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うれしいたのしい大好き[ラグビー部リレー日記]

 written by 津田 遼大投稿日時:2021/12/20(月) 17:45

垣内からバトンを受け取りました、津田です。

垣内くんは寡黙な男なので、普段は何考えてるかわかりません。

同じポジションなので僕は意識しまくってましたが、ラグビー部入ってすぐこいつには勝てへんな~と気がついたので辞めたくなりました。

遊んで欲しいみたいなので、終わったら遊んであげようと思います。

 

 

はじめに、たくさんのご支援、ご声援をいただいております皆様に感謝申し上げます。今シーズンもあと1週間で無事終わりを迎えようとしております。
昨日の京都大学戦の準備をはじめ、OBの皆様にはいつもご迷惑をおかけしましたが、多々ご指導いただき誠にありがとうございました。
今後とも何卒ご支援、ご声援を賜れますと大変幸甚です。



 

最後のリレー日記ですが、いつもの通り何を書こうかと悩みました。

いつも書くことがありません。いつも適当なこと書いてます。

みんなはラグビー人生を振り返るような内容ですが、そんな振り返るような濃い内容僕にはないな~と思ったので、

とりあえず今の気持ちを書いてみました。

 

今週土曜日に最後の試合を迎えるわけですが、僕の気持ちはというと、

心から嬉しい、が一番しっくりきます。

 

本当に嬉しいです。言葉に言い表せないくらい。

 

やっっと終わる。

 

疲れた。

 

しんどかった。

 

なんでこんなしんどいスポーツやってんたんやろ。

 

ってな感じ。

 

 

選手としては鳴かず飛ばず、今年は主務なんてカッコいい名前がついていましたが名ばかり、実態はスタッフにほとんどの仕事をやってもらってました。

これを読んでくださっているみなさんはおそらく東大ラグビー部を少なからず応援してくださっている方々だと思うのでご存知かもしれませんが、今年のシーズンは杉浦主将のカリスマ的なキャプテンシーと、超優秀なスタッフのおかげでなんとか成り立ちました。

 

今仮に大学一年生の時の僕にアドバイスできるなら、ラグビー部には入らんほうがええぞ、って言います。

「選手としても特に活躍はできひんし、そのほかで爪痕残せるかって言ったらそんなこともないし。多分入っても、お前がこの部に残せるものは何もないぞ。」と言ってあげます。

 

いや、下宿を選んだ父親に「他のところにしよう」と言うかもしれませんね。

もっと遡れるなら「東大受けるのやめといたら?」でもいいですね。

 

東大に入ってなかったらラグビー部には入ってなかったでしょう。

父親が選んだ下宿がたまたま大学に近くなかったらラグビー部には入ってなかったでしょう。

 

巡り合わせって怖いですね。

 

まあラグビー部に入ってしまったわけですが、2か月くらいかな、経った時にはもうやめたくなってました。

しんど。何これ。って感じでした。

 

僕は真面目なので、筋トレとか言われたことはできるだけちゃんとやってましたが、いつも練習前はグラウンド行きたくありませんでした。でした、じゃないですね今もです。明日も練習行きたくないです。

 

仮病で練習休んだことも何度もあります。

コンタクト練習の時は、身体が小さい僕はいつも見世物かのように吹っ飛ばされました。

痛いし、泣きそうでした。

練習前グラウンドの側まで行ったのに、練習が嫌すぎて気持ち悪くなって家にとんぼ返りしたこともありましたね。

 

結局この気持ちは4年間変わりませんでした。うわ~明日の練習いきたくね~。

初心者が大学からやるスポーツじゃなかったです。

 

でも一つだけちょっと自慢できるのは、4年間大怪我をしなかったことです。

ちょい捻挫くらいの小怪我は何回かありましたが、長期間練習を休むような怪我はしませんでした。

 

僕が思うに、サボる時はサボる、ことが怪我をしないコツです。

しんどい時はサボる、気分が乗らない時もサボる、怪我しそうな練習やな~って時もサボります。

 

サボるって悪いことみたいですが、案外大事なことやと思ってます。

しんどい時に無理に練習入って怪我してしまったら元も子もありません。自分が怪我をしなくても自分のせいで周りを怪我をさせてしまう可能性もあります。やりたくないなってちょっとでも思ったらちょっとサボってみる、よっしゃって気合が入った時に練習に入るくらいでいいと個人的には思ってます。後輩ちゃんたちは良ければ実践してみてね。

