部時の寡黙なイメージとは裏腹に、実はおしゃべりな人だったため高学年になってからはわりかしたくさん話しました。しかし口下手な側面もあり、何を言っているのかよくわからないところをぐっと堪えながら話を聞いていたところ、かなり的を得たことを言っているのに気づき、ほう、と思うことも多々ありました。わたしは4年間を通して常に何かに追われ焦っていたので、常に精神的余裕があり、仕事を頼まれても嫌な顔をせずに引き受けたのちそつなくこなせるところをとてもリスペクトしています。部旗の件などはありがとうございました。
結構誉めたので最後に一点だけ苦言を呈させていただきますが、練習前後のスタッフの仕事はもうちょいやっていただけないものでしょうか。待ってます。

ラグビーを楽しむ[ラグビー部リレー日記]

投稿日時:2022/12/12(月) 17:50

内藤からバトンを受け取りました、大山です。内藤とは、富山県の人だと勘違いしていたファーストコンタクトから始まり、家にお邪魔してサッカーを見たり一緒にゲームをしたりと、1人でいがちの自分にしては多くの時間を共にしたように思います。ゆるっと話しながらチャリで帰る時間は楽しかったです。最後の2週間はぜひまた一緒に帰りましょう。



 



 



さて、ついに僕にも最後のリレー日記が回ってきてしまいました。最後ともなれば名残惜しい気持ちが湧いてきてすらすらと筆が進むかとも思いましたが、そんなことはありませんでした。これまで通りどんな事を書くか迷ってしまいます。そもそもリレー日記として何かを書き残すに値する生き方をしていない気もしていますが、それでも普段どんな事を考えながらラグビーをプレーしてきたかについて書いてみたいと思います。



 



 



「今の自分を入部当時の自分が見たらどう思うのだろう」



これは今年、特にこの秋の対抗戦期間中に頻繁に考えてしまうことです。このことは、怪我でまともに動けなかったり、チームについていくのでやっとだった昨年までは考えもしないことでした。しかし、プレイヤーとしてもそれなりに成長し珍しく怪我に苦しむこともなく試合に出られているからこそ、自分のラグビーについて色々と考えてしまうのかもしれません。



 



あまり認めたくありませんが、上の問に対する答えは「つまらないウイングになったな」というようなものな気がしています。そう感じる理由は、やはりその頃と今とでプレースタイルやそこに現れる精神性に違いがあることが大きいように思います。簡潔に表すと、学年が上がるにつれてラグビーを心から楽しみ挑戦することができなくなってしまったのではないかと思います。



 



少しだけ話は逸れますが、僕がこれまでずっと理想としてきた選手像は「ボールを持ったら何かが起きそうな選手」「見ていてワクワクする選手」というものであり、高校時代も含めた7年間、常にそのような選手を目指してきたつもりでした。いつでも積極的にボールを要求し、ボールを持ったらまずは必ず外勝負を考える。速い相手とのマッチアップを楽しみつつ、綺麗に抜き去ることを全力で試みる。そんな選手でいたいと思っていました。東大ラグビー部内ではしばしば、各々がボールを持ったら必死のコンタクトでタックラーを乗り潰す、という意味で「強いプレー」という言葉が聞かれましたが、僕にとっての「強いプレー」とはタックルをかわし相手に触れさせないことでした。ヒットをすることはむしろ相手を抜くことを諦めた末の選択肢、くらいに思っていました(僕個人の能力バランスや価値観で考えた場合には、という意味なので、誤解しないようお願いします)。



 



このような理想像を持ってラグビーに取り組んできたつもりでしたが、4年生となった今年は無意識にではありますが、楽な方へと流れてしまっているように感じています。大外でボールをもらっても、外に押し出されるのが怖くてとりあえず内に切り込んでおく。ランで相手を振り切れそうな間合いでもパスを選択する。このような、勝負を避けるような選手になってしまいました。ミスは少ないかもしれませんが、個人的にはつまらないウイングです。



このように変わってしまった大きな理由は、最高学年になってミスに対するプレッシャーや自分が戦犯となることに対する恐れをこれまで以上に感じてしまっているからかもしれません。自分はスポーツにおいてはメンタルが強い方だと思っていましたが、そんなことはなかったようです。同期のプレイヤーから「安定している」とか「飄々としている」とか表現してもらった事もありましたが、自分の中では常にどこか弱さを感じたまま最後の1年間を過ごしていました。



 



ここまで、4年生になってから自分の中で感じている少し暗い内容について書いてきました。しかし、残された2試合ではこれらを払拭したいと思います。自分なりに納得した形で引退したい。大学でもラグビーを続けてきてよかったと自分自身で思えるようなプレーをしたい。このような気持ちが今は湧いてきています。最後の2試合、チームみんなで笑えるよう全力を尽くします。



 



 



最後に、これまでラグビー部でお世話になった方々に感謝を伝えたいと思います。



青山監督・大西コーチをはじめ、4年間で何人もの指導者やトレーナーの方々のお世話になってここまでラグビーを続けることができました。4年間で、ラグビーのことに関わらず多くのことを学ぶことができました。本当にありがとうございます。



チームメイトの皆さんは、感情の起伏が激しく付き合いづらかったであろう自分と仲良くしてくれ、居場所を作ってくださり、とても感謝しています。ありがとうございました。



普段から東大ラグビー部に期待して支援してくださったOB・OG、その他関わってくださった全ての方々にもお礼申し上げます。ありがとうございました。



家族には、普段はあまり言葉にしませんが、大学生にもなってたくさんのわがままを聞いてもらった自覚があります。ありがとうございました。



 