 

とまあ、結局ざっくり振り返る感じにはなりました。

創部100周年の時に4年生でラッキーでした。昨日はシビれる試合が秩父宮でできました。昨日は楽しかったです。
なんだかんだラグビーの試合楽しいと思えるようになりました。練習は嫌いですがね。

準備をしてくださったOBの皆様、スタッフのみんなには大変感謝しております。

引退したら僕もカッコいいOBになろうと思います。お金もいっぱい出そうと思います。

 

しんどかった4年間でしたが、もう最後が見えているのであと1試合頑張ろうと思います。
ただ明日の朝練は本当に嫌です。

最後になりますが、同期のみんなには感謝しています。
この代でよかったな~って心から思ってます。一個でもズレてたらラグビー部やめてたかも。
みんな大好きです。

 

これで僕のリレー日記を締めくくろうと思います。みんなのやつに比べたらペラッペラの内容でした。
昨日の試合で疲れているので、これくらいでご容赦ください。
 

次は、副将甲斐豊にバトンを渡します。

副将としていつもチームを鼓舞してくれました。すぐにキレがちなので多方面でビビられがちですが、彼の力強さ、ストイックなところは後輩たちは見習って頑張って欲しいなと思ってます。

リーダーとして細かなことにも目を配ってくれてました。彼がいなければ今年のチームはありませんでした。

人生の終わり[ラグビー部リレー日記]

 written by 垣内 太朗投稿日時:2021/12/18(土) 19:00

最近本当にツンデレが激しい吉田からバトンを受け取りました、4年の垣内です。自分から遊びに誘うと嫌がるくせに、彼からは色々と誘ってきます。本当に対応が困ります。彼が一旦部から離れていたときも会うとラグビーの話を必ずしていたので独りでにラグビー部に戻ってくるなと思って(信じて)いました。


自分のラグビー人生を振り返って見たいと思う。内容は長く、つまらないものであるが、最後まで付き合ってもらえるとありがたい。


年中でラグビーを始めた。両親の勧めだが、両親がラグビーをやっていたわけではなく、ただラグビーが好きだったそうだ。小さい頃のことはほとんど覚えていないが、なぜか最初に体験に行った日を少しだけ覚えている。同じ年代の子が楽しそうに走り回っていた。それを見て楽しいと思った。そのラグビーというスポーツが痛くてつらくてしんどいスポーツだとは知る由もなかった。


小学校になると練習が嫌いになっていった。練習で怒られるたびに辞めたい気持ちが募っていった。特に合宿は行きたくなかった。何か事件でも起きて合宿自体がなくなってしまえばいいと思っていた。 以前のリレー日記でも書いたが、とにかく食事の時間が嫌いだった。嫌いな野菜を食べなくてはいけなかったからだ。何回吐いてしまったか、もう今となっては覚えていない。嫌々ではあったが、6年生までラグビーを続けた。理由は三つある。一つは、練習後の達成感だ。嫌で嫌でしょうがなかった練習だったが、それが終わると本当にすっきりとする。逆にサボってしまった日々はずっとモヤモヤが残っていた。二つ目は、みんな頑張っているから一応自分も頑張ろうと思えたことだ。そして三つ目が、単純に親が強引に自分を練習に連れていったからだ。6年生の最後にコーチがいった言葉を今でも鮮明に覚えている。「何かをやめてしまうのは簡単だ。手を上げてやめますと言えばやめることができる。ただ最後まで続けることは難しい。」6年生まで続けてよかったと少し思えた瞬間だった。それでも親には中学でラグビーはやらないと伝えていた。


中学に入ってもラグビー人生は続いた。勝手に親が中学スクールの名簿に登録をしていたのだ。中学に入ると小学校とは違い中学の3学年が合同で練習をするようになる。練習は一層厳しくなり、嫌いな気持ちはさらに募っていった。それでも始めたからには一応続けていた。2年生になると全国大会に連れていってもらった。自分は全く出ていないが、とても貴重な体験をさせてもらった。3年生になると、状況が一変した。これまではA戦に出ることは全くなく、ただ練習をこなすだけだったが、少しずつ試合に出る中でいろいろなことを考え、悩むようになった。単純に練習をすることが嫌なころとはまた違った悩みであった。大変なことも多かったが、スクールでするラグビーは最後であり、ずっとやってきた仲間ともこれでお別れになることを考えるとなんとか続けられたのかも知れない。しかし、正確なところなぜ続ける意欲があったのかもう覚えていない。中学ラグビーの終わりは11年通ったスクールの卒業であり、第1のラグビー人生が終わった気持ちであった。


高校に入るときには、ラグビーを続けることを決めていた。ここまでやったんだから最後まで続けてみよう、それくらいの気持ちだったのかもしれないが、もうラグビーを辞めようとは考えなくなっていた。正直1,2年の頃はあまり覚えていない。問題は3年になった時に起きた(1,2年の頃何もなかったわけではないが、3年の1年間のインパクトが強すぎて薄れてしまった)。同期のほとんどが部活を辞めてしまった。進学校であったため3年になって勉強のために部を辞める人は毎年いたが、自分達の代は例年にない人数が辞めてしまった。夏合宿では、縦割りの部屋であるが、3年生のいない部屋があったほどだ(記憶が正しければ、半分以上が下級生のみの部屋であった)。一時は毎日のように顧問の先生を訪ねて相談に乗ってもらっていた。今思えばただでさえ忙しい先生をあそこまで拘束してしまったのは本当に失礼なことをしてしまった。しかし、それほどまでに悩んでいたのもまた事実であった。キャプテンとは(自分はバイスキャプテン)一緒に悩み、戦った。正直にいうと、キャプテンとは元々あまり仲が良くなかった。しかし、この当時は、心の支えであったし、今では何でも話せる親友になった。秋の公式戦は1回戦敗退で終わった。最初の失点はキックチャージであった。その後、受験勉強に専念し、キャプテン、コーチ、仲間の応援もあり、何とか東大に合格することができた。


大学でもラグビーを続けることは決めていた。東大という伝統あるチームでラグビーができることにワクワクしながら入部をした。1年生のうちはJrにおり、上級生とは別練習を進めていた。上に上がるためにはフィジカルの強化が急務であった。だが、出番は急に訪れた。対抗戦初戦に同じポジションの先輩が怪我をし、2戦目でのリザーブ入りが、決まった。上級生との練習に合流してから2週間後での試合であった。さらに、2戦目の相手は武蔵大学であり、その年ターゲットにしていたチームのひとつであった。最初は緊張から震えが止まらなかった。その緊張が伝わったのか多くの4年生に声をかけてもらった。そこから先のことは全く覚えていない。唯一覚えているのは、足を引っ張り続けたことだ。試合後に監督に呼び出され、「お前のせいで負けそうになったな。」と言われた。この言葉は4年間の糧となった。結局1年生のうちは、途中出場でほぼ毎試合出させてもらった。しかし、ついていくのが精一杯で活躍とは程遠いプレーであった。

2年生になると、スタメンでの出場となった。自分の実力のなさは露呈した。大差での敗戦が続き、全く思うようにいかなかった。うまくいかないと保守的なプレーに走り、成長もせず、辛い日々が続いた。今思うと殻にこもり、負けから目を背けていた。2年生の1年間は体裁ばかりを気にして独りでに思い悩み、迷い、そして現実逃避を続けた1年間であった。

3年生になると、プロコーチによる練習が始まった。少しずつ自信がつき、今年こそ入替戦に出ると意気込んだ。大一番は初戦であった。結果は惨敗。勝てると思い込んでいた。その分結果が重くのしかかった。まだまだ、弱かった。

4年生、最終学年。なんとしても目標を達成しなくてはいけなかった。春は全勝。課題は多くあったものの、まずまずの出だしであった。そして対抗戦。初戦を辛勝し、迎えた2戦目。結果、また惨敗であった。結果4年間入替戦には出られなかった。

4年間目標は変わり続けなかった。目標を持ち続けることが大切だと考え、忘れることはなかった。しかし、目標だけでは何も起きなかった。試合を決めるのは1回の練習の1回のプレーにかける集中力であると考えるようになった。4年間は短い。1回の練習にどれだけ高い緊張感を持って臨めるのか、自分は到底足りていなかった。気づいた頃にはもう終わろうとしている。