 



次は広報セクションの長として100周年記念事業をはじめ様々なPR活動を進めてくれた、スタッフのえのきにバトンを回します。えのきとは今年に入ってから特に仲良くさせてもらっていて、先輩数人を含めたメンバーで何度か一緒に飲みに行きました。引退したらぜひまた同じメンバーで飲みに行きましょう。

部活動をするということ[ラグビー部リレー日記]

投稿日時:2022/12/11(日) 17:38

玉代勢からバトンを受け取りました、4年の内藤です。玉代勢は練習時、いつも楽しそうです。それは私生活でも同じで、麻雀などではいつも負けているのに明るく、場の雰囲気を盛り上げてくれました。これからも一緒に深みのある会話しましょう。



「ラグビー部で成長したことは何か」

就職活動の中でもよく聞かれた問いだ。私は組織の中で自立した人間に近づけたと答えていたが、正直そこまで実感していない。何が成長したのか、高校時代、まだ野球部にいた頃の自分から振り返ってみた。

高校3年生の最後の夏の大会、私は2試合にフル出場した。チームメイトからの期待、監督からの期待、応援に来てくださったみんなの期待を背に打席に立ったが、一本もヒットを打つことなく試合に負け、私たちの夏大は終わってしまった。もうこんな思いをしたくない。大学ではスポーツから離れようと、そのとき決心した。チームのために責任を持ってプレーする、そんな部活動というものから逃げたかった。

期待に応えられなくて申し訳ない、特に私のせいで試合に出れなかったチームメイトに申し訳ない。試合後に流した涙は悔しさからではなく申し訳なさから流れたものだったかもしれない。

その結果、大学入学後の私はフラフラしていた。色んなサークルの新歓に回る予定だったが、一つも新歓に行けなかった。結局、何かを目指して仲間と切磋琢磨する部活動の方が私には合っていたのだ。先輩の言葉に惹かれ、高校3年生時の決意とは裏腹にラグビー部に入部した。

周りとの遅れを感じながらもラグビーの魅力に気づいた1年生。シニアに混じりさらに自分の不甲斐なさを感じた2年生。初めてスイカジャージを着られた3年生。そして最高学年として迎える今、4年生。

その中で、私には忘れたくても忘れられない試合がある。それは3年生の対抗戦、学習院戦だ。僕はスタメンで出場させてもらったにも関わらず、ひたすらチームに迷惑をかけハーフタイムに交代した。そのまま試合に敗北し入替戦出場というチームの目標まで潰してしまった。申し訳ない気持ちでいっぱいになった。また同じ過ちを繰り返したのだ。高校3年時の自分と重なり、悔しかった。

今年の対抗戦では同じような過ちは繰り返さないと臨んだ。自信はあった。対抗戦のスタメンは3年生のときに経験させてもらった上、直近の慶應戦や早稲田戦での感触は良かった。何よりもラグビーをプレーすることが楽しかった。しかし初戦の上智戦で全くうまくいかず、その自信は不安や焦り、恐怖へと変わった。マインドセットを修正しようともがいたが、1試合も納得がいかないまま対抗戦は終わってしまった。そこには純粋にラグビーを楽しんでいた自分の姿はなかった。

気づけば名大戦と京大戦しか残されていない。このままでは以前と同じで成長したという実感が得られない。全力で練習してジャージを着るに値するプレーヤーになる。そして、チームメイト、監督、コーチ、観に来てくださる方々、自分、全員が悔いの残らない試合にしたい。



最後になりますが、自分の口で直接言うのが苦手なため、この場を借りて感謝の言葉を述べさせてください。

まずは監督、コーチ、先輩といった私に指導してくださった皆さん。1年生の頃、私は正直4年になってもスイカジャージを一度も着られずに終わってもおかしくないと思っていました。言われたことをただ頑張ることしかできない不器用な私に、基礎的なことから親身に教えていただき、結果として試合に出られるようになりました。

次にOBやOG、その他関係者の皆さん。私は不甲斐ないプレーばかりでしたが、東大ラグビー部を応援してくださり、時にはコメントや差し入れといった形でも応援してくださりました。

そして後輩のみんな。練習中や試合中、私が助けるつもりがいつも助けられていました。練習後には一緒に卓を囲むこともあり楽しかったです。今後も期待しています。

そして同期。楽しいときも辛いときも一緒に過ごしてきて、かけがえのない仲間の一員になれたと勝手に思っています。引退しても仲良くしてください。

最後に両親。全然近況とか試合の情報とか伝えず、バイトも全然しない親不孝の子供でしたが、いつも支えてくれました。

このような支えがあって初めて私は部活動を続けてこれました。これまでありがとうございました。



次はしゅうぞうにバトンを渡します。しゅうぞうは怒ると怖いのは確かですが、練習後一緒にグラウンドでだらだらする時間は楽しかったです。よく自転車で帰りながら晩ご飯何にするか相談していましたが、最近は練習後すぐに帰ることが多く悲しいです。
<<前へ次へ>>

2025年9月

<<前月翌月>>
2025/09/20(土) 17:58
Work with ChatGPT? Talk with ChatGPT.
2025/09/19(金) 00:04
素人はSNSするな、僧侶コスプレ、オープンマリッジ
2025/09/16(火) 06:04
帰省について
2025/09/13(土) 22:09
愉快な時期
2025/09/12(金) 23:38
好きなバンドの話
2025/09/07(日) 08:00
メリーアン
2025/09/06(土) 07:30
合宿

アーカイブ

ブログ最新記事