今ラグビー人生が終わろうとしている。あんなに嫌だったものも長く続けると愛おしくなる。18年間を思い出すと色々な人の顔が思い出される。本当は1人ずつ名前を上げて感謝するべきであるが、あまりにも多くの人にお世話になったので割愛させていただく。

ずっとラグビーを辞めるなと言っていたのに高校以降怪我をしはじめると逆にラグビーは危ないからやめた方がいいと言ってきた母親。全く逆に、小学校の頃は嫌だったらやめてもいいんだよと言っていたのに今では、社会人になってもどこかで続けるように勧めてくる父親。両親には本当にお世話になりました。未熟な自分を指導し続けて下さったコーチの皆さん、一緒に戦い、支えてくれたラグビー仲間、そしてずっと応援して下さった皆さん、本当にありがとうございます。ラグビーには少しずつ恩返しをしていきます。


次は、「かわいい」を武器に世を渡り歩いている津田にバトンを渡します。1年の頃、彼とはずっと一緒にいました。五月祭もサボって一緒に駒場でウエイトしたのはいい思い出です。同じポジションであることによってずっと意識している部分がありました。また、1年生の頃のように、純粋に、一緒に遊んでくれると嬉しいです。

僕のラグビー人生[ラグビー部リレー日記]

 written by 吉田 有佑投稿日時:2021/12/16(木) 11:51

1年生の時に二人で浅草や上野をデートした石田からバトンを受け取りました、4年の吉田です。石田くんは昔、僕が車椅子生活をしているときに病院まで連れて行ってくれたり、大学内の移動教室を助けてくれたり、学食でトレーを運んだりしてくれました。本当に助かりました。ありがとう。大好きです。


 

今年度の東大硬式野球部の副将を務めた高校同期の水越くんが書いた「僕の野球人生」に感銘を受けたので、僕も「僕のラグビー人生」というタイトルで最後のリレー日記を書かせてもらおうと思います。


 

僕がラグビーに出会ったのは高校合格時、その高校で一番全国大会に近いと聞いていたラグビー部に興味を持ったことがきっかけで、入学前の合格者登校日にラグビー部の先輩が生き生きと新歓している姿に惹かれ、その場で「ラグビー部に入ります!」と宣言したのが始まりだった。高校生の頃は、監督に厳しくご指導いただいたり怪我をたくさんしてしまったりしながらも、純粋にラグビーが好きだという気持ちを根底に持ち続け、楽しく充実した3年間を過ごすことができた。そして高校ラグビーが終わってすぐ、もう既に大学でのラグビーに期待を抱いた。


 

しかし、どこでラグビーをするかということには少し悩むことがあった。歴代の先輩からみて自分の実力に大した自信を持てなかったこと、その上で大学でラグビーを続けるには膝と肩を手術しなければならず一年目は他の同期に差をつけられてしまうということがネックになり、せっかく誘っていただき先生にも熱心に勧めていただいた大学は全く受けることもせず、高校で浪人含め10人弱しか受からない東京大学を受けるというはたからみたら意味のわからない選択をした。


 

ここまで書いているうちに、なぜ自分が東大ラグビー部に入りたいと思ったのかについてそういえば大学一年生の最初のリレー日記で書かせてもらったと思い出したので読み返してみた( http://www.turfc.com/blog_detail/id=1329 )。これを読むと本当に心が苦しくなってしまった。今の自分は、大学一年生の自分が思い描いた3年後の姿から大きくかけ離れてしまっているからだ。もう少し良いカッコで自分のラグビー人生について書こうと思って書き始めたが、今の後輩たち、特に「対抗戦Aで勝つ」という目標を掲げる1年生の良い反面教師にしてもらいたいと思い、ここから方向転換でこうなってしまった自分の正直な思いを書かせてもらいたい。



まず一年生の時、3度手術をし高校時代の怪我の精算をしていたためプレーした記憶はあまりないが、とにかく楽しく期待に胸を膨らませ充実した日々を送っていた。自分たちが歴史を作る代だと信じて疑わず、杉浦と帰り道や家の近くの牛丼屋で自分たちの将来について話したのがとても楽しく記憶されている。



2年生になり復帰できると、その年はとても苦しいシーズンで自分が実際に試合に出てプレーをする中でやはり「対抗戦A昇格」という目標がどんなに難しいものかと嫌でも実感させられた。段々と目標から遠ざかっているような感触もあり、立教戦に大敗した帰りのバスではやっぱり無理なのかな、と悔しさよりも絶望感で涙が出そうなのをずっと堪え続けていた記憶がある。それでも、自分自身にあと2年あるし諦めるのはまだ早いと言い聞かせながら必死にラグビーに向き合い、これから戦う奴の誰よりも真剣に練習し誰よりもトレーニングしてやろうともがき続けた。



そのような中で3年生になると大きな希望が見えた。高校時代にお世話になったコーチの大西さんが東大でもコーチをしてくださることになった。まず第一に、大西さんが東大のポテンシャルを認めてくださったことがとても嬉しく、諦めそうになって苦しんでいた目標が全く諦める必要がない目標だったんだと客観的に裏付けされたように感じた。



この一年で絶対に入替戦出場を果たさなければならないと意気込んで始まった3年生のシーズンは、コロナ禍で練習ができなくなるという大ハプニングに遭った。しかし、このコロナ禍は東大にとって逆に大チャンスだと感じた。練習ができないのはどのチームも同じ中、東大は学生主体で動くことができるというアドバンテージがあると考えたからである。ここで実力を大きく伸ばせばもしかしたら今シーズン中にも対抗戦A昇格を果たせるチャンスがあるのではないかとまで考えた。コロナ禍では、目標実現のために自分ができることを120%でやろうと思い、高校時代から怪我がちだったのが一番の弱点と考え、ずっと試合に出続けられる体を作ろうと自分で工夫して集中的にトレーニングに励んだ。新歓や広報、100周年事業など自分が担当させてもらっている部の仕事も全力でやり、また主体的に動いてくださっていた当時の4年生への感謝のメッセージ動画を3年生以下で作って、練習が再開できた時に目標達成のため一直線で向かえるような準備を積み重ねた。



しかし、練習が再開できて2日目の練習で自分自身が怪我をしてしまった。コロナ禍にたくさん怪我対策をしてきたのに、と思いながらもその対策のおかげで軽症に済んで良かったと思い当初は楽観的だった。ちょっと痛かったが練習しても問題ないだろうと久しぶりのラグビーを早く楽しみたいという甘い気持ちで練習にも参加してしまっていた。しかし、後々ちゃんと検査すると思ったよりも事態は重く、対抗戦本番が近づくと焦りが増し、怪我で自分の思うようなラグビーができないことに強い苛立ちを覚え、さらにギリギリで復帰できたと思ったらその次の練習でまた違う部位を怪我し、初戦にして天王山の明治学院戦に出られなくなってしまった。



その試合直前に、自分の代わりに出るメンバーが「練習だる」と部室で大きな声で話していたのを聞いてしまい、とてもショックを受けたのと同時に、それでも自分よりもそいつの方がよっぽど目標達成に向けてチームに貢献していると思うとやるせない気持ちになった。その明治学院戦は、7-57の大敗であった。チームが負けるのを外から眺めることしかできず、負けると全身から気が抜けるのを感じた。次の試合では無理を言って出させてもらいチームも勝利を収めることができたが、全く嬉しい気持ちが湧いてこなかった。明学に、僅差で負けたならまだしも、勝利できる可能性を微塵も感じることができなかったことが衝撃的で、ああやっぱり無理なんだな、と高校生の時から抱いていた目標を完全に諦めてしまった瞬間だった。その後のシーズンのことはどのような感情で過ごしていたか記憶が曖昧だが、何にもやる気が湧かずYoutubeで動画を見ることすらできず、ひどい日にはトイレに行くのも体が動かずしんどくなってしまうこともあった(汚い話ですが)。



正直なところ一番書きたくない話だが、後輩に反面教師にしてもらいたい点はこの時からの僕の行動である。ラグビー部を一度やめ、復帰した後も正直入替戦出場の実現は難しいだろうと心の中で思ってきた。目標を追うよりも、その時のラグビーを楽しめればいいと思ってきた。応援してくださる方、サポートしてくださる方、まだ目標を追っていたチームメイトには申し訳ないと思いながらも、もう一度スイッチをつけて目標を追いまた辛い気持ちを味わうことが恐かった。卒部する直前になってこんなことを言うのはおかしいかもしれないが、結果、諦めてしまったシーズンが自分にとって4年間で一番つまらないシーズンになってしまった。目標実現に向け諦めずに頑張っている杉浦をはじめ他のチームメイトへの後ろめたさを感じ、その時楽しめれば良いと思っていたラグビーも実際にはあまり楽しめなくなり、自分への情けなさがこのリレー日記を書きながら今になって溢れてきている。やはり4年生でこんなに情けない気持ちを持った人がいること自体が良くないので、ラグビー部に戻ってはいけなかったのではないかと感じている。



こんな4年生が唯一後輩たちに言うことができるメッセージとしては、たった4年間だけのことなんだから絶対に諦めないで欲しいということである。辛くても、一度スイッチを切るともう簡単には元には戻れない。掲げている目標は簡単ではないけれども、それを追っている時が後から考えると一番価値のある時間だったと感じる時が来ると思う。こんなことを偉そうに言うのは憚られますが、こんだけ後悔しながらバッドエンドで卒部していく先輩もなかなかいないと思うので、ぜひ他人事ではなく自分ごととして聞いてもらえるとありがたいです。



そういえば「僕のラグビー人生」というタイトルで書き始めたのを忘れ、話は脱線し情けない先輩から未来ある後輩へのメッセージになってしまった。最後にちょっとだけ決意を込めて今後のラグビー人生について書きたい。こんな思いで大学ラグビーを終えてしまうことになったが、卒業後もありがたいことにラグビーを続けさせていただける道を残していただいた。大学では大きな後悔を残すことになったので、次のステージでは諦めずにラグビーを本当の意味で楽しめるよう日々全力で挑んでいきたい。東大で学んだことを決して無駄にしてはいけないと感じている。



最後になってしまいましたが、これまで僕がラグビーを続けてきた中で思い返すと本当に多くの方々の顔が浮かびます。読んでくださっているかどうかわからないような場所で感謝の気持ちを述べるのは失礼に当たると感じたので、直接お会いした際に一人一人にきちんとお礼を述べさせていただきたいと思います。ですが、確実にこのリレー日記を読んでくれているだろう両親には、直接恥ずかしくて言えないこともあるのでこの場を借りて、感謝を述べさせてもらいます。



高校でラグビーを始めてからたくさん心配をかけ、医療費や食費などお金も弟より多く使ったと思います。それでも、これまでずっと応援し続けてくれて、一度もラグビーすることに反対せず、普通の人なら社会に出て働いている歳までラグビーをさせてもらってありがとう。これから少しずつ親孝行ができればと思います。


 

次は、二人で三浦半島一周ドライブをしたり鎌倉に2回も一緒に行ったりした垣内にバトンを回します。垣内の紹介は困るので順番を変えて欲しいって言ったのに変えてもらえなかったので困っています。紹介することがないので、2年生のヘタコンの時に垣内が僕の胸の中で大号泣していたことをここで暴露させていただきます。あの時もすごく困りました。

自信[ラグビー部リレー日記]

 written by 石田 健太郎投稿日時:2021/12/14(火) 17:00

 いつの間にか頼れるFWリーダーになっていた純輝からバトンを受け取りました。4年の石田健太郎です。彼の日記内でも触れられていたジュニア期間を僕も一緒に過ごしました。当時はAチームに全く関われないことに歯痒さを感じたりもしていましたが、今になって思い返せば、同期と一緒に必死に汗を流したあの時間はとても貴重な大切な思い出です。

 3年前は万年ジュニアだった僕も、もう引退が目前まで迫ってきています。これからの部活関連の出来事ほぼ全てに「最後の」の枕詞がつきまとうことになり、そのことを自覚して以来より一層、引退というイベントの重さを身に沁みて感じています。
 さて、学生ラグビー最後となる今シーズン、僕はいくつか裏テーマを掲げていました。「怪我をしない」はそのうちの一つです。度重なる細かい負傷と脳震盪による長期離脱でロクにプレーできなかった2年目のような、チームに貢献できない惨めさを味わいたくなかったからです。そのために自分なりにやれることはやってきました。4時半起きがしんどくて食欲がない朝でも朝食を十分食べて増量に努めること、絶望的に体が硬くても毎晩ストレッチをすること、小さいことの積み重ねではありますがそれなりに続けることができたと思います。
 実際、僕は今シーズンを大怪我なしで生き延びることができました。僕自身が離脱しなかったことでチームにどれだけ貢献できていたか定かではありませんが、例えゼロ貢献だったとしても最後の1年間何もプレーできないよりかは幾分かマシだとは思いますし、そういう意味では良い締めくくりを迎えられそうです。

 最後のリレー日記になっても歯切れの悪い自己評価が改善することはありませんでした。心の底からの自信の無さが文面に表れています。この「自信」こそが、僕の中での最大のテーマでした。
 不思議なことに世の中には、どこから湧いてくるのやら自信に満ち溢れて生きている人間がたくさんいます。非常に皮肉めいた言い方のようですが、別に貶す意図があるわけでもなく、僕はそういう人たちが心底羨ましくて仕方ありません。
 昔の僕は線が細くて気も弱く、クラスの女子に嫌なちょっかいをかけられても何も言い返せず泣き寝入りしてしまうような子どもでした。今思い返せば他愛もないかわいい思い出とも言えますし、実際そんな性格でもそれなりに生活できていたので今更蒸し返すようなことでもないのですが、根っこでは自分の弱さに対して沸々と思うところがあったような気がします。
 そんなとにかく弱い自分を変えたいと思っていた折に、高校のラグビー部に出会いました。渡りに船とはまさにこのこと。体が大きくて中身もかっこいい先輩方と触れ合う内に、僕もラグビーを通して強くなれば自信も勝手についてくるだろうと思うようになり、ラグビー部以外の選択肢は頭から無くなっていました。ラグビーのラの字も知らなかった当時65kgの少年は、人生を変えうる大きな決断をしたのです。しかし蓋を開けてみると、それまであまり運動経験がなかった僕にとってラグビーは非常にハードなスポーツでした。2年目までは練習についていくのが精一杯で、ラグビーをする楽しさがわかり始めたのは高3の夏頃だったように思います。そして、ラグビーに楽しみを見出せるようになっても、自分に自信を持つことは全く別問題で、そのメンタルは引退までほとんど変わることがありませんでした。
 大学受験で東大に現役合格できたことすらも自信にはなってくれなかったので、自分を変える挑戦を続けるために東大ラグビー部の門を叩きました。大学ラグビーは高校までとはワケが違い、思いがけず更なる苦労を経験することになりましたが、その4年間の詳細については、今までのリレー日記でも何度か触れてきましたし、ここでは省かせてもらおうと思います。俯瞰的に振り返ってみて思うこととしては、最後まで確固たる自信を持つプレーヤーにはなれなかったということです。「今日はいいプレーができた」と胸を張って言えたことは一度もありませんでした。
 悪いことばかりではありません。まず身体はかなり強くなりました。体重は最高で101kgを記録し、ラグビーを始めた頃に比べるとほぼ1.5倍に膨れ上がりました。そのおかげでコンタクトやスクラムなど、少なくとも自分のプレーのいくつかの部分に関しては自信を持てるようになりました。それらの個別指導で後輩たちに頼ってもらえるようにもなりました。喜ばしい限りです。また、7年間も続けていれば当然と言えば当然ですが、分析やプライベートでの数多くの試合観戦の賜物でしょうか、ラグビーというスポーツに対する理解度がかなり深まったと思います。実際のプレーに繋がるかどうかは別として。(僕の場合はここを繋げるのが一番の課題だったわけですが)
 よかったことは挙げていくとキリがなさそうです。ありきたりな結論ではありますが、東大ラグビー部に入って本当によかったと心から思います。ラグビー部でないと経験できなかった出会い、挑戦、喜び、挫折、全てが今後の僕の糧になってくれると信じています。残りの2試合では、僕に出せる全てをぶつけてチームに最後の恩返しをしたいと思います。

 最後になりますが、4年間本当に多くの人にお世話になりました。朝練で4時半に起きる日も夜練で22時に帰る日も美味しいご飯を用意し、精神的にもずっと支えてくれた両親。下手くそな僕に指導をしてくださった先輩方、ジュニアコーチ、コーチ陣の皆さん。不器用ながら愛のある(と僕は信じている)接し方をしてくれた後輩たち。そして4年間一緒に戦った同期。皆さんのおかげで非常に充実した4年間を過ごすことができました。

 最後までお読みいただきありがとうございました。
 次は、爆発的な強いプレーでチームを引っ張り続けた吉田です。変なエピソードが多い彼は何を考えているかわからないときもありますが、その裡には誰よりも熱いものを持っていると僕は勝手に思っています。僕以上に怪我に悩まされ続けたであろう彼の4年間の思いは察するに余りあるものです。
 

挑戦[ラグビー部リレー日記]

 written by 松本 純輝投稿日時:2021/12/12(日) 18:14

北野からバトンを受け取りました4年の松本です。北野は普段はどぎついいじりやボケを披露する一方で、ラグビーをしているときには熱いハートでみんなを鼓舞してくれます。本当に頼もしいです。
ただ我が家に来るたびに何か持っていけるものはないかと物色するのだけはやめてほしいです。

改めて四年間を振り返ってみると、新しいことへの挑戦ばかりだったと思う。
2015年のW杯でラグビーに惚れ、大学からラグビーを始めたが、ただラグビーを初めてやるというだけでなく、自分よりも圧倒的に上手な集団の中に入ること自体が初めてだった。
自分はいつも先行逃げ切り型だった。生まれた時から体が大きかったから運動はそこそこできたし、中学受験の塾にもかなり早くから通い始めたから勉強もある程度はできた。
中学の野球部でも、ろくに練習せず少年野球の時の貯金で試合にでて、高校になって中学から始めたメンバーに追い抜かされると逃げるようにやめた。
何とかして追いついてやろうと思った経験なんてほとんど一回もなかった。

ラグビー部に入り、当たり前だが周りには自分より上手な人しかいなかった。同期には10年以上ラグビーをやっている奴もいれば、未経験者なのにやたらと体が大きいやつもいた。
先輩の試合を見ても、新歓期に「未経験者でも活躍できます」と謳っている割にはほとんど経験者しか試合に出ていなかったし、将来自分が試合で活躍できるのか不安しかなかった。
普通にやってもどうせ試合に出られないんだろうと思ったからこそ、開き直ってとにかく必死にやってみようと思えた。
そんな中で、経験者も含めて、同期とジュニアで一年間みっちり練習できたことは自分にとってすごく大きな経験だった。大学以前は様々な面で変なプライドがあって、同級生、ましてコーチにも自分からアドバイスを求めたことはなかった自分が、自分から人に聞くようになった。多分他の人は今までの人生で当たり前にこういうことをしてきたんだろうけど、
自分にとっては初めての経験だった。あまりにもレベルの低い話かもしれないけれど、今までで初めて一つのことに真剣に打ち込むっていうことをしてきた。

そして4年になりコアチームや、紆余曲折を経てF Wリーダーという、これまた経験したことのない立場にもなった。これまで自分はリーダーといえばせいぜい文化祭の出店の責任者くらい、組織の中で何も考えずについていくことの方が多かった。
初めての立場に何をすればいいのかもわからず舞い上がってしまい、口ばっかり達者になろうとした事もあったし、肝心の自分のプレーに注意が行かない事もあった。今塩谷と北野に「F Wリーダーの座を奪った」とリレー日記でいじられているけれど、それくらいの気概や積極性が自分に足りない事だとも思う。自分のダメなところ、自分の力不足なこと、頼りないことばかりがわかって、正直いってしんどいなと思い続けた経験でもあったが、それに向き合えただけでも成長しているのかもしれない。

完全に引退した人間のような書き方をしてしまったが、まだ僕たちには2試合残っている。そのうちの1試合はそれこそこれまで経験したことのないような舞台、人の前での試合になる。今からでも舞い上がりそうだが、自分はこの四年間経験したことのないことばかりの中で無我夢中でやってきたんだという自信を持って、体を張ってプレーしたい。

最後になりますが、四年間お世話になったチームのみんな、コーチの方々、特に同期には感謝してもしきれません。間違いなく今までで最も充実していた時間でした。
家族にも、自分の好きなことをやり続けるためにたくさんのサポートをしてもらいました。本当に感謝しています。

次は同じ分析チームのメンバーとして頑張ってきたイシケンにバトンを渡します。
彼には分析の仕事を雑に振ってしまったり、個人練習の相手をしてもらったりと色々と迷惑もかけてきましたが、150パーセントのやる気で嫌な顔せず応えてくれました。
 
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